四国も梅雨入りした。夏も間近である。
私の住む愛媛県南予地方の夏の風物詩といえば、なんといっても宇和島市の和霊大祭(うわじま牛鬼まつり)である。この和霊大祭は7月22~24日に行われる和霊神社の祭りで、和霊神社といえば山家清兵衛の祟りを慰めるために立てられた神社として全国的にも有名である。さて、この和霊大祭についてはその行事次第、行事内容を詳細にまとめたものがない。参考文献があまりに少ないのだ。昨年、同僚の谷脇氏と和霊大祭を見物してみたが、その見聞記録をまとめたので、ここで紹介しておきたい。(粗い見聞記録であるため、今後調査すべき事項が多々あるのであるが・・・。)
7月22日(木)
17:00から21:00 うわじまガイヤカーニバル
商店街にて行われる。参加団体は市役所や宇和島市内の企業や団体、舞踊のサークル等である。これは1980年代後半に始められた踊りである。それ以前は、祭りは23、24日だけであったが、ガイヤがはじまったことで、3日間の祭となった。2日間から3日間になったことによる変化について聞き取ることができたのは、最終日の走り込みにさきがけてダシが登場するが、これは地縁的なものではなく、社縁により出されるものである。このダシの数がガイヤが始まると減ってしまったということである。ダシもガイヤも企業等が出しており、両方出すのは金銭的にも体力的にも困難だということである。
7月23日(金)
和霊神社での行事
10:00から12:00 例大祭
宇和島市内の政財界、各種団体の長が参詣し、神事が行われる。神事の後、参篭殿にて直会(現地での呼称は聞き取らず)。県議や警察署長等が参列者の中に確認できた。この神事は昔から行っているものか確認要。というのも、政経界のトップが主な参加者であり、これは観光祭としての「うわじま牛鬼まつり」を運営を担う機関の長である。つまり、観光祭を無事遂行するための祈願とも考えられ、伝統的なものとは考えにくい。この点については、今後確認する必要がある。
12:00から 一般参詣者を対象とした神事。
大漁祈願もしくは、新造船の安全祈願が主のようである。「吉田町第八忠栄丸」など、津島町や西海町など、宇和島市外からの参詣者が多く見られた。参詣者は約20人。ただしこれまでの和霊大祭の説明(県史など)では、この祭は大漁を祈願する漁民が西日本各地から参詣するといわれていたが、実際には人数も少なく、宇和島市周辺の漁民が参詣しているだけのような印象があった。この点は今後客観的なデータを調査する必要がある。
19:00から22:00 宵宮祭
神事への参加者は神主10人程、地元有力者(午前中の例大祭にも参加)3人、総代10数人(茶色の法被を着ている)、一般参詣者7人(うち5人は漁業関係者と思われる。2名は松山市から来た中年女性。毎年来ているわけではなく、今年は特別に祈願にきたとのこと。祈願内容は不明)
浦安の舞の奉納。巫女は4名。地元の高校生がつとめている。
午前中にも例大祭があり、ここでも宵祭の神事がある。一般の神社では、一度で済ませる神事を2回にわたって行っているということは、観光祭としての「うわじま牛鬼まつり」と神社大祭としての「和霊大祭」が重層していながらも、混在しているわけではなく、棲みわけがなされていることを象徴していると見ることができる。
20:00頃神事終了。一般参詣者が次々と来る。
宇和島市内での行事
子供牛鬼パレード
13:50 牛鬼ストリートにて、子供牛鬼パレード開幕式。
14:00 パレード開始。
牛鬼ストリートを出発して、商店街を通り、農協で一時休憩の後、和霊神社前を通って、須賀川橋(要確認)にて終了。和霊神社には子供牛鬼は入ることはない。神社前の橋も渡らない。神事とは全く関係していないことは注目すべきか。和霊大祭の写真にはこれまで、神社の鳥居をくぐる牛鬼の場面がよく使われていたが、これは一考を要する。
・参加した子供牛鬼は次のとおりである。
