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書評『逝きし世の面影』(渡辺京二著)1

2016-04-16 | 書評『逝きし世の面影』(渡辺京二著)


はじめに

本書は、江戸時代・徳川期日本という、私たちが知っていたようで実は全く知らなかった「われら失いし世界」を、おそらく初めて明らかにした研究であり、たとえそれが著者の本来の意図ではなかったとしても、今や失われた古き日本文明の実質に迫る最良の書というにふさわしい、画期的な業績として評価されるべき名著だと思う。そして本書が示した近代以前の日本の実像を前提としてでなければ、私たちは自身の歴史=ルーツを理解しそれにアイデンティファイすることにおいて、これまでずっと無自覚にそうしてきたように、今後とも躓き続けることになると思われてならない。本書が説得力をもって描き出した、かつてこの国にあった高度でかけがえのない文明の姿とは、それほど鮮烈であり、私たちの心の深層、言い換えれば日本人の「魂」を揺さぶるものがある。



著者とその執筆意図について

著者・渡辺氏は、初版当時予備校講師であったという在野の思想家であり、だからこそ、後述のアカデミズムの業界事情から自由な立場で本書を執筆できたのであろう。人格形成期に敗戦と価値崩壊を経験した世代(一九三〇年生まれ)に属しており、特に少年期を満州で過ごしたという来歴から、その体験が苛烈なものであったろうことが推察される。そのためか著者の問題意識は日本近代に集約されており、初版にシリーズ名として「日本近代素描Ⅰ」と付されているとおり、本書は無残に滅亡した近代日本を問う「長い旅」の出発点という位置づけで書かれている。にもかかわらず、その執筆意図とは別の意味で、本書の功績は大きいと考えられる。


本書の意義

端的に言って本書の意義は、近代化以前の古きよき日本文明の実像に初めて適切な方法でアプローチし、それを活写したところにある。
「古きよき日本」―しかしこうした言説に対しては、「感傷的な懐古趣味」「安易なお江戸礼賛」「過去礼賛への耽溺」「現実を直視できなかった悪書」といった類いの批判が、直ちに・反射的に予想されてしまうし、実際に本書に対してはそうした批判がなされているらしい。しかし、本書が前もってを予想し考察しているとおり、それらの批判は的外れである。もちろん、「外国人(ほぼ白人)にお褒めいただく」といった態の、明らかに国民的な自信喪失と表裏にある病的な日本礼賛がメディアでまかり通っている現在だけに、安易な自己称揚に陥ってはいないか慎重な判断を要するのは当然だろう。しかし一読すればわかるように、本書の論述はそうした退行的な集団的自己愛によるものとは根本的に異なる。にもかかわらず、本書の業績がそうしたものと混同して批判されるとすれば、それは日本人にとって不幸な損失というほかない。
そのように、本書の画期的な意義は、当時訪れた異邦人の外からの眼によって、近代以前の古き日本文明の生き生きとしたイメージをもたらしている点にある。著者は言う。「……幕末・明治初期の外国人による日本観察記のいくつかを初めて通読する機会を得たのだが、彼らが描き出す古き日本の形姿は実に新鮮で、日本にとって近代が何であったか、否応なしに沈思を迫られる思いがした」。そして、日本社会の構成員が書いた文献史料に立脚する従来の方法ではなく、異邦人の眼を通じてありし日の文明を追体験するという姿勢に、意図的に徹している。ここには、歴史というものが本来属する集団の内面の次元、K・ウィルバーの四象限理論でいう左下象限の本質である、意味すなわち「意の味」がある。だからこそ、比較的大冊の書であり、また思想的・思索的な格調高い文章であるにもかかわらず、読者は流れるようにそこに引き込まれるのであろう。
本書を通じて読者が追体験できるのは、幕末から明治初期にかけて訪れた外国人が、いろいろな振幅を含みつつも、ほぼ一様に評価ないし賞賛した古き日本文明の世界であり、それは近代ニヒリズムと集団的アイデンティティ喪失に立ちすくむ現代日本の私たちにとって、非常に鮮烈で、あえて言うならばまぶしく感動的にすら感じられるものである。しかしその文明は、明治国家による近代化の過程で急速に死滅していかざるをえなかった。彼ら異邦人の多くはすでに開国当初の早い時点で、彼ら自身がもたらす近代文明により眼前の日本文明が近い将来確実に滅亡することを予測して、次のような感慨を抱かざるを得なかったという。(以下、〔 〕で囲んだ箇所は評者による。)

 下田に来泊したイギリスのエルギン使節団の一艦長に対して、彼〔米国初代駐日公使ハリス〕は「日本人へのあたたかい、心からの讃辞」を漏らすとともに、「衣食住に関するかぎり完璧にみえるひとつの生存システムを、ヨーロッパ文明とその異質な信条が破壊し、ともかくも初めのうちはそれに替るものを提供しない場合、悲惨と革命の長い過程が間違いなく続くだろうことに、愛情にみちた当然の懸念を表明」せずにはおれなかったのである。(本書初版本一〇頁、以下同じく初版本による。)

 「いまや私〔ハリスの通訳ヒュースケン〕がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてそのどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終りを迎えようとしており、西洋の人々が彼ら
の重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない。」(同)


彼らが自らの外交上の任務にもかかわらず哀惜の念を表せざるを得なかった古き日本文明の「扼殺と葬送」が、当の日本人自身によって今に至るまでおめでたくも「文明開化」とされてきていること、そして古き文明はいまやその影すら見出すことができないことの意味を、ここで考えないわけにはいかない。

(『サングラハ』より転載、以下同じ)


10 コメント

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Unknown (aaa)
2017-08-02 21:35:35
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Unknown (bbb)
2017-08-02 21:35:55
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Unknown (ccc)
2017-08-02 21:36:17
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2017-08-02 21:38:09
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2017-08-02 21:38:29
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2017-08-02 21:38:52
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Unknown (www)
2017-08-02 21:39:08
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2017-08-02 21:39:24
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Unknown (xxxx)
2017-08-02 21:39:46
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