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久しぶりの投稿。色々あって色々と思うこともあり、色々な映画を観て本も読み、多量のインプットに溺れかけてました
まずはメインの写真。このCDは9月に新宿のタワレコで見つけて買ったんだと思う。Amazonの履歴になかったから笑
いまだに・たまーに・CDも買います
ノスタルジーというのもあるけど、ハイレゾ未満MP3以上というCDの音質は、聴き慣れてるせいもあるけど元の録音さえ良ければ全然・悪くないと思う。
このエルフェのCDを見つけた時の衝撃はMobyのグラモフォンのアルバムとか久石譲氏のグラモフォンのアルバムを見た時以上のインパクトがありました。
感涙エルフェ先生、良かったね
2004年に亡くなって20年後に手に取ることになるとは。
この録音は長らくずーーーーっとお蔵入りで、もう世に出ることもないだろうと思われていた幻の録音と言われていたもの。
エルフェがグラモフォンのために録音してリリースされる予定だったのが、ポリーニが「ブーレーズの2番のソナタを録音する」という事態になり、しかもベルクのソナタも録音することで完全に被ってしまい、グラモフォンとしてはポリーニを優先せざるを得なくなってエルフェの録音はお蔵入りとなったという経緯だったんです。
それが
ポリーニも死んで、グラモフォンとしても気兼ねなくリリース出来ることになったわけだ(か?)。ブーレーズが亡くなった(ポリーニ大嫌いなんでタヒ)直後もグラモフォンはポスト・クラシカルをけっこうリリースしだしたので、巨匠の死というのは寂しいながらも遅きに失する面も多々あるという。
カティア&マリエル・ラベックが、ダックワースのタイム・カーヴ・プレリュードを2曲、グラモフォンからのアルバムに入れているのを知った時以来の感動
年始にはこんなものを「マンガ倉庫」で見つけて買いました。未開封品
デジタル化が目的という訳でもないんですが(しますけどね)LPを聴いてみようかと思ったわけです。プレーヤーは何年か前に故障してHard offに(ジャンク扱いで)引き取ってもらった後は持ってなくて。別に機材を探してた訳ではないんですが、たまたま年始にマンガ倉庫に行ったら目に付いたという。たまたまとはいえHard off とか2nd Streetはけっこう使える機材があるので目的なくぶらっと寄るんですけどね。Book offでは帯を買ったな
着付けも格闘中
LPはCDになっているものはほぼ手放したんですが、CDになってないものとか、捨てがたいものは残してたんです。
こんなものとか。エルフェはカサドゥシュの弟子です。つまりヤザワは孫弟子。奥様のギャビーさんはエルフェの自宅でのマスタークラスに何度かいらして半分・居眠りをされていたのを目撃してます 病院とか公園に行くよりは良い老後だと思う。お洒落もしてて、「カサドュシュ婦人だ
」とすぐ分かりました。ジャッキー・ケネディ・オナシスみたく年取っただけで変わらなかったですね。
他、去年の12月に95歳で大往生された(とはつい最近知った。大学時代は「マミコン(間宮コンプレックス」と影で呼ばれてたから)間宮芳生先生(ピアノの名手)ご自身で演奏
されている自作曲のLPやらラヴェルの自作自演(ド下手)という酷いものとか
ちなみに間宮先生の著書「野のうた氷の音楽」はヤザワの音楽人生の扉を開けた本です。この本に書かれている何行かが、私の音楽人生を決定的に導きました。本当に若い時期に出会って良かったと思う本。先生にサインもらったしね
マミコンだったので間宮先生とのツーショットもあるはず。どこだろう。探さなくちゃ。
と思ってた矢先、大恩人の藤井一興先生の訃報でもう
2日の桐谷斎場での葬儀・告別式に参列してきました。ものすごく寒い日だったということもあるけど、ショックで1週間ほど体調が乱れました
コロナ前の2019年に東京に行った時、先生のリサイタルが練馬文化センターであるのを見つけて行って、終演後に楽屋を訪ねたら;「あ〜た沖縄にいらしたのよねアタシまだ沖縄行ったことないのよ」「あ、じゃ今度なんか作りますね!いらして下さい!」とか言ってコロナになったわけです。
お葬式の引き出物の中に先生のCDが入っていて、その録音が練馬文化センターの時のものもあって泣けました
自分は先生の(先生活動も始めた)初期の生徒なんですが、先生が期待するような路線ではないのに、それでも真摯に導いてくれました。「あ〜た!今日はここまで弾けないとダメですよ!もうすぐ次の人が来ますから、あ〜たは地下で練習してて。終わったら見ます!」と仰られて、練習してると先生のお母様がお茶とおやつを持ってきてくれたり、ご飯をいただいたり
告別式でお会いした先生のお姉様がお母様にそっくりだったのもまた泣けました
