最近、四国山地の各所を重点的に歩いている。3月16日には上浮穴郡面河村相ノ木に出向いてトチの実をアク抜きして実食していた食文化について聞き取りを行った。地元ではトチモチといっており、縄文時代の遺物からも推定されているドングリ類の食文化との繋がりを視野に入れながら、調査をしている次第である。
そして3月21日には宇摩郡新宮村に出向いた。そこでは、稗や蕎麦、救荒作物としての彼岸花、カシの実など様々な情報を得ることができた。これらを直接的に縄文文化に繋げることはできないが、縄文時代から連綿と続くであろう「縄文的文化」としてとらえ、以下紹介してみたい。(ただし、玉蜀黍や唐芋など歴史時代に入ってからの作物もあるが、これも併せて紹介しておく。)
内容は『新宮村誌』の記述および、その補足として聞き取りしたものである。
主食
主食糧は、唐芋・蕎麦・稗・玉蜀黍・粟・黍・麦などで、それらのものを唐臼や水車で搗いたり、石臼でひいたりして、粉・団子・餅・雑炊・粥などにして食べることが多かった。
米を食べるようになったのはずいぶん後のことであり、それも少しだけそれらに混ぜて食べるくらいだった。米食だけになったのは少し前のことである。
<唐芋>
唐芋は干魃にも強く、以前は農家の主食だった。唐芋を輪切りにして乾燥したものをシラボシといい、それを唐臼で搗いて細かくなったものを、石臼でひいた粉をお茶で練って食べる。唐芋を輪切りにしたものに穴をあけ、藁を通して茹でて干すとカンコロができる。カンコロはそのまま食べることもできるが、小豆と混ぜて炊いて食べることもある。
<里芋>
里芋は茹でてそのまま食べたり、野菜や穀類と混ぜて炊いて食べる。たくさん茹でて残ったものをアジカ籠に入れておき、必要なときに食べる。
芋類はイモツボに保管する。土間から茶の間の地下に向けて需要量に応じた深さ、広さの穴を掘る。唐芋と里芋は別々に保管する。底と側面を藁で囲って芋が直接土に触れないようにする。畑で掘った唐芋・里芋を選別して隙間のないよう詰め込み、唐芋は上に籾殻を30㎝くらいの厚さで覆い、里芋は古筵をかける。そうすれば腐らないで長期間保存できる。
<稗>
稗は蒸すと先端が開くので、それを乾燥してから臼で搗き、麦を少し混ぜて炊く。または粉にひいたものを炒って、お茶で練って食べる。
<蕎麦>
蕎麦は実を粉にして熱い湯で練ったり、団子にしたり、あるいは野菜と混ぜてソバ雑炊にした。
<玉蜀黍>
玉蜀黍は焼いたり炊いたりして食べる。又は乾燥したものを砕き、それを粉にして麦や小豆をまぜて炊くのをトウキビメシという。<粟・黍>
粟や黍の「もち性」のものは搗いて餅にした。また、野菜や麦と混ぜて炊いたりしても食べた。
<麦>
麦は常畑で栽培され、米が主食になるまでは麦が主食だった。
裸麦を唐臼でつくと丸麦ができる。それを洗って釜に入れ、倍量の水に長時間浸しておき、それから炊き込む。しばらく沸騰させて二、三時間蒸したものを「ヨマシ」という。「ヨマシ」を釜の底からかき混ぜて水と少量の米を加えて炊き、沸騰したら薪を取り除き、オキでよく蒸すと麦飯ができる。
麦を石臼などでひいて野菜と混ぜて炊いて食べたりもした。
<動物性蛋白質>
動物性蛋白質は山野にいる動物や川魚から摂取していた。
山にいるイノシシ・ウサギ・キジなどは鉄砲や罠を仕掛けて捕っていた。
川にはアメゴ・イダ・ウナギ・シハライ・クグ・フナ・コイなどがいた。
「ハレ」の日の正月や盆に塩気のきいた鯖(サバ)・鰺(アジ)のほかに干した鱈やスボシを行商人から買うようになったのは戦後ずいぶん経ってからであり、無塩の魚を食べるようになったのは、つい最近のことである。
