urauranus(ゆり)のあけてびっくりおもちゃ箱

「枡野浩一のかんたん短歌blog」にトラックバックで投稿するためのblogでしたが…??? 日々の記録……記憶。

宿題

2006-11-06 20:42:00 | Weblog
小学一年生の頃だったと思う。
わたしはこたつで算数の宿題をしていた。ぼーっと。
とつぜん、そばにいた母親の平手打ちが飛んできた。
びっくりして母親を見ると、恐ろしい顔で
「なんだこれは! 0なのか6なのかわからん! 字というものは読めなきゃ字じゃない!!」と、怒鳴られた。
こういうことは日常茶飯事で、わたしにはこれが「ふつう」だった。
が、世間一般では「ふつう」ではないということが、だんだんわかっていった。

中学一年の時、クラスメイトの文字がさっぱり読めなかった。きたなすぎて。
一生懸命、解読しようとしたけれど、わたしには無理だった。
それをすらすら読む、別のクラスメイトに驚かされた。なんだか彼女が、すごい人に思えた。

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習い事

2006-11-06 19:46:18 | Weblog
わたしが通っていた幼稚園にはエレクトーンが何台かある部屋があり、土曜日の午後、ヤマハの音楽教室の先生が来て、希望者は受けられた。よく憶えてないけど、希望者は多くて、何クラスか時間ごとに分けられていたと思う。
それを受けられるのは年中からで、わたしは二年間受けた。母親の希望だったと思う。
(幼稚園には、わたしは三年通った。わたしの希望らしいが、近所の子が一つ年上の子が多かったから、そりゃ誰でも「わたしも行きたい」と言うだろう。)
小学生になり、近所にはそろばん塾があった。そこは二階がそろばん塾で、一階に自転車置き場と小さな部屋があった。
小さな部屋にはピアノとエレクトーンが置かれていて、ピアノ兼エレクトーン講師が雇われていた。そこへ、週一回、ピアノを習いに行っていた。
20分だったか30分だったか忘れたけど、自分の時間が決まっていて、少し早めに行って勝手に入り、ソファに座って楽譜を開きながら準備し、前の人の終わるのを待つという感じだった。
終わったら、「ありがとうございました」と、さっさと帰る。流れ作業(?)な感じ(?)。
わたしは、学校と違って、「練習してきた」と言えばどんどん進み、みてもらえるピアノが楽しくて、練習した。
三年生になってすぐ、「私が教えられることはもうないので、私の先生を紹介します」と言われた。
それから土曜日の夜、隣の市の新しい先生〈男)の所へ、母親の運転する車で通うことになった。片道40分くらい。
その先生の家は農家だと聞いたような記憶があるけれど、そうだったのかよくわからない。
離れに、診療所の待合室のような感じの部屋があり、古いオルガンやソファ、壁には時計があった。
奥の部屋はとても広く、ゆったりと真ん中にグランドピアノが二台並んで置かれていた。部屋にはレコードや楽譜の入った本棚やソファがあった。
レッスンは30分だったか40分だったか忘れたけど、時間が決まっていた。が、5分で終わることもあれば、2時間たっていたこともあった。
レッスンが終わり部屋を出ると、次に習いに来ている女の子がお母さんと待っていた。
母親は二人に謝っていた。
その先生の所には一年も通うことはなかった。
ある日、レッスンが終わった後、「お母さん、お話が……」と、わたしは待合室で待っていた。
翌週、レッスンを受けに行き、レッスンは受けずに帰ってきた。
部屋に入ってすぐ、「ピアノはやめることにしました。ありがとうございました」とかなんとか、母親は先生に言っていた。
「ピアノはもうやめようね」と後で、母親に言われたけれど、わたしには訳がわからなかった。
が、毎週毎週、帰り道の40分間、二人だけの車内で、母親の罵詈雑言を浴びせられ続けることに疲れていたので、少しほっとしていた。
後になって、わたしは知った。
「お母さん、お話が……」の続きは、「素質があるので、留学を考えてみて下さい」だったと。
そして、考えるも何も、うちにはそんなお金はなかった……と思う。
(でも、父親は会社の人に「娘にピアノを買ってやりたいので、金を貸してくれ」と言われ、貸してやった。その男は返しもせずに数年後、今度は「息子を野球留学させるのにお金が足りないから貸してくれ」と言い、「そんな金はない」と断ると「社内預金があるのを調べて知っている。それを貸してくれ」と言ったらしい。たぶん貸したと思う。そんな父親を持った子どもはたいへんしあわせですね。うらやましい。)
留学してもピアニストにはなれなかったと思うけど、でも、留学はしてみたかった!

