明治44年7月24日付けの伊豫日日新聞に、愛媛県下最大級の洞穴である羅漢穴(現東宇和郡野村町小屋大久保)に関する記事が掲載されている。この羅漢穴は慶応2(1866)年刊行の半井悟庵著『愛媛面影』にも紹介されており、江戸時代から著名な洞穴であった。居並ぶ鍾乳石が五百羅漢のように見えるため、この名がついたといわれるが、新聞記事によると、かつては、小屋の里人はこの洞穴には近づかなかったようである。記事の内容は次の通りである。「羅漢穴の奇談:里人は、古来此洞孔に入れば神の祟りありと言つて入孔を喜ばず、若し入れば忽ち暴風起り農作物に被害を与へるものと迷信して、毎年四月より十月までの期間に、此洞孔に案内したものは五円の罰金に処するとの規約を結び、質朴なる里人は堅く守つてきた」
ところが、大野ヶ原にて行われた軍事演習の際に、兵士が面白がって羅漢穴に入ってしまったらしく、里人は、主作物である玉蜀黍は暴風でできなくなると怖れて困ってしまった。しかし、結局、作物は無事収穫できて、被害(祟り)はなかったという。そして、それ以降は、何時行っても、里人は羅漢穴を案内してくれるようになったということである。
この事例は、明治時代に流入した近代合理主義的な思想が四国の山奥にも入り込み、一つの迷信を崩した例と言えるだろう。その迷信を崩したのが兵士という「国家」を前提とした存在であったことが面白い。合理主義的思想を持ち込んだのが「国家」であり、その「国家」性を背負う者が「ムラ」に入り込んだ時に、その土地独特の迷信なり、習俗なりを崩壊させた、もしくは崩壊させる契機となったのである。
2001年04月01日
ところが、大野ヶ原にて行われた軍事演習の際に、兵士が面白がって羅漢穴に入ってしまったらしく、里人は、主作物である玉蜀黍は暴風でできなくなると怖れて困ってしまった。しかし、結局、作物は無事収穫できて、被害(祟り)はなかったという。そして、それ以降は、何時行っても、里人は羅漢穴を案内してくれるようになったということである。
この事例は、明治時代に流入した近代合理主義的な思想が四国の山奥にも入り込み、一つの迷信を崩した例と言えるだろう。その迷信を崩したのが兵士という「国家」を前提とした存在であったことが面白い。合理主義的思想を持ち込んだのが「国家」であり、その「国家」性を背負う者が「ムラ」に入り込んだ時に、その土地独特の迷信なり、習俗なりを崩壊させた、もしくは崩壊させる契機となったのである。
2001年04月01日