縄文文化が今ブームであることは、以前にも述べたが、カシやシイ等のドングリ類や根茎類の植物食に関する民俗が、考古学の世界でも縄文時代から連綿と続く文化であると見なされ、多くの報告がある。渡辺誠の『縄文時代の植物食』(雄山閣、昭和50年)をはじめとする一連の成果や橋口尚武「調理」(『縄文文化の研究2 生業』雄山閣、平成6年)などである。
私も、四国山地を調査していて、トチやシイ、彼岸花などに関する食文化や焼畑の聞き取りをしているとき、「これは縄文文化の名残りなのだな。現代にも縄文文化が息づいているんだ!」と感銘にひたりながら話をうかがってしまう。
ところが、冷静に考えてみると、これらの民俗が、縄文時代に遡るというようにどのように証明できるのか、疑問にも思ってしまう。稲作文化のように、研究が進んで、弥生時代から連綿と続くことが実証されているのとは対照的に、縄文時代にまで歴史を実際にたどっていくことは困難である。よって、これらの民俗をもって「縄文文化の残存」と断定することは、民俗学の立場からはできないような気がするのである。
そこで、私は逃げの一手ではあるが、これらの民俗を勝手ながら「縄文的文化」と名付けてしまった。
近年、発展史観にもとづく縄文研究の覆しを試み、縄文文化が実は豊かであったと叫ばれているが、こういった主張も一つの史観に過ぎないとも思ってしまう。つまり、高度経済成長期を背景とした時代には、時代とともに歴史は発展するという見方が前提にあり、縄文時代は弥生時代よりも遅れた時代であったとの認識が当然のようにあった。これが近年、社会情勢が変わり、経済成長を前提とせず、むしろ、無意識のうちに環境問題との絡みで縄文時代を再評価する流れが出てきているのではないか。縄文文化における野生植物利用などの研究が進むのも、これが現代に連綿と続くと主張するのも、環境問題などの今の時代背景に基づいた史観の一つであるといえるのではないだろうか。
民俗学の立場からは、篠原徹が『海と山の民俗自然誌』(吉川弘文館、平成7年)の中で次のように述べている。
「野生植物利用の採集技術・調理技術の民俗だけが一気に時代を遡ることができるとどのように証明できるのであろうか。少なくとも中世以降の野生生物利用(堅果類のアク抜き技術など)に東日本・西日本の差異があることを認めたとしてもそれがどうして縄文時代以来連綿として続いたものの差異と検証できようか。しかも焼畑をする山村として照葉樹林文化論からいえばまさに縄文時代の残存した地域といういうのは標高のかなり高い地点(椎葉・祖谷・椿山・白峰・北上山地など)みある。そこは照葉樹林帯というより落葉広葉樹帯に近く、わずかな縄文遺跡の存在はあっても密度は低地や低山帯に比べて少ない。そして人々の伝承や文書によればせいぜい中世に人が住みついたにすぎないところが多い。焼畑文化が稲作文化に先行する農耕文化とすれば、そしてそれが列島外からの文化の伝播であるとするならば当然低地の縄文時代の遺跡は密度ばかりでなく、遺跡の性格の上でもそれが焼畑を示すものでなければならないが、それは考古学的には必ずしも妥当であるとは言えない。」
私は今後も、ドングリ類や根茎類の食文化についての聞き取りを行っていくつもりだが、「縄文文化の残存」という一種の夢を抱きつつも、やはりこれは「縄文的文化」の域を出ず、これを「縄文文化」と断定するには研究の発展を待たなければいけないと考えながら調査をしていこうと思っている。
2001年04月03日
私も、四国山地を調査していて、トチやシイ、彼岸花などに関する食文化や焼畑の聞き取りをしているとき、「これは縄文文化の名残りなのだな。現代にも縄文文化が息づいているんだ!」と感銘にひたりながら話をうかがってしまう。
ところが、冷静に考えてみると、これらの民俗が、縄文時代に遡るというようにどのように証明できるのか、疑問にも思ってしまう。稲作文化のように、研究が進んで、弥生時代から連綿と続くことが実証されているのとは対照的に、縄文時代にまで歴史を実際にたどっていくことは困難である。よって、これらの民俗をもって「縄文文化の残存」と断定することは、民俗学の立場からはできないような気がするのである。
そこで、私は逃げの一手ではあるが、これらの民俗を勝手ながら「縄文的文化」と名付けてしまった。
近年、発展史観にもとづく縄文研究の覆しを試み、縄文文化が実は豊かであったと叫ばれているが、こういった主張も一つの史観に過ぎないとも思ってしまう。つまり、高度経済成長期を背景とした時代には、時代とともに歴史は発展するという見方が前提にあり、縄文時代は弥生時代よりも遅れた時代であったとの認識が当然のようにあった。これが近年、社会情勢が変わり、経済成長を前提とせず、むしろ、無意識のうちに環境問題との絡みで縄文時代を再評価する流れが出てきているのではないか。縄文文化における野生植物利用などの研究が進むのも、これが現代に連綿と続くと主張するのも、環境問題などの今の時代背景に基づいた史観の一つであるといえるのではないだろうか。
民俗学の立場からは、篠原徹が『海と山の民俗自然誌』(吉川弘文館、平成7年)の中で次のように述べている。
「野生植物利用の採集技術・調理技術の民俗だけが一気に時代を遡ることができるとどのように証明できるのであろうか。少なくとも中世以降の野生生物利用(堅果類のアク抜き技術など)に東日本・西日本の差異があることを認めたとしてもそれがどうして縄文時代以来連綿として続いたものの差異と検証できようか。しかも焼畑をする山村として照葉樹林文化論からいえばまさに縄文時代の残存した地域といういうのは標高のかなり高い地点(椎葉・祖谷・椿山・白峰・北上山地など)みある。そこは照葉樹林帯というより落葉広葉樹帯に近く、わずかな縄文遺跡の存在はあっても密度は低地や低山帯に比べて少ない。そして人々の伝承や文書によればせいぜい中世に人が住みついたにすぎないところが多い。焼畑文化が稲作文化に先行する農耕文化とすれば、そしてそれが列島外からの文化の伝播であるとするならば当然低地の縄文時代の遺跡は密度ばかりでなく、遺跡の性格の上でもそれが焼畑を示すものでなければならないが、それは考古学的には必ずしも妥当であるとは言えない。」
私は今後も、ドングリ類や根茎類の食文化についての聞き取りを行っていくつもりだが、「縄文文化の残存」という一種の夢を抱きつつも、やはりこれは「縄文的文化」の域を出ず、これを「縄文文化」と断定するには研究の発展を待たなければいけないと考えながら調査をしていこうと思っている。
2001年04月03日