<餅無しの正月>
新宮村には正月餅を搗かない家がある。
新瀬川の某家:正月に餅を搗かない。雑煮は米粉団子に里芋をいれたものである。十五日のしめはやしが終わってから餅を搗く。
田之内の某家:正月に餅を搗かない。借金を取りにきた女を騙して風呂で蒸し殺した祟りで、餅を搗こうとすると蒸籠に梟がとまって動けないので餅が搗けない。正月十一日の蔵開きが終わるまでは餅を搗かない。
大窪の某家:ある年の大晦日に某家で大喧嘩があって中に迷惑をかけたので、の申し合わせにより、正月十五日まで餅をついてはならない、また酒を正月中用いてはならないと申し渡された。
<山菜>
ワラビ・ゼンマイ・芹・蕗・筍・ウド・タラノメ・茗荷などをおかずにした。
余ったものは漬物・日干し・佃煮にして保存した。
<救荒作物>
享保六年(一七二一)に記された『新宮村明細帳』に「男女作間の稼ハくずわらび堀飯米ニ仕候」とある。
飢饉の年には、椎の実、樫の実、とちの実などの木の実や、野草、ひがん花の球根からとれる澱粉まで食した。
西横野、脇氏所蔵文書によると、天保八年(一八三八)四月、「数珠花トモ言其根ヲ白イモト言ナリ、是ヲ前里金川領家辺ヨリ当村ヘ持来致シ洗ヒ芋ニテ一升ニ付一二文ヨリ一四文ナリ 其外樫ノ実ナラノ実葛コビ野ソバト言木ノ葉ヲ粉ニシ其余色々ノ物ヲ食スナリ」(葛コは葛の根からとった澱粉)
明治二二年一月九日付け 上山村戸長役場から各組長あてに出した文書「去ル明治廿年以来儲蓄セル稗石数届出之儀ハ毎年十二月三十一日限リ之処今ニ何等届出デザルニ就テハ儲蓄法ノ破レタル義ト候哉 而ラザレバ儲蓄ノ石数直チニ届出ヅベシ」これを見ると、明治の中ごろまで、飢饉に備えて各農家に稗の蓄えを命じ、毎年年末にその量を報告させていたようである。
<彼岸花球根食>
救荒作物の一つに彼岸花の球根がある。
有毒成分アルカイドが含まれており、これを十分除かなければならない。
球根採取:四月から八月ごろまで、花の咲くまでが澱粉量が多い。
澱粉採取の過程:堀取った球根を水洗いしたあとヒゲ根と茎を切る。
するつぶすか臼で突き砕き、バケツ等容器に入れて澱粉が流れない程度に水をかけて流して三ないし四日間さらす。
五日目くらいに全部を木綿袋等に入れ、水中でもみほぐして澱粉を漉し出す。
更に一日か二日水にさらしてから上水をとり、沈殿した澱粉を採取する。
採取した澱粉はもち状にして、ほうろくか鉄板上で焼き、みそなどをつけ食した。
あく抜き法には、球根を煮てからすりつぶす方法もあり、この場合二日程度短縮される。
また、煮る時に灰汁を入れて煮ると、更に一日くらい短縮される。
<樫(カシ)の実食>
そのままでは渋くて食べられない。
種子採取:十月下旬ごろ落果したのを拾い集める。木についている実は渋が抜けにくい。 二日、三日から一週間天日干しをするか、三日四日水浸して虫を殺してから一週間くらい天日干しをして保存する。
澱粉採取:保存していた実を二・三日天日干しをすると荒皮が割れ易くなる。平らな台石の上で平石等で押しころがして荒皮を除くか、踏臼(だいがら)で突き砕いて荒皮を除く。
より分けた実を石臼でひくが、だいがらで突き砕いて細粒にする。粒を木綿袋に入れ、容器を入れて五日間くらい流水でさらす。渋が抜けたら水を切り、石臼ですりつぶし、木綿袋に入れて、水を入れた容器の中でもみ出し、澱粉を沈殿させる。水は茶褐色になるが、無色になるまで水を取り替える。
