〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

講座「『摂大乗論』入門」について

2017-08-28 | サングラハ教育・心理研究所関係
 サングラハ教育・心理研究所の講座について、続いて8/27日曜開催の、岡野守也氏による東京講座「『摂大乗論』入門」の第2回講義について報告したいと思う。

 今回のシリーズは10月以降開催予定の大乗仏教・唯識の代表的論書である『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』全巻講読に向けた、入門的概説の第2回目である。
 先述の土曜講座で触れたように、仏教の発展形態として日本に伝わった大乗仏教のなかでも、心理学的・理論的説明として最もすぐれたものと講師が評価している論書で、古代の著者・無著(アサンガ)が著したものである。

 無著と言えば、開催中の「運慶展」などでご存じのとおり、運慶の手になる興福寺の名高い立像がよく知られているが、実際に彼が歴史上実在した論師であることや、彼が何をした人物であるかはほとんど知られていないと思う(私もサングラハの講座ではじめて知った)。

 今回、現代の文献的に言えば全十章のうち、前回までの第一章(アーラヤ識について)、第二章(三性説)に続く内容が解説された。

 第三章では覚りの方法(多聞薫習及び瞑想)と修行の段階論(五位説)、第五章では覚りの段階論(十地説)、第六章では大乗仏教における戒律の違いが、第七章では大乗仏教における瞑想の違いが、それぞれ述べられている。
 (なお、第四章の六波羅蜜説は特に重要な核心的内容なので次回以降に詳述される予定。)

 ともかく仏教の門外漢が見ても、唯識が覚りの智慧と慈悲を得、それをさらに深め=高めるという目的のための心理学的・修行的方法論として、非常にシステマティックに整備されていることがよくわかる。
 古代の仏典にもかかわらず、現代の個人性の心理学をはるかに超えた超個性=トランスパーソナルの深層心理学が、単に理論としてではなくて瞑想修行といういわば内面的実験の根拠に基づいて述べられているのは、じつに驚くべきことだと思う。

 たいへん奥深い内容であり、入門的概説とはいえ、一凡夫である不肖・私ごときが安易に語ることはできないと感じられる内容であった。
 ――とはいえ、そもそもその凡夫性こそが覚りの根拠だと、『摂大乗論』は冒頭で力強く述べている。そうした凡夫性に安住することは人生の時間の無駄遣いということであろう。

 一点だけ、覚りというのは一足飛びのジャンプ(頓悟)ではなく、覚ったらさらにその覚りを生涯をかけて(仏教的世界観からすれば来世までも)深め続ける歩み(漸悟)であるということが、修行の実践に即しているという。第五章等で語られ、講師の修行体験にも裏付けられているというその事実は、私たちの「覚り」ということにに対する文化的イメージを覆すものだ。覚りとは、私たちの人間的成長の延長線上にあるのである。

 そして覚りは慈悲と一体でなければ本物ではないという指摘は、覚りが空=宇宙の一体性に目覚めるものであれば、たしかにそのとおりだと思わせるものがある。
 そしてまさに私たちにもつながる修行者の実感が述べられていると思うのは、『摂大乗論』がそうした「そのとおりだと思う」こと、すなわち「真理に似た」心に浮かぶ内容を「意言分別(いごんふんべつ)」であると、正確に指摘していることだ。

 古くさい神話や呪術、または葬式・法事の文化にすぎないと思い込んでいた仏教とは、その中核は何と途方も無く深く、また修行的心理体験的にリアルに基づくものかと、認識を新たにさせられる講義であった。

 予定を延長し、続いて次回に第九章(涅槃について)、第十章(仏の三身説)が解説されることとなる。

 仏教に興味のある方だけでなく一般の方、特に日本文化、日本人としてのアイデンティティに興味・関心のある方は、こうした大乗仏教理解にぜひ触れていただきたいと思う。

コメントを投稿