レッスンに現代曲ばかり持ってくるヤザワに:「あ〜たも国際コンクール受けましょう!アタシ、コンクールの入賞者を出したいの」と言われても「めっそうもない。私なぞ」とやんわりかわすと「ちぇ」という顔をされました。
私は「愛の挨拶」「トルコ行進曲」「子犬のワルツ」「熱情」とかを弾くような人生は嫌だと思ってたんです。I've though ね。
藤井先生はフランスから帰国されて日本で演奏活動を開始して「あ〜た。日本だと静岡あたりでもまだドビュッシーとかはなかなか難しいのよ。トルコ行進曲とかでないと」と仰り、現代曲ばかり弾きたがる私を「世の中分かってないね」と思ってたようでした。
逆に私は「先生はそんな仕事はしないでフランスに戻ったほうがいい」と思ってました。先生はメシアン夫妻にも可愛がられ、ブーレーズにも紹介され、クセナキスと一緒にフランス政府から委嘱も受けて、デビューリサイタルは武満徹の主宰する「ミュージック・トゥデイ」だったのにナゼトルコ行進曲なのだしかもヤザワのレッスンまでこんなにしてくれて
と申し訳なくも貴重な時間を奪ってしまったなーと当時から思ってはいた。
今、ピエール・ローラン・エマールのCDがグラモフォンから出てるのを見ると、「先生の方がメシアンにもずっと可愛がられてたのにブーレーズだって推してくれただろうに」という気になってしまう。
忙しくもその中で楽しみを見つけて、何より音楽さえ出来ればどこでも幸せだったんだろうとは思うけど、類稀な才能を生かす土壌が日本には十分にはなかったと思えてならないんです。
藤井先生と一緒に撮った写真というのはないんですが、藤井レッスンを録音したカセットテープというのはけっこうあるはず。自力デジタル化しよう。と思って見てみれば・・・
間宮レッスンも三善晃レッスンもシュトックハウゼンのレッスンもあったのでした
もう宝 エルフェ・レッスンもずいぶんあるし。
レッスンで弾いてる自分はともかく、先生たちの声を聞いてみたい。泣くかな
私のクセナキスまでのレパートリーは藤井先生とエルフェに鍛えてもらいました。作曲家本人に聞いてもらえる場合は本人にレッスンしてもらって。こうして見ると、レパートリーで生きてた作曲家にはほぼ全員、聞いてもらえてるんですね。ベリオのレッスンというテープもある
自分の演奏スタイルが確立したのは30歳前後だったと思う。徐々にレッスンも必要ではなくなっていたけど(先生に聞いてもらって褒めてもらうだけで安心して本番に挑めるという精神的な面も含めて)、「もう今後はどんな曲でも譜読みから仕上げまで自力でやる」と思ったのは1998年。初演とかで作曲家に聞いてもらうのも「打ち合わせ」というスタンスになりました。聞いてもらわなくても別にいい。作曲家の頭の中で鳴ってる音を(良い意味で)裏切るような演奏をしたいと思うようになって。NYに住む前かな。
98年に演奏した矢代秋雄のピアノソナタは初演者にも誰にも何も聞かずに弾いた初めての曲だったと思う。先入観とか他人の解釈をなぞるような演奏はしたくないと強く思うようになった頃。近代音楽資料館に録音が残ってるけど、当時・矢代ソナタの定型的弾き方とはだいぶ違ったので、終演後に未亡人にシカトされたのを覚えてます「全く新しい矢代秋雄像を描いて欲しい」と仰った三善晃先生も困惑されてました。三善奥様と新実徳英先生は褒めてくれたなあ。平石博一さんも。
最初は、三善先生から頼まれた時に丁重に断ったんです。自分には向いてなさげな曲だし1ヶ月後はNYだし1週間前とか(4日前とかだったかも)はリサイタルだしで練習する時間もあまりないから暗譜も出来ないし。と言ったら「譜面見て弾いていいです、もちろん。ゼヒ新しい矢代秋雄像を」と押し切られたんですね。
連弾の相手を頼んだ矢代秋雄の生徒だったマブダチ蛭多令子氏には「ソナタはアタシがやりたかったなんでヤザワなの
」と未亡人に根回ししてたのも三善先生に却下されて妬まれて。だからヤだったんだよ
オレだって三善先生に推薦してたんだから
だいたい(連弾とはいえ)仕事振って恨まれるとはなとこの件では後々までしこったんだよね。今も仲いいけど。その後、2年くらい経って三善先生から突然、「(私の東京新聞に書いた)エッセイを読んだ。スバラシ
演奏に通じる明晰さがある」みたいなハガキを頂いたんですよ。終演後の態度を気にして反省してたのかな
ヤザワを導いてくれた人たちが鬼籍に入られるというのは本当に寂しいことです。
自分のことをよく知っている人というのは自分の1部でもあるので、肉体の1部がもぎ取られていくような感じがします。
親というのは確実に自分の中で生きている。良きにつけ悪しきにつけ。好みの味噌汁の具とか。
先生達の教えが自分の中で生きるように、存在を感じられるように過ごしたいと強く思いました。