さらした澱粉を鍋に入れ、弱火でゆっくり煮詰める。ゆっくりしたたり落ちる程度に煮詰まったら型に流し込み、自然にさます。固まったものは水中で、毎日数回水を取り替えると一週間くらいは保存ができる。
食べるときは適当に切り、単に醤油をかけるか、ユズ味噌のタレなどをつけて食する。
<焼畑>
新宮村では遅くまで焼畑が行われていた。蕎麦や稗や粟は山を焼いたあとにつくった。
山を焼いたあとに作物をつくることを焼畑又は切替畑という。
山を焼く場合、下草を刈り、木の枝を伐る作業をする。木を伐るときは依代となる木に「おりかけだる」(竹で作った樽二個が外皮でつながっている)に入れたお神酒を捧げ、山の神に祈る。そして何日か乾燥させて燃えやすい状態にしておく。
畑の上部と両側に延焼防止のための防火線「ヒミチ」をつくる。「ヒミチ」は周囲に延焼しないくらいの幅であり、草や木などの可燃物を取り払い、畑の外へ火が移ることを防ぐ。
火入れは風のない日を選んで行われる。このときも山の神に火入れをする許しを請い、山に住む生き物が早く逃げるように唱え言を言う。祈りがすむと、上から火をつけて、時間をかけてだんだんと下へ下へと焼いてくる。そうすればきれいに焼けて危険も少ない。下から火をつけると、いっきに燃え上がるので燃え残りも多く、延焼しやすい。それよりも気をつけなければならないのは、上のほうにいると煙や炎に包まれる危険がある。上から火をつけて焼いても燃え残りができるので、こんどはそれらを集めて燃やした。
山を焼いてから何日かして雨が降ったあとに種を播いたり、植え付けをしたりした。
山焼きをしたあと、一年目は蕎麦や稗をつくる。
蕎麦は七月に焼いて八月に播けば七五日でできる。
稗は春の三月か四月に焼いて植え付けをし、秋に収穫する。あるいは蕎麦の二年目につくる。
稗のあとは小豆や大豆、そして粟をつくった。
その場所で四、五年作物をつくると地力を回復させるために休耕地として他の場所に移る。
2001年03月30日
そして3月21日には宇摩郡新宮村に出向いた。そこでは、稗や蕎麦、救荒作物としての彼岸花、カシの実など様々な情報を得ることができた。これらを直接的に縄文文化に繋げることはできないが、縄文時代から連綿と続くであろう「縄文的文化」としてとらえ、以下紹介してみたい。(ただし、玉蜀黍や唐芋など歴史時代に入ってからの作物もあるが、これも併せて紹介しておく。)
内容は『新宮村誌』の記述および、その補足として聞き取りしたものである。
主食
主食糧は、唐芋・蕎麦・稗・玉蜀黍・粟・黍・麦などで、それらのものを唐臼や水車で搗いたり、石臼でひいたりして、粉・団子・餅・雑炊・粥などにして食べることが多かった。
米を食べるようになったのはずいぶん後のことであり、それも少しだけそれらに混ぜて食べるくらいだった。米食だけになったのは少し前のことである。
<唐芋>
唐芋は干魃にも強く、以前は農家の主食だった。唐芋を輪切りにして乾燥したものをシラボシといい、それを唐臼で搗いて細かくなったものを、石臼でひいた粉をお茶で練って食べる。唐芋を輪切りにしたものに穴をあけ、藁を通して茹でて干すとカンコロができる。カンコロはそのまま食べることもできるが、小豆と混ぜて炊いて食べることもある。
<里芋>
里芋は茹でてそのまま食べたり、野菜や穀類と混ぜて炊いて食べる。たくさん茹でて残ったものをアジカ籠に入れておき、必要なときに食べる。