1 広小路・堀端愛護会 2 戸島保育園 3 保手3区愛護会 4 錦町愛護会 5 和霊中町愛護会 6 朝日町1丁目愛護会(2体) 7 袋町牛鬼保存会 8 ボーイスカウト宇和島小区 9 宇和島柔道会 10 坂下津2区愛護会 11 本町追手子供牛鬼 12 御殿町牛鬼会 13 朝日町3丁目愛護会 14 艶冶 15 明倫町愛護会 16 住吉町愛護会 17 野川児童愛護会 18 丸ノ内2、3、4丁目子供牛鬼会 19 恵美須町2丁目愛護会 20 薬師谷愛護会 21 高光校区愛護会 22 津島牛鬼会(津島町) 23 新町愛護会 24 大宮町愛護会 25 丸穂2、3、4丁目愛護会 26 丸穂1丁目子供牛鬼
合計26団体、27体、大人364人、子供1120人、合計1484人が参加(商工会議所への届け出の数字)している。
18:00から 宇和島おどり大会
商店街にて行われる。農協やNTT、舞踊のサークル等が参加。注目は、牛鬼鳴子の登場である。高知よさこい祭で使用されていた鳴子が、宇和島風にアレンジされて登場した。以前は宇和島おどりは何も持たず、踊っていたが、いつの頃からか団扇を使用するようになり、そして今年、鳴子が使用されるようになったのである。踊りの変容について興味深い事例である。なお、宇和島おどりは、八幡浜のてやてや音頭等とリズム、踊り方が類似しており、成立時期は同じ頃と思われる。全国的に何何踊りが商店街や商工会主体で採用されたか。平成元年前後に、宇崎龍堂による全国の祭りでの踊りの創造と同様の現象がかつてあったか。今後要調査。なお、うわじまガイヤも平成元年に宇崎によりアレンジされたものである。高知よさこいや八幡浜てやてやと同時期である。
20:10から 花火大会
7月24日(土)
13:00 稚児行列が始まる。
街頭に出発する。この行列は子供神輿が渡御する。
13:50 親牛鬼パレード開幕式
14:00 パレード開始。
牛鬼ストリートから袋町商店街を通って、国道56号線に出て、その後再び牛鬼ストリートに帰ってきて休憩する。その後、新橋商店街、恵美須町商店街を通り、駅前通りを経て、宇和青果にて休憩する。その後、和霊神社前まで来る。1番の丸穂牛鬼は橋を渡って、神門に頭を突っ込むが、境内には入らない。2番目の宇和島市役所牛鬼保存会の棕櫚の牛鬼は神門をくぐり、境内に入る。境内に入るのはこの牛鬼のみで、あとは橋を渡らず、川沿いに下り、須賀橋まで行ってパレードは終了する。境内に入った牛鬼も、神事を経ることなく、帰っていく。
・親牛鬼パレード参加の牛鬼は次のとおりである。
1 丸穂牛鬼保存会 2 宇和島市役所牛鬼保存会(2体) 3 豊正園・フレンドまつの 4 宇和島中央ライオンズクラブ 5 (株)フジ 6 野村青年団 7 津島牛鬼会 8 松野町牛鬼会 9 日吉村牛鬼をかつぐ会 10 三間町青年団 11 大浦青年団 12 宇和島左官業組合牛鬼保存会 13 保田牛鬼
16:30 和霊神社にて神輿に御霊を遷す。神輿は3体。前神輿(神幸会)、中神輿(山頼会)、後神輿(九島会)である。なお、後神輿はかつては宇和島沖にある九島の氏子が出して担いでいた。現在では、形だけ九島から出していることになっている。なぜ九島から出されていたのかは要調査。神輿の他に、これの先払いをつとめる「四つ太鼓」がある。これは和霊青年団から出されるものである。10月16日の和霊神社境内社の三島神社秋祭りにも出される布団太鼓である。秋祭りには伊吹八幡神社の四つ太鼓も含めて、三体が出されるという。この四つ太鼓の寸法は高さ240、かき棒幅325、奥ゆき498、欄干幅170、欄干上部奥ゆき140、屋根幅185センチである。である。屋根は木枠に一枚の布団をのせる。周囲には小型提灯をめぐらしている。櫓の中央には太鼓をすえて、周囲を四人の小学生が乗って太鼓をたたく。子供たちは小学2、3年生である。かけ声は「センシュウラクサイ(太鼓をたたく)、マンザイラクサイ(太鼓をたたく)」である。太鼓のリズムはドンドコドンド、ドンドコドンドである。