庶民って、本当に、つまらない。
今度生まれる時は、絶対に金持ちの娘がいいな。

何もやめさせることはなかったのに……と、今は思うけど。
(でもまあ、習うのをやめてからピアノを弾かなくなったのは、また別の理由がある。)
昔、自分でピアノが上手だと思ったことは一度もない。
(実際、弾き込んでも、弾きこなせてもいなかったと思う。)
レコードを聴いて、なぜわたしのピアノはレコードみたいに美しくないんだろう? 曲が違うのかな? ピアノが違うから? なにが違うんだろう? と思っていた。
きっと、わたしのピアノってレコードなんかよりもすっごくイイ! と思えるくらいに上手かったら、どんな条件をも乗り越えて、きっと素晴らしいピアニストになれていただろう。
そろばん塾の一階で習っていた頃、前の生徒のレッスンの様子を聞きながら、「わたしはピアノの先生にはならないし、なれない。練習もしてこないような子はみたくないし、みれない。やる気のない子には教えられない」と、強く思ったことを憶えている。

四年生の頃だったと思うけど、ピアノをやめた後、クラスメイトに「今日、いっしょに遊ぼう。あっ、今日、ピアノの日だった。いいや、いっしょに行こう!」と、言われ、とてもおどろいた。
そして、行ってみて、さらにおどろいた。
あまりにも違っていた。
ピアノのレッスンというよりは、音楽を楽しみましょうというお遊び。
わたしもいっしょにと言われ、歌った。
最後におやつも出てきた。わたしにも。
習い始めたばかりだったのかもしれないけれど、レベル的には、幼稚園の頃のヤマハの音楽教室にも劣ると思う。

その後、「ピアノを十年習っている」と無邪気に、うれしそうに言う人のピアノを聞いて、おどろいたことがある。
「ぷ、十年習ってその程度なんて笑える」と、素直に無邪気に言ってしまえる人間であったならば、少しはわたしの気は晴れただろうか。
大人になった今、わたしの手は小さく、指は短く、ピアノを弾きたいとはあまり思えない。
かなしい。本当に、心から、かなしい。

習い事は、無意味に時間と年月をかけた方が、世間的な一般的評価も本人の満足度も高いと、わたしは学んだ。
が、わたしは凝り性で飽き性のよう。性分は、なかなか変えられるものではない。
無意味に時間と年月をかけるには、お金の力が必要だということもわかった。
努力すると、努力したからこそ、ダメになったということも多いので、何事ももっと適当にやろうと思う。

わたしは、ただ、しあわせになりたい。
神様、こんな(根性の悪いかもしれない)わたしでも、しあわせになれますか?
それともやっぱり、前世の行いがあまりにも悪かったのだろうか。

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玉ねぎのミイラ

2006-11-06 19:44:36 | Weblog
小学一年生の時、「給食は残してはいけません」「嫌いなものも食べなくてはいけません」という教師だった。
給食の時間は、席順による六人くらいの班ごとに机をつけて食べるようになっていた。
その学校は、給食の後は掃除の時間となっていて、掃除の場所はその席順の班ごとに決まっていた。
その時、わたしは一番廊下側の前の席だった。名前は忘れたけど、同じ列の後ろの方に違う班だったけれど、嫌いなものがあって給食が食べられないという子がいて、その子が教えてくれた。
机の下でティッシュを広げ何枚か重ね、それを左手に乗せ、同じ班の男子がちょっとおもしろいことを言った時に、イヤなんだけれど我慢して嫌いなものを、右手のスプーンで口へ運ぶ。そして、両手を口に当てて笑ったふりをして、吐き出す。机の下でティッシュを丸めて、それはなるべく早目にゴミ箱へポイ。
ポイントは、「口に入れるのは1回ですむように、嫌いなものだけその前に集めておく」とか「両手からティッシュがはみ出さないようにする」とか「なるべく不自然にならないように、自然にやる」とか。
しばらくやっていた。
ちゃんと、隣の席の子にも他の子たちにも気づかれずにやり、二人は成功の合図を送り合ったりしていた。
ゴミ箱は教室に二つ、大きい方は廊下側の後ろの角に、小さい方は教師の机の近く、前の黒板の下に置かれていた。
吐き出したものは、後ろの大きなゴミ箱に捨てていた。
ゴミ箱にはビニールのゴミ袋がセットされていた。図工の時間に工作をした時は、1日でゴミ箱はいっぱいになったけれど、それ以外はなかなかゴミは出ず、あふれそうになると掃除の時間にしばって焼却炉へ持って行っていた。
その時、わたしは教室を掃除する班だった。教室の掃除は六人では無理なので二班あった。
なぜかその時、ゴミ箱にはビニールがセットされていなくて、数人でビニール袋にゴミをあけていた。そのうちの一人が、こぼれたゴミの中から「これ、なんだろう?」と、かちかちになった、生まれてはじめて見る物体を持っていた。(よく憶えてないけど、大きさは消しゴムくらいで、色は茶色だったかな?)
教室にいるみんな、それが何なのかわからず、教師も「なにかなぁ」とわからなかったみたいだけれど、わたしは気づいた。
あまりに変わり果てた姿にすぐにはわからなかったけれど、それはわたしが吐き出した、ミイラと化した玉ねぎだった。
しらんぷりしてたけど、内心、いったいいつのだろう? ゴミ箱の中でいったい何が起こってたんだろう? と、とても不思議だった。
新しいものはティッシュだということがわかる形で、誰かが鼻をかんだものだと思ってるかもしれないけど、あの中には……と、わたしはゴミ袋の中身を見ていた。
わたしに教えてくれた子は、その時、校庭の草むしりの班だったと思う。そこには、いなかった。
こんなことは二度とないだろうけど、でもばれないうちにやめなくては……他の方法を考えなくては……と、小心者のわたしは思った。

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