愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

愛媛・高知の県境

2008年06月05日 | 日々雑記

先日、写真の整理をしていて出てきたもの。
数年前に、天狗高原に行った際に、天狗荘に宿泊した。
そこで泊まった部屋の窓から外を見ると、この光景。

何と、部屋の中に県境が通っていることになる。
家族4人で泊まったが、布団をならべると、
愛媛側と高知側に分かれて寝ることになる。

部屋のテレビをつけると、確か山口県のテレビ放送を
見ることができた。

子供はあまりの山道に怯えていたが、
私は非常に気に入った場所。
現世を離れて時間を過ごすには、おすすめ。

櫨から養蚕、そして柑橘へ―真穴地方の農業―

2008年06月05日 | 生産生業

 真穴地区は、急傾斜地の畑地がほとんどであり、現在は柑橘が基幹作物になっている。真穴で柑橘栽培が始まったのは、明治24年頃。大円寺に三崎村から松沢住職が赴任した際に、柑橘の有利さを説き、地元の黒田文太郎、大下長太郎等が苗木を購入して、栽培を始めたという。本格的な栽培が始まったのは、明治33年で、阿部大三郎が宇和島に行った際に途中、立間(宇和島市吉田町)で温州みかんの栽培状況を見て、立間村の加賀城金吾から300本の苗木を購入し、阿部庄右エ門、吉川音治等が栽培しはじめた。明治35年には、周囲も柑橘が高値で売れることを理解し、明治40年頃から栽培熱が高まった。

 なお、明治39年の耕地及び山林面積に関する統計がある。真穴村では、桑園25万歩、普通畑40万歩、果樹園5万歩、田6万歩、山林60万歩であり、桑園が非常に多い。果樹園の5倍の面積である。当時は養蚕が盛んであり、いまだ柑橘栽培が主流とはなっていない。実際、同時期の物産を見ても、繭が数量6千貫、価格が2万7千円。果樹柑橘類は、数量2万5千貫、価格が5千円となっており、収入でも養蚕が柑橘の5倍以上となっている。この統計の「普通畑」では何が栽培されていたかというと、甘藷と麦である。甘藷は数量13万貫、価格は6千円、麦は800石、8千円。米はというと78石、1560円であり、明治後期には、主要作物が甘藷・麦。そして換金作物として養蚕が主流であったことがわかる。養蚕が主流となったのは明治時代中期。それ以前は、櫨が換金作物の中心であった。養蚕が主流となっても果樹によって櫨が伐採されるまでは、櫨実の収穫は続いた。大正時代頃の統計で、真穴村には櫨樹は930本、栽培者数は163人いた。櫨実は、栽培者の中から世話人を定め、取引関係は世話人に一任し、示談や競売方法で製蝋業者に販売して利益を上げた。

 大正時代には、今後の換金作物をどうするか、各農家が頭を悩ませることになる。つまり、養蚕と柑橘のどちらを主力にするかという問題である。しかし、昭和初期には養蚕不況により、柑橘栽培に傾いていく。実際、愛媛県統計によると、桑園は昭和4年には84haだった面積が4年後の昭和8年には55haに激減している。ちなみに桑園は昭和25年には11ha、昭和35年にはゼロとなる。それに反比例するように、柑橘園は増加していく。

 ただし、太平洋戦争の際には、国の方針で食料増産を推進するため、果樹園を縮小して食料作物(イモ・ムギ類)を栽培させるようになり、この地方でも総面積の10パーセントの果樹を伐採したという。そのうえ、農薬や肥料の入手も難しくなり、戦地に赴く兵士の増加とともに労力も減り、収益は著しく低下した。
 戦後、年ごとに生産量は増え、昭和30年からは県営農地保全事業、昭和38年からは農業構造改善事業により、基盤整備がなされ、また、みかん選果場、共同防除施設が設置され、全国有数のみかん産地へと発展した。

参考文献:『開校百周年記念誌まあな』(真穴小学校百周年記念事業推進委員会、昭和51年発行)

小網代の天満神社

2008年06月05日 | 信仰・宗教

慶長13年に京都北野天満宮から泉光院が御神体を奉斎して、嘉永3年に現在の地に社殿を改築したという。(『開校百周年記念誌まあな』真穴小学校百周年記念事業推進委員会、昭和51年発行より)

泉光院とは誰のことだろうか。地元の修験の名前のようにも思えるが、未調査。ちなみに、江戸時代中期の宝暦6年の棟札には、「神事師泉竜院賀進久蔵、神主薬師神近江守藤原清綱、庄屋二宮忠左衛門直久(後略)」とあり、神主とは別に「神事師」がいる。泉光院、泉竜院について今後、調査要。

