愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

曳きダンジリと担ぎダンジリ

2000年09月02日 | 祭りと芸能
8月21,22日に岩城村を散策してみたが、その準備として『岩城村誌』を一通り目を通して行った。その中でダンジリに関する史料が紹介されていたので、ここで取り上げておきたい。
村誌の1482頁で、「三浦家永代記録」の中の明治14年の「祭礼道具人別控」に各種の練物が記されているが、「引壇尻」(西地区から出される)と「太鼓壇尻」(東地区から出される)とが並記されている。これは亀山八幡神社の秋祭りに登場したものであろうが、「引壇尻」という語に興味を持った。というのも、現在は東西のダンジリとも「担ぎダンジリ」だからである。地元では、東西のダンジリともに明治2年の新調と言っているが、明治14年の段階で「曳きダンジリ」があったと考える方が妥当であろう。先日も述べたように、愛媛においては、祭礼の中で「曳いて見せる」文化は、19世紀(以前)のものであり、近年はダンジリを担ぐことによって、「見せる」のである。現在の西のダンジリは、明治14年以降に新調されたというよりも、改築されて、曳く形から担ぐ形に変化したのではなかろうか。
少し話は異なるが、南予地方の牛鬼は、19世紀に描かれた絵を見ると、すべて担ぎ手は胴体の中に入っており、現在では外に体を出して担ぐのが一般的となっている。(現在でも明浜町や三瓶町では人が中に入っているが・・・。これが古風な担ぎ方なのだろう。)また、西条市のダンジリも現在は人間が外に出て担げるようになっているが、西条祭絵巻を見ても、人は中に入って担いでいる。つまり、19世紀はあまり担ぐ姿を「見せる」という祭りの雰囲気ではなかったのではなかろうか。岩城村西のダンジリも、もとは曳く形だったのが、担いで見せることを意識し、曳きダンジリから担ぎダンジリへ変容させたのだろう。
このように、山車の曳き方、担ぎ方の歴史をたどっていくと、19世紀から20世紀にかけての祭礼における「見せる」要素の変遷がわかり、人々の祭りに対する思いの変化も理解できるかもしれない。

2000年09月2日

最新の画像もっと見る