先の書評記事の後半、私の見るところのマイナス点というか批判点について転載します。
書いた後、改めて考えてみますと、この著者に限らず歴史に関する一般的な「語り」に何かが重要な点が決定的に欠けていると感じられてしまうのは、人間にとって言葉とは本来どういう内面的意味と機能を持っているのか、そしてその言葉が構成する物語=歴史観=コスモロジーとは我々にとって何であるのか、要するに人間の内面(個人にとっての心/集団にとっての文化)にはいかなるリアリティがあるのか、という言説以前の前提が、あたかも盲点にあるかのように無自覚になっているためだと思う。
にもかかわらず、その無自覚の上に「歴史」という本来的に物語的・内面的・文化的なカテゴリーに属する事柄を語ろうとすることで、ここに根本的な矛盾が生じているわけである。
この非常に居心地の悪い違和感――要するに「心に意味がないんだったら、『歴史を語る』なんてそれこそ意味ないでしょ?」ということだ。
本書には、この無自覚とそこから生じる矛盾が、きわめて典型的な形で顕著に現れていると思われる。
それがために、著者・原田氏はある種「得意になって」対象となる「維新物語」を批判しているのだが、その足下への顧慮がまったくおろそかになっていて、舌鋒鋭く批判を飛ばして物語を突き崩しつつ、自分自身だけはその例外になって個人的・感情的動機にもとづいて白か黒かで何かを語ってしまうという、言葉は厳しいようだがかなり恥ずかしいというか滑稽な姿勢になっていると見えてならない。
書いているように批判とは代案があって初めて意味をなすものだと私は思う。本書については、まさしく「批判のための批判」という批判が当てはまるであろう。
(かく言う私も同様の批判が当てはまることになるのであり、自身の立ち位置を述べておけば、岡野守也氏(サングラハ教育・心理研究所主幹)が提案している「神仏儒習合(とりわけ仏教)により涵養されてきた日本的コスモロジー」という線が、有力な代案として非常に当たっているのではないかと考えている。詳しくは会報『サングラハ』バックナンバーを読んでいただきたいです。私が編集していて、ほんとに読者が増えてほしいと思います。)
【書評『明治維新という過ち』 つづき】
本書に対する批判点
一方、「明治維新」の全否定的な批判を展開するに当たり、著者は「虚偽」「デタラメ」「過ち」「狂気」「罪悪」等々といった極端な言葉を全編で多用しており、バランスを失った白か黒かの二元思考に陥っているとの印象が強い。また批判の根拠が明確に読み取れない点が多く見受けられる。
そしてその上で語られる本書の「官軍教育」に対する代案とは、後半の章で語られているように、いわば敗者への共感ないし武士道精神への情緒的な回帰とも言うべきもの(著者は自覚的に「感情的」と述べている)にとどまっていて、それ以上の展望がない。そのために上記の批判が建設的に活かされているとは思えないのである。さらに、著者は特に自身の来歴からそうした「武家が具現した日本の精神文化」を強調しある種称揚するのだが、一方で本書の記述からはそれが具体的に何を意味するのかが掴めず、また言及されるのはわずかに戦国時代までで、その精神がいかなる伝統と蓄積によって形成されてきたのかも判然としない。
思うに、ここには(著者が冒頭で強調したはずの)「永い時間軸」という通史的な視野と、歴史という内面的な営みが本来何を意味するかという根源的な問いの両方が欠けているのである。これではいわゆる歴史好きや歴史業界関係者以外の大多数の日本人にとって意味ある提言にはならないし、特に歴史をはじめ「大きな物語」そのものをはなから脱構築されロストしている七〇年代以降生まれの世代には、「面白い(けどそれが何?)」という以上の意味を持たないであろう。
まとめ
著者自身の問題意識は「私たちは目下日本人としての基盤を喪失しつつあって、それは『明治維新』以降現在に至る『官軍教育』に原因している」という点にあり、それ自体は鋭く的を射ていると感じられる。だからこそ、そこに新しい史観・コンテクストの提案がないのは残念である。