芋類はイモツボに保管する。土間から茶の間の地下に向けて需要量に応じた深さ、広さの穴を掘る。唐芋と里芋は別々に保管する。底と側面を藁で囲って芋が直接土に触れないようにする。畑で掘った唐芋・里芋を選別して隙間のないよう詰め込み、唐芋は上に籾殻を30㎝くらいの厚さで覆い、里芋は古筵をかける。そうすれば腐らないで長期間保存できる。
<稗>
稗は蒸すと先端が開くので、それを乾燥してから臼で搗き、麦を少し混ぜて炊く。または粉にひいたものを炒って、お茶で練って食べる。
<蕎麦>
蕎麦は実を粉にして熱い湯で練ったり、団子にしたり、あるいは野菜と混ぜてソバ雑炊にした。
<玉蜀黍>
玉蜀黍は焼いたり炊いたりして食べる。又は乾燥したものを砕き、それを粉にして麦や小豆をまぜて炊くのをトウキビメシという。<粟・黍>
粟や黍の「もち性」のものは搗いて餅にした。また、野菜や麦と混ぜて炊いたりしても食べた。
<麦>
麦は常畑で栽培され、米が主食になるまでは麦が主食だった。
裸麦を唐臼でつくと丸麦ができる。それを洗って釜に入れ、倍量の水に長時間浸しておき、それから炊き込む。しばらく沸騰させて二、三時間蒸したものを「ヨマシ」という。「ヨマシ」を釜の底からかき混ぜて水と少量の米を加えて炊き、沸騰したら薪を取り除き、オキでよく蒸すと麦飯ができる。
麦を石臼などでひいて野菜と混ぜて炊いて食べたりもした。
<動物性蛋白質>
動物性蛋白質は山野にいる動物や川魚から摂取していた。
山にいるイノシシ・ウサギ・キジなどは鉄砲や罠を仕掛けて捕っていた。
川にはアメゴ・イダ・ウナギ・シハライ・クグ・フナ・コイなどがいた。
「ハレ」の日の正月や盆に塩気のきいた鯖(サバ)・鰺(アジ)のほかに干した鱈やスボシを行商人から買うようになったのは戦後ずいぶん経ってからであり、無塩の魚を食べるようになったのは、つい最近のことである。
<餅無しの正月>
新宮村には正月餅を搗かない家がある。
新瀬川の某家:正月に餅を搗かない。雑煮は米粉団子に里芋をいれたものである。十五日のしめはやしが終わってから餅を搗く。
田之内の某家:正月に餅を搗かない。借金を取りにきた女を騙して風呂で蒸し殺した祟りで、餅を搗こうとすると蒸籠に梟がとまって動けないので餅が搗けない。正月十一日の蔵開きが終わるまでは餅を搗かない。
大窪の某家:ある年の大晦日に某家で大喧嘩があって中に迷惑をかけたので、の申し合わせにより、正月十五日まで餅をついてはならない、また酒を正月中用いてはならないと申し渡された。
<山菜>
ワラビ・ゼンマイ・芹・蕗・筍・ウド・タラノメ・茗荷などをおかずにした。
余ったものは漬物・日干し・佃煮にして保存した。
<救荒作物>
享保六年(一七二一)に記された『新宮村明細帳』に「男女作間の稼ハくずわらび堀飯米ニ仕候」とある。
飢饉の年には、椎の実、樫の実、とちの実などの木の実や、野草、ひがん花の球根からとれる澱粉まで食した。
西横野、脇氏所蔵文書によると、天保八年(一八三八)四月、「数珠花トモ言其根ヲ白イモト言ナリ、是ヲ前里金川領家辺ヨリ当村ヘ持来致シ洗ヒ芋ニテ一升ニ付一二文ヨリ一四文ナリ 其外樫ノ実ナラノ実葛コビ野ソバト言木ノ葉ヲ粉ニシ其余色々ノ物ヲ食スナリ」(葛コは葛の根からとった澱粉)
明治二二年一月九日付け 上山村戸長役場から各組長あてに出した文書「去ル明治廿年以来儲蓄セル稗石数届出之儀ハ毎年十二月三十一日限リ之処今ニ何等届出デザルニ就テハ儲蓄法ノ破レタル義ト候哉 而ラザレバ儲蓄ノ石数直チニ届出ヅベシ」これを見ると、明治の中ごろまで、飢饉に備えて各農家に稗の蓄えを命じ、毎年年末にその量を報告させていたようである。
<彼岸花球根食>
救荒作物の一つに彼岸花の球根がある。