ちなみに、小網代に自覚院という修験がいて、その先祖某が飯之山に城を構えたという記事が明治時代の「宇都宮玉吉日記」に記載されている。

生活改善と真穴の座敷雛

2008年06月05日 | 年中行事

真穴地区といえば、座敷雛で有名。

大正3年に穴井区長の岩井松太郎が、生活改善のために旧暦を廃して、新暦を採用することとし、雛祭りも新暦の3月3日にすると地区で決定したことがある。しかし一部の者がこれを励行したのみで、大多数はもと通りの旧暦3月3日に雛祭りをすることに変わりはなく、それが昭和20年頃まで続いた。雛祭りを月遅れの4月3日に行うようになったのは戦後のことである。同時期に、これまで「ひなさま」と地元で呼ばれていたものが、マスコミに取り上げられるようになり「座敷雛」の呼称が広まっていった。

参考文献:『開校百周年記念誌まあな』(真穴小学校百周年記念事業推進委員会、昭和51年発行)

神明神社と愛宕山

2008年06月05日 | 信仰・宗教

県指定無形民俗文化財の伊勢踊りが奉納される神明神社は「愛宕山」にある。写真では、山の中腹に神社が見えるが、これが神明神社。地元では「大神宮」と呼ばれている。ここに社殿が建設されたのは安政4年。その時に奉納された絵馬も残っている。社伝では、慶長年間に神明社が勧請され、延宝年間には著名であったという。愛宕山に愛宕信仰に関する社祠が現在あるかどうかは、未調査。宝暦8年の記録には「愛宕権現」とあるので、これが祀られていたのだろう。

霊光出現―真網代の住吉神社―

2008年06月05日 | 信仰・宗教

 元禄3年に、真網代の浦に、蜷が著しく付着して、不思議な光を放つ石があり、それが住吉大明神の化現であり、9月19日を祭礼日として定めて祀ると『まあな』には紹介されている。これは「二宮庄屋記」を典拠としたもののようであるが、『八幡浜市誌』によると、延喜2(902)年に「大浦浜」に霊光が出現し、大浦森に社殿を建立するとあるが、これは、昭和6年の「神社明細帳」を典拠としている。

 元真網代神主の薬師神家記録(これも『まあな』に掲載されている。)によると、この霊光出現は「庚午歳」とあり、元禄3年の干支が庚午であるので、年代はこちらの方が信憑性は高い。この記録には次のような事が紹介されている。

 穴井の「大浦浜」に不思議な石があり、蜷貝が付着し、夜々光を放ち、夜間輝くことが明鏡のようだ。里民が怪しんで占ってみると託宣があって、住吉大明神が示現した瑞相であるという。そこで、「槍の元」(今の鎮座地)に社殿を新築して、氏神とした。その石は、大浦浜にあり、神棚を設けて不浄を戒め、地元の者はあえて近づかず、「住吉岩」と称している。

 ちなみに、現在、住吉神社が鎮座しているところを「ヲウラ森」というが、おそらく「大浦森」のことであろう。

穴井の天満神社

2008年06月05日 | 信仰・宗教

穴井の「梅之森」にある。なぜ「梅之森」かというと、この神社の主祭神が菅相丞命(菅原道真)だからである。菅原道真は、平安時代の学者であり政治家であった人。承和12(845)年に生まれる。菅原家は、天穂日命(あめのほひのみこと) を祖とする土師氏の流れであり、穴井の天満神社にも主祭神として天穂日命が祀られている。
道真は5才の時に、庭に咲く梅を見て「美しや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある」と歌い、また、京都から九州大宰府に左遷された際にも、「東風吹かば匂ひをこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」と詠んでいる。その梅が、京都から一晩にして道真の庭へ飛んできたという「飛び梅伝説」も有名であり、道真といえば梅。道真を祭る各地の天満神社も梅鉢紋が神紋である。社地の地名が「梅之森」と呼ぶことはこの神社の歴史の古さを想定させる。
実際、神社の由緒沿革は不詳であり勧請年はよくわからないが、天正年間に、穴井浦の飯之山城主井上備後守の鎮守社とされ、近隣12社の総氏神であった。明治6年には郷社となり、穴井、真網代の各社の他、朝立村国造神社、垣生村客神社、二及村賀茂神社、周木村神谷神社などを附属社としていた。
この穴井の天満神社には、三郎天神という珍しい名前の配神が祀られている。三郎天神は飯之山城の鎮守社といわれる。

飯之山城主の井上氏が、天正年間に大乱で討滅され、穴井の南川上流の平地に薬師社があり、ここに逃れて居住したので、姓を薬師神と改め、天満神社の初代神主になったという伝承がある。(なお、福高寺も、古くは地元では「薬師堂」と呼ばれていたらしい。)
また、薬師神家は、飯之山城主井上備後守の後裔で、落城後、城主の子は薬師堂(今の福高寺)に隠れ住み、子孫は代々神職を勤め、家名を薬師寺とし、さらに薬師神と改めたという話もある。

