所属する同人誌のひとつ、詩誌「密造者」へ成田豊人詩集『夜明けのラビリンス』(当ブログで概要紹介済み)の
読後感を寄せたので再掲。
幻視表出の効果と暗喩
ー成田豊人詩集『夜明けのラビリンス』ー 前田 勉
詩集を編み上げるというのは、人によって意味合いが異なっているのは当然のことだが、端的に言えば、ある程度の
詩編がまとまったから出版するという人もいれば、一つのテーマを意識し取り組んできた結果として出版するという人
もいる。そういう見方で言えば、この度の第八詩集『夜明けのラビリンス』は後者の方であろうか。ひとつのテーマに
添った、あるいは近似した思考の詩世界を一冊にまとめ上げたという感じがする。もちろん、これまで一定期間ごとに
詩集としてまとめ上げてきた成田の在り方からすれば、納得する詩編がまとまったことや、自身の機運が到達した時期
であったということは当然ながら考えられる。
さて、ここでは収録された一つひとつの作品解釈ではなく、全体的な、外側から感じたことなどにふれてみたい。
一読後に感じたことは、大まかに三つに分けることができる。まず事象表現の巧みさであった。生まれ育った街や人々
などを描写するとき、あるいは記憶され過ぎ去った時間空間を表わすとき、心情が美しく哀しく添えられている。
しかし、単なる懐かしみ耽溺する湿り気はなく、ひとつの思考の入り口としてどこか乾いている。乾いていようとして
いる。成田の抒情性と社会性の展開基盤とも言い得る目線が、背景に隠されているようにも思えてくる。こうした作品
群は彼の生な姿が見える分、作品に近づきやすい。
次に特徴的なのは、白昼夢とも明 晰 夢(めいせきむ)とも言える異次元の世界を複数示したこと。インパクトのある
効果をもたらしている。
そしてもう一つは、社会に対する成田のきっちりとした視点が暗喩という表現をとりながら底流にあるということだ。
前の詩集『消息』から今詩集までの七年間における自身の詩世界への取り組み、殊に方法論としての変化、
そうしたものがこの詩集にはよく表わされていたように感じられた。
幻視世界の表出効果
夢とも現(うつつ)とも判然としない時間空間、ドラマチックな展開、想像域もしくは幻想を可視化させる詩行、
時にまるで独り芝居のような感じさえする場面設定。
こうしたものが顕著に表わされていると思った部分を次に抜き出してみる。(傍線と太字は前田)
まだ雪に埋もれた小路から/高校時代の同級生がいつの間にか現れる
/駅前の潰れかけている映画館の事をまくしたて/高校生の頃交わした話続きと思い
/あいづちを打とうとしたが/もう姿を消してしまった/幻だったのか
/遠くに学生服姿が見えた気もする/追いかけようかと思った刹那/誰かが後ろから肩を叩いた
/もう帰れという言葉と共に
(「大館市大町界隈・春先」)
父なのか/ただの訪問者なのか/玄関のガラス戸には人影が映っている/明らかに父とは違う
/鍵を外し戸を開けると/いきなり/真新しい軍服姿の自分が現れた
(「ある帰還」)
引き金をまた引く/血しぶきが目弾ける/倒れた男の顔に見覚えがあった/紛れもなく自分自身の死骸
(「私の部屋」)
車は速度を落とし/入口の近くで止まった/中に人影が見える/見覚えのある背 広/紛れもない 自分だ
(「公園にて」)
翌日 塵としてレコードを捨てた/自分の内臓を人目に晒した気分のまま/装置を返しに行った
/友人は怪訝な顔/貸した覚えはないと言い張り/そもそも持っていなかったと言いたてる
(「終活」)