16:50 神前に供えていた布を神輿をかく者「輿丁」らに配られる。
17:00 出御する。
その順序は四つ太鼓、神主、総代、幡(和霊神社と墨書)、鼻高1人、錫杖2人、触れ太鼓、提灯12名、前神輿、中神輿、後神輿の順番である。ただし、神主、総代はタクシーに乗って御幸するため、先に神社を出たもので、実際町中では神主、総代は神輿の後を進む。
・御幸の通る道順および時間は、まず和霊神社を出て(17:30)、御幸橋をとおり、和霊公園を抜け、国道56号を東に進み、和霊東町と伊吹町の境まで行く。そこから折り返して和霊中町(線路裏)を進み、宇和青果農協のところをまがり、和霊神社に向かって再び56号に出て、恵美須町方面へ進む。(ここまでの御幸は和霊神社を氏神とする和霊町の端から端に進むという、氏子範囲の再確認のための御幸といえるか。)恵美須町2丁目商店街をとおり、駅前通りに出て、宇和島駅前まで進みそこで折り返す。錦町の岩崎書店の角をまがり、本町通りを進む。本町追手のミルキーリトルハウスの角を堀端町方面にまがり、商店街入り口まで進む。(ここまでの御幸は祭神清兵衛が殺害された場所つまり現在の御旅所まで進むという、祭神の由緒の再確認のための御幸といえるか。)そこから、神輿や四つ太鼓は56号の丸之内交差点に走り込む。そこに御神竹を立てて、神輿がそのまわりをまわる。その後、御旅所となる丸之内和霊神社に入る(18:40)。なお、四つ太鼓は境内に入ることなく、境内脇に置かれる。その後19:00から御旅所神事が行われ、19:30に御旅所を出発する。商店街をとおり、駅前通りに出て、そこから内港に進む。そこから海上渡御を行う(20:30)。(上陸地については未確認)須賀橋まできて、神輿、お供は須賀川に入り、川を登って和霊神社前まで進み走り込みを行う。なお、四つ太鼓と神主は川に入ることなく、神社に戻る。四つ太鼓は神輿が帰ってきたのを知らせるように、御幸橋の上で太鼓をたたく。21:00頃に3体の神輿が和霊神社前に到着し、須賀川の中に立てられた御神竹の廻りをまわり、竹の上部につけられた御幣を奪いあう。御幣がとられると、竹は倒され、神輿とともに、境内へ運ばれる(21:40)。神輿は、拝殿横に置かれ、竹は拝殿中に突っ込まれ、白木綿が敷かれた上を本殿まで運ばれる(民俗的解釈ではこれで還御したとみることができる)。この御神竹の葉(笹)については、輿丁がむしりとる。縁起物とするのであろうか。この後に、和霊神社の宮司により還御の御礼挨拶があり、輿丁たちが拝殿前にあつまり、ビールによる乾杯を行う(21:55)。その後、神輿が拝殿中に入れられ、御霊が本殿に遷される。(神道祭式の上での還御はこの時である。)そして祭は終了する。(22:30)
・なお、18:40からは、牛鬼ストリートにて、ダシのパレードが始まる。ダシは、企業等から出されたもので、鯛の作り物(漁業協同組合)、ロボコン、招き猫等様々な意匠をこらしたものである。走り込みの前に、和霊神社前に移動するが祭礼行列には組み込まれることはない。
・丸ノ内和霊神社(御旅所)での神事の奉幣者順序は次のとおりである。
1 総代会会長 2 山家家代表(4人) 3 総代 4 前神輿代表 5 中神輿代表 6 後神輿代表 7 四つ太鼓代表 8 和霊会(お供)
・和霊神社横にある城北中学校の校庭には「入らずの森」という小高い丘がある。その頂上には小祠があり、和霊大神などが祀られている。明治24年の棟札がある。この丘は和霊神社の祭神である山家清兵衛が殺害された後、安置された場所であるとか、清兵衛の妻が祀られているなどと言われている。入ってはいけない場所とされ、校庭にありつつも子供たちは近付くことはないという。また、かつて校舎改築の際に、この丘を崩すか否かで議論があったという。愛媛県史によると、この丘は「向山」といわれ、和霊神社が一時期うつっていた場所とのことである。「向山」の名称の由来は、須賀川を隔てた宇和島城下からみると川の向こうに見える山だからついた名称か。つまり、清兵衛の祟りを伴った遺骸を城下から川向こうに除外し、祀った場所と解釈できるか。
