大正14年に高知県幡多郡役所が編纂した『高知縣幡多郡誌』に、江川崎村(現西土佐村)の牛鬼に関する由来伝承が紹介されていることを知った。「牛鬼の由来、文禄年間豊臣秀吉朝鮮征伐の際士卒屡々虎害を蒙る、陣中に伊豫の住人にして大洲五郎なる者あり頗機智に富み牛鬼を乗出す、士卒之を擔ぎて虎に向へば虎は驚愕して逃走す以後被害なし我軍戦勝凱旋するや郷人之を神事に用ひ神輿の先駆者たらしむ竹を用ひて作り長さ二間余赤き布を用ひて之を包むに形体●大怪偉にして威風四隣を●し法螺貝を吹きて縦横に奔馳する様鬼神も恐るるの概あり」
牛鬼の由来については、愛媛県宇和島地方で、朝鮮出兵の際に加藤清正が敵を威圧するために用いたのがはじまりといわれ、昭和初期にはこの伝承が定着していたことがわかっている。また別の由来として、大洲太郎が赤布を用いて牛鬼を作ったのがはじまりという伝承もある。しかし、いずれも昭和初期以降に著された文献に紹介された説であり、この伝承の詳細はよくわかっていなかった。
しかし、この『高知縣幡多郡誌』の記述は、具体的であり、これまで愛媛で確認していた複数の由来伝承を結びつける内容となっており、各地に伝わった由来伝承の原型を示しているといえるのではないだろうか。
①文禄年間の朝鮮出兵の際に、兵士が虎害を被っていた。
②伊予の大洲五郎が牛鬼を作って虎害を防ぐ。
③以後、神輿の先駆として取り入れる。
以上の3つの文脈にわかれるが、宇和島地方では①の話が変容して「朝鮮出兵の際に加藤清正が敵を威圧するために用いた」という話になり、また②が独立して朝鮮出兵の話とは切り離され、単に「大洲太郎(幡多郡誌では五郎)が赤布を用いてつくったのがはじまり」という伝承となったのだろう。
なお、虎退治のために牛鬼を用いたことに関連する伝承が南宇和郡御荘町にある。ここの牛鬼は、山に出る狼を退治するために、藩主伊達家の許しを得て、出したのが始まりだという。動物退治で共通するが、この話ももしかすると、虎退治が変容して狼退治になったのかもしれない。
牛鬼の由来には謎が多いのは、それを裏付ける文献が新しいことが原因といえる。大正14年の『高知縣幡多郡誌』より以前の史料に、由来伝承の記事がないかと探している最中である。
2001年04月15日