路地の入り口を通りすぎるたびに/忘れてしまった人々が無表情のまま佇んでいる/名前を呼ぼうとすると
/無言のまま姿が消えて行く/(略)//武器を持った集団が近づいて来る/精悍な顔つきの軍人達
/擦れ違う時/みな俯き足取りだけはきびきびし/音も立てず 過ぎ去った/慌てて振り向く
/足跡のない雪道が/どこまでも続いているだけだ
(「雪あかりの街」)
不思議なことに/五人家族は時々輪郭がはっきりしなくなる時がある/何かを食べている気配もない
/ずっと声音はしないし/匂いもしない/乳飲み子の泣き声も聞こえてはこない
/ただみんなうつむいているだけだ
(「超・同棲時代」)
二十六才の時の処女詩集『北の旋律』からあらためて既刊の七詩集に目を通してみたが、ここに引用した方法、書き方
に類したシチュエーション、作品は前の詩集『消息』に四編あっただけで、それ以前の詩集にはなかった。この四編の頃
に彼の思考回路は少しギヤチェンジしたのだろうか。
時間を超えた過去と現在との往来や自分の生の根源が関わっている事象が幻視として表わされ、内奥の揺らぎや表現技
量が象徴、強調される。その場面で読み手は一瞬戸惑い、やがて意外性の効果を理解し再度前後の詩行や連を確認する。
成田にとってそこら辺の効果は計算済みのことなのかもしれない。
この突然と出現する世界は魅力的である。が、しかし、これら意外性と心象を表わすにはぴったりのこの手法も、多用
すると効果は薄れてしまう。同人誌などへ発表してから次の発表までは時間が介在してくれるが、詩集となれば、いわば
隣り合わせに連なっているようなものだから、類例として読まれてしまいかねない。敢えてここにまとめたというのは、
描かれている世界、想念に力点を置いた彼の“時期”“期間”であることを示そうとしたのかも知れない。
社会性への視座
収録された詩作品は単なる過去への回帰性を以って思い出話を紡いでいるのでもないし、当然ながら読み手へのサービ
スのために幻視とも妄想とも言い難い世界を出現させているのでもない。これまでの詩集や個々に発表されてきた詩作品
を読み進めると分かることだが、きっちりとした社会性への視座で描き表されているということに注視しなければならな
い。例えば生まれ育った街を描いた詩では、寂れて行く商店街、施設、人々も同じように消えてしまい「すっかり時代の
澱にまみれ/未来を待ち焦がれているように/微笑みを浮かべていた人々は/写真の中で疲れ果てている」(「鷹巣・銀
座通り商店街異景」)という現実を描く。こうしようとも、こうあらねばならないとも、どこかに対して問うことも、叫
ぶことも、コトバとして詩句として具体的に書かれてはいないが、切実な現実をここで発信している。交錯する思いを切
ないまでに発信している。だから言わんとすることが伝わってくる。
読み手の勝手な解釈を、ここで敢えて結びつけてしまうという過ちを自覚しながら言うのだが、前掲引用した作品のう
ち、二作品の詩行を太字で表示した箇所の「軍服」「武器を持った集団」「軍人達」といった文字、コトバは、この街に
住みこの街をつくっていた多くの先人たちと時代性を表わすものでもあり、かつ、ストレートな意味あいも持っているの
だと思う。「時代は変わっても/言葉にできない深い空白を抱え/人々はしめやかに生きてきた/何も悪いことはしなく
ても/不幸の時に包まれ」(「米代川・2018」)てきたから、みな“うつむいて”いる。単に幻視された過去の存在者
たちだから、ということだけではないように読み取れてくる。
暗喩?