・恵美須町商店街には、アーケードに恵美須神社の大漁旗が吊されている。ただし、これは和霊祭の時期に限ったことではなく、七夕頃から吊っているとのこと。
・御旅所となる丸ノ内和霊神社は、山家清兵衛の邸宅跡であり、一家が殺害された場所である。この場所は、江戸時代は藩の倉庫として使用されていたが、明治初年に丸之内和霊神社の小祠が設けられ、明治31年に伊達家が敷地を寄進し、明治41年に宇和島城内の日吉神社の本殿を移築し現在にいたるという。なお、本殿裏には古井戸がある。これは山家一家が殺害された時に、清兵衛の四男美濃が入水したといわれのあるもの。井戸の上に祠が設けられている。実に気味悪い一種異様な雰囲気のする空間である。
・和霊大祭には昭和20年代にはサーカスが来ていたとか、昭和50年頃にはおばけ屋敷があったとか、伊万里、唐津を売りに来ていたという。
・聞くところによると、和霊の御旅所行列には、日振島の庄屋清家が参加しているとのこと。調査すべし。私がかつて日振島にて聞取りしたところ、「和霊祭は日振の船がつかないとはじまらない」といっていた。それと関係あるのだろうか。今回はそこまでは気付かなかった。このことが判明したら非常に興味深い研究となる。神輿が九島から出されていることとも関連させて要調査。
・和霊神社前の須賀川は河川改修をしている。大正時代のことと思われるが、史料を確認する必要がある。この改修により、神田などが潰れ、旧河川の上が道路や和霊公園となっている。つまり、現在の走り込みと河川改修の前の走り込みは場所が異なっている。この時代的変遷をおさえる必要があるだろう。
・以上が昨年の見聞記録であるが、祭が大規模であるため、追加調査が必要な部分がある。今後、聞き取りなどの調査に再度うかがいたい。
2000年06月06日
私の住む愛媛県南予地方の夏の風物詩といえば、なんといっても宇和島市の和霊大祭(うわじま牛鬼まつり)である。この和霊大祭は7月22~24日に行われる和霊神社の祭りで、和霊神社といえば山家清兵衛の祟りを慰めるために立てられた神社として全国的にも有名である。さて、この和霊大祭についてはその行事次第、行事内容を詳細にまとめたものがない。参考文献があまりに少ないのだ。昨年、同僚の谷脇氏と和霊大祭を見物してみたが、その見聞記録をまとめたので、ここで紹介しておきたい。(粗い見聞記録であるため、今後調査すべき事項が多々あるのであるが・・・。)
7月22日(木)
17:00から21:00 うわじまガイヤカーニバル
商店街にて行われる。参加団体は市役所や宇和島市内の企業や団体、舞踊のサークル等である。これは1980年代後半に始められた踊りである。それ以前は、祭りは23、24日だけであったが、ガイヤがはじまったことで、3日間の祭となった。2日間から3日間になったことによる変化について聞き取ることができたのは、最終日の走り込みにさきがけてダシが登場するが、これは地縁的なものではなく、社縁により出されるものである。このダシの数がガイヤが始まると減ってしまったということである。ダシもガイヤも企業等が出しており、両方出すのは金銭的にも体力的にも困難だということである。
7月23日(金)
和霊神社での行事
10:00から12:00 例大祭
宇和島市内の政財界、各種団体の長が参詣し、神事が行われる。神事の後、参篭殿にて直会(現地での呼称は聞き取らず)。県議や警察署長等が参列者の中に確認できた。この神事は昔から行っているものか確認要。というのも、政経界のトップが主な参加者であり、これは観光祭としての「うわじま牛鬼まつり」を運営を担う機関の長である。つまり、観光祭を無事遂行するための祈願とも考えられ、伝統的なものとは考えにくい。この点については、今後確認する必要がある。