参考文献:『開校百周年記念誌まあな』(真穴小学校百周年記念事業推進委員会、昭和51年発行)

飯之山伝説③

2008年06月05日 | 地域史
飯之山城の城主の姫は長姫。落城した際に、腰元のお蝶を伴い、鴫山(西予市三瓶町)へ落ち延びた。その途中の垣生には「お長越」という地名があり、また飯野山に「お蝶滝」がある。毎日お蝶が城の用水を汲みに行ったところである。飯之山では、水がほしいといえば、お蝶が恐ろしい姿で現れるといわれる。

また、飯之山城の城主は、鴫山で殺されたという。場所は「権の守」というところ。今でも城主の怨念が大蛇となって現れ、これを見た人は必ず病気になると恐れられている。

参考文献:『開校百周年記念誌まあな』(真穴小学校百周年記念事業推進委員会、昭和51年発行)

飯之山伝説②

2008年06月05日 | 地域史
飯之山は穴井側が攻口、垣生側が落口であった。長宗我部軍は天正12年頃、この堅城をどうしても落とすことができず困っていた。その時、垣生の里人に会い「城へ草履を上げたいがどれだけ必要か」と聞き、300足が必要だと里人が答えた。これで兵員の数がわかり、長宗我部軍は作戦を練り、戦闘を開始したという。これは、飯之山城の武士で落人となった某家に伝わる話である。

参考文献:『開校百周年記念誌まあな』(真穴小学校百周年記念事業推進委員会、昭和51年発行)

飯之山伝説①-真穴の古城-

2008年06月05日 | 地域史

写真の中央の山。山頂が平たくなっているところが飯之山。

現在、地図では「飯之山」と表記されるが、地元ではお年寄りから子供まで、この山のことを「いのやま」と呼ぶ。「いいのやま」と呼ぶと地元の人は違和感を感じるほどである。

この山は、『吉田古記』に「飯野山城跡、垣生と穴井の間の山なり。此の城郭昔此辺の領主要害第一の構と伝聞由」、とか『宇和旧記』に「喰野山とて古城あり、城立不知。一説に曰く、城主井上備後守嫡子治部大夫、後、穴井浦庄屋となる、末葉に井上五介あり」とある。

平凡社の『愛媛県の地名』では、穴井村の項目で「喰野山」とあって、ルビが「くらいのやま」になっている。これは明らかな間違い。「いのやま」を「位ノ山」と表記する史料もあるそうで、「位」・「喰」で編集者が「くらいのやま」とルビをふったのだろう。

真穴の教育史

2008年06月05日 | 地域史
 
写真は真穴小・中学校。6月2日(月)に真穴小の5年生の総合的な学習の時間で「真穴の伝説」について、話したり児童からインタビューを受けました。みんな地元の伝説をよく知っていて驚きました。児童から教わることも多かったです。

 さて、ここで真穴地区の教育史について、かつて纏めていた文章があったので、ここで紹介しておきます。

 明治31年の真網代尋常高等小学校編「学校沿革史」に、江戸時代の真網代浦における寺子屋の記述がある。「真網代ノ教育ハ凡八十年前、御文政年間ノ頃ヨリ寺子屋トイフヲ始メ、小網代ノ庵寺ニ住セシ某、喜木村庄屋ノ隠居藤右衛門(同人ノ娘ハ二宮連馬ノ母ナリ、故ニ当処ニ来リテ老後ヲ送リシ人)、二宮連馬及矢野三右エ門等師匠トナリ、各自宅ニ於テ春季農家ノ閑ナル時期、読書、習字、算術ヲ授ケ、明治八年学校創立ノ際ニ至リシモノナリ。其教科書ノ如キ一定ニアラズ。各自ノ希望ニヨリシモノナリ。但普通用ヒシモノハ、商買往来、女大学、千字文ノ類ナリシナリ。是真網代教育ノ起原ニシテ、他ニスベキ程ノ事項ナシ」

 ここに出てくる「二宮連馬」は真網代浦の庄屋である。なお、八幡浜市誌にも各地域の寺子屋の状況が紹介されているが、穴井浦でも、庄屋の薬師神清樹が師匠となって、安政年間に寺子屋が創立されている。このように、真網代浦、穴井浦それぞれに、庄屋が師匠となって、寺子屋が営まれ、教育が行われていたことがわかる。

 その後、明治8年に真網代では大円寺に三谷住職を教員として、「真海小学校」が開校し、穴井でも同じ年に「梅の森小学校」が開校する。学校の場所は、学校沿革史には福高寺とあるが、一説には天満神社ともいわれる。(ちなみに、真網代と穴井の学校が統合されて1校となるのは昭和12年である。)

参考文献:『開校百周年記念誌まあな』(真穴小学校百周年記念事業推進委員会、昭和51年発行)