南予地方の祭礼には案外知られていないが、人形を乗せた山車が各地に登場する。高欄付きの台の上に人形を乗せ、唐破風屋根で覆い、台下にて三味線や鉦、太鼓をたたくという構造。台の部分には木彫りの鮮やかな彫刻がある。吉田町など南予5つの町の祭りに登場するが、戦前には宇和島市などでも出ていたが次第に少なくなってきている。
ここで山車の一例を紹介しておく。
伊方町湊浦の八幡神社のねり行事では、湊浦、中浦、小中浦から一台ずつ合計3台が出る。湊浦の山車の管理運営は青年団が行っている。人形は豊臣秀吉と加藤清正。言い伝えでは天保年間に購入したというが、現在の山車は明治時代初期に更新されたともいわれる。次に中浦の山車は、人形が神功皇后の三韓征伐で、明治10年に矢野家の世話により制作したものである。江戸時代後期にはすでに山車はあったという言い伝えもある。次に小中浦の山車についてであるが、人形は牛若丸と弁慶である。『小中浦のあゆみ』(昭和61年発行)によると、山車は明治31年に新調したもので、木材は宇和島から調達し、車自体は地元の大工が作成しているが、彫刻は大阪の彫刻師小松源助が行い、幕と人形は京都に注文していることが紹介されている。この史料は、南予地方の山車文化の伝播を考える上で非常に貴重なものである。もともとは、江戸時代後期に宇和島の一宮祭礼に山車が取り入れられ、それを南予各地の神社祭礼が模倣したと考えられるのだが、山車の制作にあたっては、京都、大阪の職人の関与が直接的に見られたのである。南予の山車は海岸部以外はほとんど見られないが(例外も一例あるが)、やはり大阪、京都といった上方との海上交通での繋がりによって、この山車文化が花開いたのかもしれない。
ただし、山車は曳いてまわるだけで、祭りの中では牛鬼、四ツ太鼓に比べて「力強く」担いで「見せる」という要素が薄い。伊方町九町では、昭和三〇年頃に、山車では若者が満足しないので、四ツ太鼓に変えたという話を聞いたことがある。彫刻や人形によって「見せる」山車が19世紀の祭礼文化だとすると、「担ぐ」四ツ太鼓や牛鬼は20世紀の祭礼の花形といえる。担ぐことを「見せる」、そして「見られて」満足する。人々の祭りに対する思いも時代とともに変化しているのだろうか。
ともあれ、現存している南予の山車は10台を越える。これらを一つ一つ詳細に調べてみる必要があるように思えてきた。調査すれば、南予祭礼文化の歴史がもう少し鮮明に見えてくるのだろう。それだけでなく、西条のだんじりや越智郡各地に見られる櫓、だんじりの起源や伝播の過程を考える上での一つの指標になりうるとも思っているのである。
2000年09月2日