12:00から 一般参詣者を対象とした神事。
大漁祈願もしくは、新造船の安全祈願が主のようである。「吉田町第八忠栄丸」など、津島町や西海町など、宇和島市外からの参詣者が多く見られた。参詣者は約20人。ただしこれまでの和霊大祭の説明(県史など)では、この祭は大漁を祈願する漁民が西日本各地から参詣するといわれていたが、実際には人数も少なく、宇和島市周辺の漁民が参詣しているだけのような印象があった。この点は今後客観的なデータを調査する必要がある。
19:00から22:00 宵宮祭
神事への参加者は神主10人程、地元有力者(午前中の例大祭にも参加)3人、総代10数人(茶色の法被を着ている)、一般参詣者7人(うち5人は漁業関係者と思われる。2名は松山市から来た中年女性。毎年来ているわけではなく、今年は特別に祈願にきたとのこと。祈願内容は不明)
浦安の舞の奉納。巫女は4名。地元の高校生がつとめている。
午前中にも例大祭があり、ここでも宵祭の神事がある。一般の神社では、一度で済ませる神事を2回にわたって行っているということは、観光祭としての「うわじま牛鬼まつり」と神社大祭としての「和霊大祭」が重層していながらも、混在しているわけではなく、棲みわけがなされていることを象徴していると見ることができる。
20:00頃神事終了。一般参詣者が次々と来る。
宇和島市内での行事
子供牛鬼パレード
13:50 牛鬼ストリートにて、子供牛鬼パレード開幕式。
14:00 パレード開始。
牛鬼ストリートを出発して、商店街を通り、農協で一時休憩の後、和霊神社前を通って、須賀川橋(要確認)にて終了。和霊神社には子供牛鬼は入ることはない。神社前の橋も渡らない。神事とは全く関係していないことは注目すべきか。和霊大祭の写真にはこれまで、神社の鳥居をくぐる牛鬼の場面がよく使われていたが、これは一考を要する。
・参加した子供牛鬼は次のとおりである。
1 広小路・堀端愛護会 2 戸島保育園 3 保手3区愛護会 4 錦町愛護会 5 和霊中町愛護会 6 朝日町1丁目愛護会(2体) 7 袋町牛鬼保存会 8 ボーイスカウト宇和島小区 9 宇和島柔道会 10 坂下津2区愛護会 11 本町追手子供牛鬼 12 御殿町牛鬼会 13 朝日町3丁目愛護会 14 艶冶 15 明倫町愛護会 16 住吉町愛護会 17 野川児童愛護会 18 丸ノ内2、3、4丁目子供牛鬼会 19 恵美須町2丁目愛護会 20 薬師谷愛護会 21 高光校区愛護会 22 津島牛鬼会(津島町) 23 新町愛護会 24 大宮町愛護会 25 丸穂2、3、4丁目愛護会 26 丸穂1丁目子供牛鬼
合計26団体、27体、大人364人、子供1120人、合計1484人が参加(商工会議所への届け出の数字)している。
18:00から 宇和島おどり大会
商店街にて行われる。農協やNTT、舞踊のサークル等が参加。注目は、牛鬼鳴子の登場である。高知よさこい祭で使用されていた鳴子が、宇和島風にアレンジされて登場した。以前は宇和島おどりは何も持たず、踊っていたが、いつの頃からか団扇を使用するようになり、そして今年、鳴子が使用されるようになったのである。踊りの変容について興味深い事例である。なお、宇和島おどりは、八幡浜のてやてや音頭等とリズム、踊り方が類似しており、成立時期は同じ頃と思われる。全国的に何何踊りが商店街や商工会主体で採用されたか。平成元年前後に、宇崎龍堂による全国の祭りでの踊りの創造と同様の現象がかつてあったか。今後要調査。なお、うわじまガイヤも平成元年に宇崎によりアレンジされたものである。高知よさこいや八幡浜てやてやと同時期である。
20:10から 花火大会
7月24日(土)
13:00 稚児行列が始まる。
街頭に出発する。この行列は子供神輿が渡御する。
13:50 親牛鬼パレード開幕式
14:00 パレード開始。
