誰かが違う方向を向くことなく
みんなでしっかり同じ方向を
向いてやっていこう
日本一目指して!!byシゲシゲ
これぞ史上最短の所信表明!
1・2軍全スタッフ、選手が集まり全体ミーティングを開いた。
新コーチングスタッフ・プロフィール
森 繁和 1軍ヘッドコーチ(80)
2004からは中日ドラゴンの監督に就任した落合博満からの要請を受け中日の投手コーチに就任。2009年まで中日ドラゴンズ一軍バッテリーチーフコーチを務め、2010年にヘッドコーチへと昇格し4度のリーグ優勝、1度の日本一に貢献し2011年に退団。2013年10月22日翌2014年より中日のヘッドコーチに就任することが発表された。11月1日には背番号が80に決定したことが発表された。
友利 結 投手コーチ(81)
2005年秋、実家のある沖縄県北谷町に帰省していた友利は、当地でキャンプを張る中日の落合博満から「秋季キャンプを見に来いよ」と電話で誘われて出かけたところ、いきなり「この中から好きな数字を選べ」と背番号を選ばされ、テスト無しでの入団が決定した。これによって、普段着のジャージ姿で即席の入団会見を開くはめになった。
中日には西武・横浜時代のコーチである森繁和が在籍し、友利の能力を評価して落合に獲得を進言したのも彼である。なお、1年足らずの渡米でメジャ-昇格しなかったとはいえ、2005年度のシーズンはMLBの在籍であり、日本人のこのような移籍の場合でも事前の身分照会が必要なのだが、中日はそれをしなかったため、一旦決定した入団を取り消す一幕もあった(後に身分照会を行い改めて入団手続きを取っている)。
辻 発彦 内野守備走塁コーチ(85)
2007年には就任1年目にしてウエスタン・リーグ優勝を果たし、9月29日のファーム日本選手権で巨人を破り日本一になる。2008年は振るわなかったものの、2009年シーズンでは山本昌や井上一樹らのベテラン勢、1軍を多く経験した若手の活躍もあり、2年ぶりにウエスタンリーグとファーム日本選手権を制覇した。
2010年は一軍の総合コーチに異動し、作戦面で落合監督を支えることになった。2011年シーズン途中からは三塁コーチャーを務め、連覇に貢献した。シーズン終了をもって契約満了により退団
2013年10月22日、2014年シーズンより内野守備走塁コーチとして中日ドラゴンズに復帰することが発表された
長嶋 清幸 外野守備走塁打撃コーチ(78)
2004年から中日において、落合博満の右腕としてチームを支えていたが、2006年10月28日に翌シーズンの契約を結ばないことを通告されて緊急で記者会見を開き、落合監督と高代延博コーチを痛烈に批判した(同時に高代との確執も認めている)。長嶋本人が語ったところによると、この「不満会見」は球団側が許可しており、また落合は長嶋に解雇の理由を「口が裂けても言えない。墓まで持っていく」と告げたとのことである。会見当日はスポーツマスコミが一斉にこの模様を報道したが、翌日以降、騒動は沈静化した。同年12月8日より、日刊ゲンダイにて「さらば落合中日」と題した長嶋本人による落合批判コラムを連載した。 しかし、落合がゼネラル・マネージャーとして中日に復帰する2014年シーズンからは、再び外野守備走塁打撃コーチとして復帰する。
波留 敏夫 外野守備走塁打撃コーチ(71)
2001年、シーズン途中に種田仁、山田博士との交換トレードで中日ドラゴンズに移籍。(中日在籍2001~2002)
2014年シーズンより中日ドラゴンズの外野守備走塁打撃コーチを務めることが発表された。11月1日には背番号が71になることが発表された
勝崎 耕世 コンディショニングトレーニングコーチ(92)
中日ドラゴンズ監督に就任した落合博満監督に請われ、2004年~2011年まで中日ドラゴンズのコンディショニングコーチを務めた。 2014年、コンディショニングトレーニングコーチとして中日ドラゴンズに復帰した。
佐伯 貴弘 2軍監督兼打撃コーチ(72)
2011年は開幕から代打で起用されるも1ヵ月以上が経過して13打数0安打と結果が残せなかったが、5月20日の対西武戦で移籍後初のスタメン出場を果たし、逆転2点適時打を含む4安打を打ちチームの逆転勝利に貢献した。41歳としての4安打は球団史上初の記録であった。また、この年には当時の球団の三塁打及び本塁打の最年長記録を更新した。しかし、代打では打率1割に終わるなどシーズンを通しての活躍はできず、11月11日に前年に続き二度目の戦力外通告を受けたが、その後も福岡ソフトバンクとの日本シリーズ終了まではチームに帯同した。12月2日に自由契約公示された。
中日を自由契約となった後はプロ・アマ含めいずれのチームとの契約はなかったものの、テレビ番組に出演した際に「引退ではない」と語るなど、現役続行の道を模索して浪人生活を続けていた。
2013年10月22日、中日ドラゴンズの二軍監督兼打撃コーチ就任が発表された。11月1日には背番号が72になることが発表された。
徐 容彬(ソ ヨンビン) 打撃コーチ補佐(82)
中日ドラゴンズでのコーチ研修(2007年)を経て、LGツインズに復帰。LGでは、スカウトを経て、2008年から2013年まで打撃コーチを務めた。
2014年1月21日には、打撃コーチ補佐として契約することを発表。徐は、コーチ研修から7年振りに、常勤のコーチとして中日へ復帰することになった。なお、契約上コーチとしての報酬は支給されず、主に二軍を指導する。私生活では1999年タレントのユ・ヘジョンと結婚したが、2007年離婚している。
佐藤 秀樹 投手コーチ(75)
1992年のドラフト会議で中日ドラゴンズから1位指名を受け入団。
2006年より、古巣中日のスコアラーに転身した。2007年まで広島東洋カープ担当、2008年は横浜ベイスターズ担当、2009年から2011年は阪神タイガースを担当した。
2012年からはスコアラーの担当制は廃止された。2013年10月22日、翌2014年シーズンより中日の二軍投手コーチを務めることが発表された。11月1日には背番号が75になることが発表された。
前田 章宏 バッテリーコーチ(79)
2001年のドラフトで、中日から寺原隼人の外れ1位で指名され入団。地元の1位入団選手として期待された。
2013年、松井雅人、田中大輔らとの3番手捕手争いに敗れ、わずか6試合の出場に終わった。10月2日に球団から戦力外通告を受け、引退。
ブルペン捕手としてチームに留まる予定であったが、ゼネラルマネージャーに落合博満が、監督に谷繁元信がそれぞれ就任すると、一転して2軍バッテリーコーチへの就任を打診され、10月22日、コーチに就任することが球団から発表された。11月1日には背番号が79に決定したことが発表された
高柳 秀樹 打撃コーチ(88)
2005年に中日ドラゴンズに二軍打撃コーチとして入団。2010年6月より、打撃強化策の一環として一軍打撃コーチに配置転換された。2011年より野手コーチを務め同年退団。
2013年10月22日、2014年シーズンから中日ドラゴンズの打撃コーチに復帰することが発表された。11月1日には背番号が88になることが発表された。
達川 光男 バッテリーコーチ(70)
以前に投稿済みです。
継続されたコーチの方々共、強竜再熱常勝軍団の礎となった「12球団一の練習量」を
取り戻し、チーム再建の足場を固め頑張って下さい。
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