特にその問題意識の原点として、新政府主導の仏教文化殲滅運動たる明治初年の「廃仏毀釈」に第一章冒頭で言及し、それが神仏習合の伝統文化を破壊したとしながら、著者が「武家が担った精神文化」と曖昧かつ情緒的に表現しているところの、日本人の伝統的コスモロジーを本書は語り得ていない。そのため、一体「官軍教育」によって何が破壊され、何が断絶し、その結果私たち日本人がどうなってしまっているのかが掴めないのである。例えば、この点について核心を突いているとして、本書の結論の箇所で引用されている司馬氏の一文、「―われわれが持続してきた文化というのは弥生式時代に出発して室町で開花し、江戸期で固定して、明治後、崩壊をつづけ、昭和四十年前後にほぼほろびた」とは、単に文化のみならず、それら文化を包摂していた日本的コスモロジーの崩壊過程への悲嘆として読み取らなければ、著者の問題意識からは意味をなさなかったはずである(研究所主幹による神仏儒習合の日本的コスモロジーの考察については本誌の過去の号を参照されたい)。
私たち日本人は明らかに「官軍教育」によって「洗脳」されてきている。しかし教育そのものが著者も述べているとおりある種の洗脳―価値観の内面化であって、さらに歴史とは集団のアイデンティティを担う大きな物語にほかならず、そのいずれもが必然で避けられないのなら、批判を超えて「今の危機の時代に当たり、国民として結集するための新しい史観は、この線ではどうだろうか」という代案の提示こそあるべきだろう。その意味で、本書はいまだ「脱洗脳」のレベルにとどまっていると評さざるを得ない。
このようにいわば竜頭蛇尾にとどまる本書ではあるが、その「竜頭」が本物だとの印象は確かである。その上で、肝心の竜の胴体をどう描くか、すなわち物語としての歴史をどう回復するかが、これからの私たちの課題となるであろう。ともあれ、本書は危機の時代に対処すべく、日本人が歴史=国民的アイデンティティを健全に取り戻すという作業の手がかりとして、必読であると思われる。
(終り)
書いた後、改めて考えてみますと、この著者に限らず歴史に関する一般的な「語り」に何かが重要な点が決定的に欠けていると感じられてしまうのは、人間にとって言葉とは本来どういう内面的意味と機能を持っているのか、そしてその言葉が構成する物語=歴史観=コスモロジーとは我々にとって何であるのか、要するに人間の内面(個人にとっての心/集団にとっての文化)にはいかなるリアリティがあるのか、という言説以前の前提が、あたかも盲点にあるかのように無自覚になっているためだと思う。
にもかかわらず、その無自覚の上に「歴史」という本来的に物語的・内面的・文化的なカテゴリーに属する事柄を語ろうとすることで、ここに根本的な矛盾が生じているわけである。
この非常に居心地の悪い違和感――要するに「心に意味がないんだったら、『歴史を語る』なんてそれこそ意味ないでしょ?」ということだ。
本書には、この無自覚とそこから生じる矛盾が、きわめて典型的な形で顕著に現れていると思われる。
それがために、著者・原田氏はある種「得意になって」対象となる「維新物語」を批判しているのだが、その足下への顧慮がまったくおろそかになっていて、舌鋒鋭く批判を飛ばして物語を突き崩しつつ、自分自身だけはその例外になって個人的・感情的動機にもとづいて白か黒かで何かを語ってしまうという、言葉は厳しいようだがかなり恥ずかしいというか滑稽な姿勢になっていると見えてならない。
書いているように批判とは代案があって初めて意味をなすものだと私は思う。本書については、まさしく「批判のための批判」という批判が当てはまるであろう。
(かく言う私も同様の批判が当てはまることになるのであり、自身の立ち位置を述べておけば、岡野守也氏(サングラハ教育・心理研究所主幹)が提案している「神仏儒習合(とりわけ仏教)により涵養されてきた日本的コスモロジー」という線が、有力な代案として非常に当たっているのではないかと考えている。詳しくは会報『サングラハ』バックナンバーを読んでいただきたいです。私が編集していて、ほんとに読者が増えてほしいと思います。)