牛鬼ストリートから袋町商店街を通って、国道56号線に出て、その後再び牛鬼ストリートに帰ってきて休憩する。その後、新橋商店街、恵美須町商店街を通り、駅前通りを経て、宇和青果にて休憩する。その後、和霊神社前まで来る。1番の丸穂牛鬼は橋を渡って、神門に頭を突っ込むが、境内には入らない。2番目の宇和島市役所牛鬼保存会の棕櫚の牛鬼は神門をくぐり、境内に入る。境内に入るのはこの牛鬼のみで、あとは橋を渡らず、川沿いに下り、須賀橋まで行ってパレードは終了する。境内に入った牛鬼も、神事を経ることなく、帰っていく。
・親牛鬼パレード参加の牛鬼は次のとおりである。
1 丸穂牛鬼保存会 2 宇和島市役所牛鬼保存会(2体) 3 豊正園・フレンドまつの 4 宇和島中央ライオンズクラブ 5 (株)フジ 6 野村青年団 7 津島牛鬼会 8 松野町牛鬼会 9 日吉村牛鬼をかつぐ会 10 三間町青年団 11 大浦青年団 12 宇和島左官業組合牛鬼保存会 13 保田牛鬼
16:30 和霊神社にて神輿に御霊を遷す。神輿は3体。前神輿(神幸会)、中神輿(山頼会)、後神輿(九島会)である。なお、後神輿はかつては宇和島沖にある九島の氏子が出して担いでいた。現在では、形だけ九島から出していることになっている。なぜ九島から出されていたのかは要調査。神輿の他に、これの先払いをつとめる「四つ太鼓」がある。これは和霊青年団から出されるものである。10月16日の和霊神社境内社の三島神社秋祭りにも出される布団太鼓である。秋祭りには伊吹八幡神社の四つ太鼓も含めて、三体が出されるという。この四つ太鼓の寸法は高さ240、かき棒幅325、奥ゆき498、欄干幅170、欄干上部奥ゆき140、屋根幅185センチである。である。屋根は木枠に一枚の布団をのせる。周囲には小型提灯をめぐらしている。櫓の中央には太鼓をすえて、周囲を四人の小学生が乗って太鼓をたたく。子供たちは小学2、3年生である。かけ声は「センシュウラクサイ(太鼓をたたく)、マンザイラクサイ(太鼓をたたく)」である。太鼓のリズムはドンドコドンド、ドンドコドンドである。
16:50 神前に供えていた布を神輿をかく者「輿丁」らに配られる。
17:00 出御する。
その順序は四つ太鼓、神主、総代、幡(和霊神社と墨書)、鼻高1人、錫杖2人、触れ太鼓、提灯12名、前神輿、中神輿、後神輿の順番である。ただし、神主、総代はタクシーに乗って御幸するため、先に神社を出たもので、実際町中では神主、総代は神輿の後を進む。
・御幸の通る道順および時間は、まず和霊神社を出て(17:30)、御幸橋をとおり、和霊公園を抜け、国道56号を東に進み、和霊東町と伊吹町の境まで行く。そこから折り返して和霊中町(線路裏)を進み、宇和青果農協のところをまがり、和霊神社に向かって再び56号に出て、恵美須町方面へ進む。(ここまでの御幸は和霊神社を氏神とする和霊町の端から端に進むという、氏子範囲の再確認のための御幸といえるか。)恵美須町2丁目商店街をとおり、駅前通りに出て、宇和島駅前まで進みそこで折り返す。錦町の岩崎書店の角をまがり、本町通りを進む。本町追手のミルキーリトルハウスの角を堀端町方面にまがり、商店街入り口まで進む。(ここまでの御幸は祭神清兵衛が殺害された場所つまり現在の御旅所まで進むという、祭神の由緒の再確認のための御幸といえるか。)そこから、神輿や四つ太鼓は56号の丸之内交差点に走り込む。そこに御神竹を立てて、神輿がそのまわりをまわる。その後、御旅所となる丸之内和霊神社に入る(18:40)。なお、四つ太鼓は境内に入ることなく、境内脇に置かれる。その後19:00から御旅所神事が行われ、19:30に御旅所を出発する。商店街をとおり、駅前通りに出て、そこから内港に進む。そこから海上渡御を行う(20:30)。(上陸地については未確認)須賀橋まできて、神輿、お供は須賀川に入り、川を登って和霊神社前まで進み走り込みを行う。なお、四つ太鼓と神主は川に入ることなく、神社に戻る。四つ太鼓は神輿が帰ってきたのを知らせるように、御幸橋の上で太鼓をたたく。