ここまで引用した詩は、比較的わかりやすい。つまり読み取れる範疇に入る作品群とも言える。彼の作品は暗喩の効い
たものが多くなってきた感じがする。当詩集では「ある別れのために」「歌は影となって」「坂の底から」「私の部屋」
などだろうか。表題となった「夜明けのラビリンス」もそうかも知れない。こうした作品へ入り込んでいくのはある意味
難しい。タイトルを意識しながら読み進めていくのだが、背景に気付かなかったり感じ取れないでいると、どこまでも交
わることなく平行線のままモヤモヤしたものを抱え込んでしまう。時にその背景は世界で起きている紛争や事件であった
り、大震災のことであったりとそのモチーフを推測したりはするのだが、読み手として曖昧なままである。
また、「あの」「あの時」「あの日」「あの人」「あれから」といった、多くの書き手(私を含めて)が懐古的な情景
や情態を表わすときに多用してしまう指示代名詞の前で、つい立ち止まってしまうことがある。これらは読み返しても充
当すべき具体的なことは出てこない場合が多い。すべては彼の中で熟考し消化されたものたちだから書いていない。言い
たいことの本質ではない事柄、あるいは誰でも知っている事象だからという位置づけが、前提にあるからかも知れない。
直截な書き方をしていないので、私のような社会性に疎い読み手はここで試されている感もする。
詩に意味を求めようとして読むからだろうか。
「私の部屋」
刑場には風がかすかに吹き/砂漠の埃が鼻腔をくすぐる/鍵のありかは確かめる暇もない/
時は常に止まっていて/ひどい熱が体にまとわりつく/無抵抗のまま跪く死刑囚のうなじが光る/
拳銃の安全装置を外すと/どこからか昔聞いた歌が聞こえて来る/旋律はぬめるように体を包む/
指先が凍え始める/引き金を引く/血の匂いが漂うなか/誰にも妨げられず古いメロディーが/
空間に浸みて行く/突然記憶が甦る/何人もの人間を凌辱し部屋に閉じ込め/ドアに鍵を掛け火を放った/
吹き出す煙と炎/家が崩れ落ちる瞬間/神々しいとさえ思った/また一人囚人が連行されて来る/
どうして無抵抗のまま処刑されるのか/いつか訊ねてみたい/汗に濡れた拳銃を頬に当ててみる/
少し前映像で見た遠い異国/人で溢れるスクランブル交差点の真ん中で/互いの舌をからませ/若い二人は/
抱き合ったまま立ち尽くしている/眠くなりそうな画面/引き金をまた引く/血しぶきが目に弾ける/
倒れた男の顔に見覚えがあった/紛れもなく自分自身の死骸/また歌が聞こえて来た/出発は迫っていて/
出口のドアが遠くに見える透明な仮面を被りながら/部屋に鍵を掛け/念入りに戸締りを確認し/
妻と子供の待つ外に出る/家族とこれから歩く雑踏を想像すると/再び指先が凍り付く/
時間は音を立て激しく流れていて/仮面は既に皮膚と溶け合っている/
暗喩について吉本隆明は、「野村さんは暗喩(略)の詩人、城戸さんは直喩の詩人ということが出来ると思う。
(略)同じ暗喩の詩人でも、(略)平出さんは自分は詩の外にいて、そこから暗喩表現をしている。
だから読むとスッキリしているし個性も味わえる。一方、野村さんは言葉の中に半分、自分が入っている。
半分は詩の外から詩をつくり、半分は詩の表現の中に自分を入れている。
だから、暗喩が多義性を帯び、複雑な陰影をもち、難しく感じられる」と『詩(※)の力』の中で言っている。
非常に分かりやすい説明で、暗喩のバリエーションを示した定義のようにさえ思えるが、
この個所を読んでいると、成田が書く詩は野村タイプなのかなと思ったりした。
成田は暗喩の詩人でもある。
印象、あくまでも曖昧な印象としてのことだが、五〇才代あたりまでの成田は想う世界を直截に、
時に激しく言い表していたようなイメージがある(実は違うかも知れないが)。
性や酒や艶やかな世界をも書き表しながら、生きていることをリアルに強く出し、社会を直視していたように思う。
衒うことなく、それらを以ってごく当たり前のように詩作していた気がする。
彼の持つ資性なのだろう。今なおインパクトのある詩世界を持ち続け、内奥表出へ更に挑んでいる。
当詩集を読みながら、成田のそんな姿を感じた。
(文中敬称略)
※『詩の力』2009年、新潮文庫。毎日新聞社刊『現代日本の詩歌』を解題。
※〈参考〉文中引用した吉本隆明氏の文章の内、野村は野村喜和夫氏、城戸は城戸朱里氏、平出は平出隆氏。
詩誌「密造者」/発行編集:亀谷健樹/秋田県北秋田市上杉下屋布袋257/頒価800円
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