愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

身体の時計‐多元的四季論‐

2009年11月28日 | 民俗その他
晩秋に紅葉を見て「秋を感じる」ことは、受動的な四季の感じ方ではないかと思う。この時期、例えば生産者は玉葱を植え付けしたり、花の好きな者はチューリップの球根を植えたりする。晩秋、11月。これから冬がやってくる。しかし、これら人間の身体には、数ヵ月後に訪れるであろう春を意識できる時計が宿っており、それが働いている。収穫や開花のイメージが明確なのだ。ここから私は、身体には、多元的な四季が存在するのではないかと推察する。外的なもの、つまりその同時期・同時間の自然から受けたり、感じたりすることにより季節を認識すること。梅が咲いたことで春の訪れを感じ、桜をめでて春を実感し、新緑の山々を見て春から初夏への移行を知る。単純化すれば、気温が上がれば夏を知り、寒くなれば秋、冬を知る。どれも外的要因によって「四季」という時計を、身体で確認する「現象」である。しかし四季の中で農業や漁業などに関わる「生産する人間」の身体には、もう一つの四季を認識する時計が存在する。今の時期であれば、春を予見しての晩秋の農作業。作業中、頭の中には、収穫や開花といった春のイメージがすでに浮かび上がっている。冬に向かう時期であるはずなのに、生産者の脳の中、心の中には、既に春の暖かさが予見され、存在している。これが身体の時計にある、外的・受動的なものと、生産者が持ちあわせる内的・主体的ものという多元的な時間である。考えてみれば、暦の「新年」・「正月」は受動的な四季の感じ方とは少し異なる。寒さが過ぎ去って温かくなってから新年が訪れるわけではない。旧暦では2月上旬の節分頃が正月となるが、いまだ寒い時期だ。受動的な身体時計であれば、新年は3~4月が適当ではないか。年始の挨拶に「新春のお慶び」を申し上げるにも、特に新暦の正月(今の1月1日)は、大寒も迎えていない時期であって、どこに「春」が存在するのか。受動的季節感とは甚だズレが激しい。寒い中、なぜ「新春のお慶び」なのか。でも、その疑問は受動的季節感しか持ち合わせない人間の感覚ではないか。もともと暦は、四季の中で「生産する人間」により形づくられたものであるが、現代の生産をしなくなった人間、極言すれば「消費する人間」は、かつて身体の中に宿っていたもう一つの四季が忘却されてしまっているのではないか。その忘却ゆえに、外的な自然を見ることで、受動的に四季を認識できる。その「現象」のみになってしまい、これを「春夏秋冬、日本の四季」と高らかに言い張ることが通常の「季節感」と呼ばれるものになってしまっている。これを突き詰めていくと、結局、自然も四季も「消費」の対象・範疇に入っているのではないかと危惧してしまう。身体の中で忘却された主体的な季節を感じる力。ここから人間と自然との関係や、生産と消費という社会関係もいろいろと見えてくるものがあるのではないか。本日11月28日、松山から帰る途中、車窓から晩秋の紅葉を眺めていて、「綺麗だ」と思う気持ちと裏腹に、自然をめでる自分がいかに現代的であるかを直視させられて、心の中は少しだけブルーになった。


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