21:00頃に3体の神輿が和霊神社前に到着し、須賀川の中に立てられた御神竹の廻りをまわり、竹の上部につけられた御幣を奪いあう。御幣がとられると、竹は倒され、神輿とともに、境内へ運ばれる(21:40)。神輿は、拝殿横に置かれ、竹は拝殿中に突っ込まれ、白木綿が敷かれた上を本殿まで運ばれる(民俗的解釈ではこれで還御したとみることができる)。この御神竹の葉(笹)については、輿丁がむしりとる。縁起物とするのであろうか。この後に、和霊神社の宮司により還御の御礼挨拶があり、輿丁たちが拝殿前にあつまり、ビールによる乾杯を行う(21:55)。その後、神輿が拝殿中に入れられ、御霊が本殿に遷される。(神道祭式の上での還御はこの時である。)そして祭は終了する。(22:30)
・なお、18:40からは、牛鬼ストリートにて、ダシのパレードが始まる。ダシは、企業等から出されたもので、鯛の作り物(漁業協同組合)、ロボコン、招き猫等様々な意匠をこらしたものである。走り込みの前に、和霊神社前に移動するが祭礼行列には組み込まれることはない。
・丸ノ内和霊神社(御旅所)での神事の奉幣者順序は次のとおりである。
1 総代会会長 2 山家家代表(4人) 3 総代 4 前神輿代表 5 中神輿代表 6 後神輿代表 7 四つ太鼓代表 8 和霊会(お供)
・和霊神社横にある城北中学校の校庭には「入らずの森」という小高い丘がある。その頂上には小祠があり、和霊大神などが祀られている。明治24年の棟札がある。この丘は和霊神社の祭神である山家清兵衛が殺害された後、安置された場所であるとか、清兵衛の妻が祀られているなどと言われている。入ってはいけない場所とされ、校庭にありつつも子供たちは近付くことはないという。また、かつて校舎改築の際に、この丘を崩すか否かで議論があったという。愛媛県史によると、この丘は「向山」といわれ、和霊神社が一時期うつっていた場所とのことである。「向山」の名称の由来は、須賀川を隔てた宇和島城下からみると川の向こうに見える山だからついた名称か。つまり、清兵衛の祟りを伴った遺骸を城下から川向こうに除外し、祀った場所と解釈できるか。
・恵美須町商店街には、アーケードに恵美須神社の大漁旗が吊されている。ただし、これは和霊祭の時期に限ったことではなく、七夕頃から吊っているとのこと。
・御旅所となる丸ノ内和霊神社は、山家清兵衛の邸宅跡であり、一家が殺害された場所である。この場所は、江戸時代は藩の倉庫として使用されていたが、明治初年に丸之内和霊神社の小祠が設けられ、明治31年に伊達家が敷地を寄進し、明治41年に宇和島城内の日吉神社の本殿を移築し現在にいたるという。なお、本殿裏には古井戸がある。これは山家一家が殺害された時に、清兵衛の四男美濃が入水したといわれのあるもの。井戸の上に祠が設けられている。実に気味悪い一種異様な雰囲気のする空間である。
・和霊大祭には昭和20年代にはサーカスが来ていたとか、昭和50年頃にはおばけ屋敷があったとか、伊万里、唐津を売りに来ていたという。
・聞くところによると、和霊の御旅所行列には、日振島の庄屋清家が参加しているとのこと。調査すべし。私がかつて日振島にて聞取りしたところ、「和霊祭は日振の船がつかないとはじまらない」といっていた。それと関係あるのだろうか。今回はそこまでは気付かなかった。このことが判明したら非常に興味深い研究となる。神輿が九島から出されていることとも関連させて要調査。
・和霊神社前の須賀川は河川改修をしている。大正時代のことと思われるが、史料を確認する必要がある。この改修により、神田などが潰れ、旧河川の上が道路や和霊公園となっている。つまり、現在の走り込みと河川改修の前の走り込みは場所が異なっている。この時代的変遷をおさえる必要があるだろう。
・以上が昨年の見聞記録であるが、祭が大規模であるため、追加調査が必要な部分がある。今後、聞き取りなどの調査に再度うかがいたい。
2000年06月06日