有毒成分アルカイドが含まれており、これを十分除かなければならない。
球根採取:四月から八月ごろまで、花の咲くまでが澱粉量が多い。
澱粉採取の過程:堀取った球根を水洗いしたあとヒゲ根と茎を切る。
するつぶすか臼で突き砕き、バケツ等容器に入れて澱粉が流れない程度に水をかけて流して三ないし四日間さらす。
五日目くらいに全部を木綿袋等に入れ、水中でもみほぐして澱粉を漉し出す。
更に一日か二日水にさらしてから上水をとり、沈殿した澱粉を採取する。
採取した澱粉はもち状にして、ほうろくか鉄板上で焼き、みそなどをつけ食した。
あく抜き法には、球根を煮てからすりつぶす方法もあり、この場合二日程度短縮される。
また、煮る時に灰汁を入れて煮ると、更に一日くらい短縮される。
<樫(カシ)の実食>
そのままでは渋くて食べられない。
種子採取:十月下旬ごろ落果したのを拾い集める。木についている実は渋が抜けにくい。 二日、三日から一週間天日干しをするか、三日四日水浸して虫を殺してから一週間くらい天日干しをして保存する。
澱粉採取:保存していた実を二・三日天日干しをすると荒皮が割れ易くなる。平らな台石の上で平石等で押しころがして荒皮を除くか、踏臼(だいがら)で突き砕いて荒皮を除く。
より分けた実を石臼でひくが、だいがらで突き砕いて細粒にする。粒を木綿袋に入れ、容器を入れて五日間くらい流水でさらす。渋が抜けたら水を切り、石臼ですりつぶし、木綿袋に入れて、水を入れた容器の中でもみ出し、澱粉を沈殿させる。水は茶褐色になるが、無色になるまで水を取り替える。
さらした澱粉を鍋に入れ、弱火でゆっくり煮詰める。ゆっくりしたたり落ちる程度に煮詰まったら型に流し込み、自然にさます。固まったものは水中で、毎日数回水を取り替えると一週間くらいは保存ができる。
食べるときは適当に切り、単に醤油をかけるか、ユズ味噌のタレなどをつけて食する。
<焼畑>
新宮村では遅くまで焼畑が行われていた。蕎麦や稗や粟は山を焼いたあとにつくった。
山を焼いたあとに作物をつくることを焼畑又は切替畑という。
山を焼く場合、下草を刈り、木の枝を伐る作業をする。木を伐るときは依代となる木に「おりかけだる」(竹で作った樽二個が外皮でつながっている)に入れたお神酒を捧げ、山の神に祈る。そして何日か乾燥させて燃えやすい状態にしておく。
畑の上部と両側に延焼防止のための防火線「ヒミチ」をつくる。「ヒミチ」は周囲に延焼しないくらいの幅であり、草や木などの可燃物を取り払い、畑の外へ火が移ることを防ぐ。
火入れは風のない日を選んで行われる。このときも山の神に火入れをする許しを請い、山に住む生き物が早く逃げるように唱え言を言う。祈りがすむと、上から火をつけて、時間をかけてだんだんと下へ下へと焼いてくる。そうすればきれいに焼けて危険も少ない。下から火をつけると、いっきに燃え上がるので燃え残りも多く、延焼しやすい。それよりも気をつけなければならないのは、上のほうにいると煙や炎に包まれる危険がある。上から火をつけて焼いても燃え残りができるので、こんどはそれらを集めて燃やした。
山を焼いてから何日かして雨が降ったあとに種を播いたり、植え付けをしたりした。
山焼きをしたあと、一年目は蕎麦や稗をつくる。
蕎麦は七月に焼いて八月に播けば七五日でできる。
稗は春の三月か四月に焼いて植え付けをし、秋に収穫する。あるいは蕎麦の二年目につくる。
稗のあとは小豆や大豆、そして粟をつくった。
その場所で四、五年作物をつくると地力を回復させるために休耕地として他の場所に移る。
2001年03月30日