「日本の草や木の名は一切カナで書けばそれでなんら差し支えなく、今日ではそうすることがかえって合理的でかつ便利でかつ時勢にも適している。マツはマツ、スギはスギ、サクラはサクラ、イネはイネ、ムギはムギ、ダイコンはダイコン、カブはカブ、ナスはナス、ネギはネギ、キビはキビ、ジャガイモはジャガイモ、キャベツはキャベツ等々でよろしい。なにも松、杉、桜、稲、麦、馬鈴薯、甘藍などと面倒臭くわざわざ漢字を使って書く必要はない。元来漢字で書いたものはいわゆる漢名が多く、漢名は中国の名だから、こんな他国の字を用いて我国の植物を書く必要は認めない。ゆえに従来の習慣のように漢字を用うるなはもはや時世後れである。」
これは、植物学者・牧野富太郎『植物一日一題』(ちくま文庫、140頁)からの引用である。昭和20年代、牧野の晩年に記された文章であるが、片仮名表記といえば、民俗語彙にもあてはまる。柳田國男監修の『綜合日本民俗語彙』が刊行されたのは昭和30年。民俗語彙の片仮名表記について、柳田は、牧野のような激しい表現はしていないが『青年と学問』(『定本柳田國男集』第25巻)の中の「伝統と小学校教育」という項目(もとは、昭和2年2月の社会教育指導者講習会講演の内容である)で、「単なる漢字の一又は二を以て、代用せられない古くからの内容が感じられる」と述べている。
※なお、ここでの主語は「民俗語彙」ではなく「地方口碑」。また民俗語彙の片仮名表記については、石垣悟「民俗を表記する-民俗語彙、標準名称、そして差別用語をめぐって-」(『日本民俗学』256号、2008年)に詳しい。
漢字では代用されない地方口碑。柳田は、その主意を「伝統と小学校教育」の中で次のように表現している。
「私などのいふ地方口碑は、単に直接に過去の事実を語り伝へるに止まらず、尚之に伴うて色々の古い思想と感情とを運ぼうとした」、「完全に学校で仕込まれた少青年以外の者は、さういふ古風の語を自在に使ひ、土地に生れた者ばかり辛うじて其心持ちを会得するといふ状態である。親々の代からの村の社会倫理や芸術観で、言葉以外には何等の記録も無く、斯うして幽かに伝はり将に亡びんとして居るものは非常に多い。」(『定本柳田國男集』第25巻、195頁)
「地方口碑」や「古風の語」は漢字で表記すれば、親の代からの古い思想・感情、村社会の倫理・芸術観が伝わらない。これは漢字では代用できない。これが柳田の主張である。
これは、植物学者・牧野富太郎『植物一日一題』(ちくま文庫、140頁)からの引用である。昭和20年代、牧野の晩年に記された文章であるが、片仮名表記といえば、民俗語彙にもあてはまる。柳田國男監修の『綜合日本民俗語彙』が刊行されたのは昭和30年。民俗語彙の片仮名表記について、柳田は、牧野のような激しい表現はしていないが『青年と学問』(『定本柳田國男集』第25巻)の中の「伝統と小学校教育」という項目(もとは、昭和2年2月の社会教育指導者講習会講演の内容である)で、「単なる漢字の一又は二を以て、代用せられない古くからの内容が感じられる」と述べている。
※なお、ここでの主語は「民俗語彙」ではなく「地方口碑」。また民俗語彙の片仮名表記については、石垣悟「民俗を表記する-民俗語彙、標準名称、そして差別用語をめぐって-」(『日本民俗学』256号、2008年)に詳しい。
漢字では代用されない地方口碑。柳田は、その主意を「伝統と小学校教育」の中で次のように表現している。
「私などのいふ地方口碑は、単に直接に過去の事実を語り伝へるに止まらず、尚之に伴うて色々の古い思想と感情とを運ぼうとした」、「完全に学校で仕込まれた少青年以外の者は、さういふ古風の語を自在に使ひ、土地に生れた者ばかり辛うじて其心持ちを会得するといふ状態である。親々の代からの村の社会倫理や芸術観で、言葉以外には何等の記録も無く、斯うして幽かに伝はり将に亡びんとして居るものは非常に多い。」(『定本柳田國男集』第25巻、195頁)
「地方口碑」や「古風の語」は漢字で表記すれば、親の代からの古い思想・感情、村社会の倫理・芸術観が伝わらない。これは漢字では代用できない。これが柳田の主張である。