愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

愛媛の歴史地震と中央構造線

2013年07月09日 | 災害の歴史・伝承
さきほど、八幡浜の知人から私の携帯にかかってきた電話。昼間外出していて日にあたって肌が痛い。眠い。寝ぼけ状態で電話に出る。

愛媛で中央構造線が動いた地震がないのは本当か?

突然、こんな内容でした。

そんなことは私じゃなくて専門家に聞いてね。先日、南海地震の歴史の講座を開催したので、そのつながりでの電話か?(でも、この質問にはどう答えればよいものか。一筋縄ではいかない。「地震がない」という一言に違和感を持ったのですが、じゃあ、いつ、何時代に、どこで、どんな規模で起こったのか?と問われると即答しづらい。)

電話で伝えた内容は以下のとおり。(「科学的知見に基づく」ものではなく、雑談レベルでの話)

地震がないのではなく、中央構造線断層帯というように中央構造線は一本の断層というのではなく、数多くの断層が天の川のように連なっていて、その中に活断層もあって、過去に地震活動があったとされています。

「ここを震源とする地震の記録がない」という話をよく聞きますが、江戸時代以前の歴史地震は、震源を特定、確定するのが困難なので、当然「地震の記録がない」ということになってしまいます。確証のあるデータを提示できないということです。

ただし、愛媛県内では、今から約400年前の慶長地震は中央構造線が関係したのかもしれないとする説があります。慶長元年(1596)年の慶長伊予地震では松山市の寺堂が崩壊しています。そして現在の西条市にも被害の記録が残っています。この地震の3日後には大分で慶長豊後地震が発生し、別府湾で津波被害ありました。その翌日(伊予地震の4日後)には京都で慶長伏見地震が発生し、豊臣秀吉の伏見城が倒壊するなど大きな被害が出ました。大分、愛媛、京都といった西日本を東西に連ねる連続内陸型大地震であり、これは中央構造線と関係があるといわれますが、中央構造線断層帯の一部の活断層が連続して地震が起ったといったほうがいいかもしれません。東海、東南海、南海地震のような「連動」かどうかはわかりませんが、「連続」して起ったのは史実です。

あと、愛媛の歴史地震を眺めていて気になる地震があります。江戸時代中期の寛延南予地震です。『三瓶町誌』には次のように記載されています。「寛延2年(1749)4月10日巳の下刻、瀬戸町三机周辺部を震源とするM7.0の地震が発生し、宇和島城が破損し、その他にも被害が多く出た」大分県でも橋が破損した記録があるように愛媛西部から大分県にかけて被害が出たようです。三瓶町誌が何を典拠に「瀬戸町三机沖」、マグニチュード7.0と震源、地震規模を特定したのかがよくわからないのですが、気になる記述です。佐田岬半島沖の中央構造線活断層帯の地震である可能性はあります。なお、宇和島での被害の記録はありますが、八幡浜付近での被害の記録は確認されていません。今後の検討課題となってくる地震だろうと思います。

このように歴史的に見て「地震がない」とは断定できない、ということです。

以上、さっきの電話での会話の備忘録。



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