【書評『明治維新という過ち』 つづき】
本書に対する批判点
一方、「明治維新」の全否定的な批判を展開するに当たり、著者は「虚偽」「デタラメ」「過ち」「狂気」「罪悪」等々といった極端な言葉を全編で多用しており、バランスを失った白か黒かの二元思考に陥っているとの印象が強い。また批判の根拠が明確に読み取れない点が多く見受けられる。
そしてその上で語られる本書の「官軍教育」に対する代案とは、後半の章で語られているように、いわば敗者への共感ないし武士道精神への情緒的な回帰とも言うべきもの(著者は自覚的に「感情的」と述べている)にとどまっていて、それ以上の展望がない。そのために上記の批判が建設的に活かされているとは思えないのである。さらに、著者は特に自身の来歴からそうした「武家が具現した日本の精神文化」を強調しある種称揚するのだが、一方で本書の記述からはそれが具体的に何を意味するのかが掴めず、また言及されるのはわずかに戦国時代までで、その精神がいかなる伝統と蓄積によって形成されてきたのかも判然としない。
思うに、ここには(著者が冒頭で強調したはずの)「永い時間軸」という通史的な視野と、歴史という内面的な営みが本来何を意味するかという根源的な問いの両方が欠けているのである。これではいわゆる歴史好きや歴史業界関係者以外の大多数の日本人にとって意味ある提言にはならないし、特に歴史をはじめ「大きな物語」そのものをはなから脱構築されロストしている七〇年代以降生まれの世代には、「面白い(けどそれが何?)」という以上の意味を持たないであろう。
まとめ
著者自身の問題意識は「私たちは目下日本人としての基盤を喪失しつつあって、それは『明治維新』以降現在に至る『官軍教育』に原因している」という点にあり、それ自体は鋭く的を射ていると感じられる。だからこそ、そこに新しい史観・コンテクストの提案がないのは残念である。
特にその問題意識の原点として、新政府主導の仏教文化殲滅運動たる明治初年の「廃仏毀釈」に第一章冒頭で言及し、それが神仏習合の伝統文化を破壊したとしながら、著者が「武家が担った精神文化」と曖昧かつ情緒的に表現しているところの、日本人の伝統的コスモロジーを本書は語り得ていない。そのため、一体「官軍教育」によって何が破壊され、何が断絶し、その結果私たち日本人がどうなってしまっているのかが掴めないのである。例えば、この点について核心を突いているとして、本書の結論の箇所で引用されている司馬氏の一文、「―われわれが持続してきた文化というのは弥生式時代に出発して室町で開花し、江戸期で固定して、明治後、崩壊をつづけ、昭和四十年前後にほぼほろびた」とは、単に文化のみならず、それら文化を包摂していた日本的コスモロジーの崩壊過程への悲嘆として読み取らなければ、著者の問題意識からは意味をなさなかったはずである(研究所主幹による神仏儒習合の日本的コスモロジーの考察については本誌の過去の号を参照されたい)。
私たち日本人は明らかに「官軍教育」によって「洗脳」されてきている。しかし教育そのものが著者も述べているとおりある種の洗脳―価値観の内面化であって、さらに歴史とは集団のアイデンティティを担う大きな物語にほかならず、そのいずれもが必然で避けられないのなら、批判を超えて「今の危機の時代に当たり、国民として結集するための新しい史観は、この線ではどうだろうか」という代案の提示こそあるべきだろう。その意味で、本書はいまだ「脱洗脳」のレベルにとどまっていると評さざるを得ない。
このようにいわば竜頭蛇尾にとどまる本書ではあるが、その「竜頭」が本物だとの印象は確かである。その上で、肝心の竜の胴体をどう描くか、すなわち物語としての歴史をどう回復するかが、これからの私たちの課題となるであろう。ともあれ、本書は危機の時代に対処すべく、日本人が歴史=国民的アイデンティティを健全に取り戻すという作業の手がかりとして、必読であると思われる。
(終り)
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