うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

銀杏を拾う。

2024年11月30日 04時54分58秒 | 個人の庭・エクステリア
もうすぐ、師走だ。先日近くのお寺でイチョウの銀杏を拾う。冬タイヤ交換に行く途中の、11月26日の午前のことだ。お寺の刀自に声を掛けてから拾っていたら、自身は毎回の掃除について困っているようでついでに皮を剥ぐ作業について水洗いのアドバイスをもらった。帰宅後、悪臭紛々たる銀杏をわたしは自宅の玄関横の流し台でバケツとゴム手袋で何度も繰り返す。滓はゴミ袋内へその上に土を載せて臭いを吸着させる、次に庭の濡れ縁に箕へ並べて天日干しにした。数日後室内へ、これで保存していくのだ。手間暇がかかる。実に、わたしはこういう一連の作業が好きだ?!。
 ちなみに、果実自体は宝石のような美しい翡翠色である。YouTubeによると、電子レンジで紙封筒に入れて30秒ほど炒ることにより、やっと、おでん、茶碗蒸しや混ぜご飯などに調理可能となるらしい。
 ここの果実は粒が大きい。収量は2,3キロ程度か。イチョウのは樹齢的には壮年期か、極めて健全な証拠だ。しかし、この先はどうするか決まっていない。わが家族では家内のみが好物で、余る勘定になるがどこに配るか余計な心配をすることになるだろう。
 現在、このイチョウの樹木調査を継続中である。この先は落葉後に樹体や樹勢を確認しこのブログにアップする予定だ。
          
          
          
          
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トチノキとギボウシの紅葉

2024年11月28日 17時59分17秒 | ガーデニング・庭づくり
ここでは、11月27日昼頃のトチノキとギボウシの紅葉画像をアップする。ギボウシの品種は〈天竜〉で、斑入りではなく青葉種であるがすっきりしたいい色を出している。今年は長年ギボウシを蒐集していてその品種数が270種に達したが、ここ数年見てきた範囲内ではこの〈天竜〉の暖色系のイエローの紅葉の出具合いが一番いいように感じる。

          
          

          
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わたしの育った田舎

2024年11月27日 10時57分26秒 | 短編小説、エッセイ・創作作品・成果品など
 ここでは過去のブログ記事で20070625、20070629、20070701にアップした、【わたしの育った田舎1,2,3】を転載する。三つの記事を一本にまとめたがこれはエッセイに分類されるだろうか。しかし、いやはや、17年前になるのか。
 原典は 極私的造園設計経歴書-自叙伝ふうに-《緑の仕事》 から抜き書きしたものである。わたしは当時、造園会社の設計室に勤務していて一生懸命にランドスケープ、造園デザインというものを考えた時代であった。 


  2007年6月25日  *************************
 ≪朝起きると子供たちは農家の広い庭の掃除をおこない、各部屋の雨戸を開けたてて、縁側などの板敷きの床の雑巾がけをする。家畜の世話は、毎日人間と同じように二度三度牛に飼い葉を与えたり水を足したり敷き藁を取り替えたり世話をする。にわとり、うさぎにもえさをやる。乳牛を飼っていた頃は、素手で牛乳をしぼったのち原乳を井戸水の中で攪拌冷却して、ステンレス製で円筒状の集乳缶に詰め毎朝集荷場所に自転車で運ぶ。こういう作業は家族の手の空いている者の役割である。炊事の準備は祖母と母がかまどで薪を燃やし釜でご飯を炊いている。燃料である山から集めた薪(タキギ)は木小屋(キゴヤ)に積み重ねてある。
 野菜を裁板(サイバン・マナ板)の上できざみ味噌汁を手際良く作っていく。おかずは軒先とか柱につるしてある乾物を取り込み、野菜や魚を別棟になっている漬物小屋の大きな樽から取り出す。飲み水はあらかじめ井戸から汲み上げて台所の大きな水甕(ミズガメ)に満たしてあり、使うたびにひしゃくですくって鍋、釜にいれる。食事の支度がそろうと、早起きし野外で牛に与える青草刈りなどの朝仕事をこなしている父はそのままの衣服で居間に戻り、やおらに家族全員ともども集まって、箱膳(ハコゼン)なり飯台(ハンダイ・テーブル)をかこんでいる。
冬の寒気厳しい朝は庭の雪かきを行い、結氷したり凍結した水まわりには沸かしたばかりのお湯をかけて通水させあらかじめ一日の準備をする。寒い季節には、いつもは農家独特の天井のない居間の高い梁から鍋をぶら下げて煮炊きしている鋳物の自在鉤(ジザイカギ)を外し、囲炉裏端(イロリバタ)に炬燵がけをし食卓をかこむ。
 顔を洗った子供たちはアルマイトの弁当箱を持ち、近所の仲間たちと歩いたり自転車で学校へ行く。高校は遠いので、雨とか雪のときは女性車掌が添乗しているボンネットバスに乗る。下校後、農作業の忙しい時は子供たちも田畑へ親の手伝いに直行する。また当時の家庭の多くは子沢山であり、上の子供は兄弟姉妹で子守の役割をになう。
 一方、野良(ノラ)に出た親たちは正午のお寺の梵鐘が鳴るまで、こやしのにおいのする耕作地、畑で代赦色(タイシャイロ)の土くれを相手に汗水をたらし働く。昼食はいったん家庭に戻ってとり食後昼寝をし午後一時すぎにまた畑に戻る。しかし山仕事、田んぼの農繁期には白米版を入れたお鉢(ハチ)やお櫃(ヒツ)、味噌田楽(ミソデンガク)のお握りや曲げわっぱの弁当箱と、おかずに魚の煮付けと自家製の漬物を持参する。作業の休息時、冬などの寒い時期は手近かに落ちている枯れ杉葉、枯れ木などの粗朶(ソダ)を集めたり、雑穀のまめ殻などで火をおこし焚き火で暖をとる。田畑から帰った夕刻は、家族で親子ともども手分けしてせわしなく立ち働き、食事の準備、家畜の世話とマキを割り風呂を沸かす。夕餉(ユウゲ)後は、家族団欒で白黒テレビを見て過ごし戸外のうす暗い風呂に入り寝床にもぐりこむ。養蚕とか葉たばこの農繁期は夜なべ仕事になる。農作業の忙しい季節は家族総出である。集落内で人手の足りない家へは助っ人(スケット)で行く。外が雨でも屋内で作業がある。一年を通じて祝祭日も休日もない。合い間に家族が一緒に休むとすれば冠婚葬祭のとき、旧盆、正月(新、旧)の日ぐらいである。≫

 これは3年前の3月にまとめた《緑の仕事》の一節である。400字詰め原稿用紙換算200枚ほど。わたしが、数年がかりで今まで生きてきた道と造園設計の仕事を<自分史的>に振り返ってみたもの。その中の“生活意識とデザインのかたち”の章であるが、時代背景は昭和30年代後半、東京オリンピック開催直前の東北の農家の生活を思い出したものである。わが家は家族みんながそろっているし、質朴にけなげにも生きていた。これはわたしの中学生時代。しかし、なんとまあ、古風な世界であることか。単語も死語になりつつあり、語彙も意味不明。近頃の若い人には理解不能かもしれない。
 わたしの周囲の人たちに読んでもらったら、あきれられたり感心したりしたものだ。
 これは、たまたまある出版社のコンテストに出したら三次選考まで行った。ただし、意外なことに20歳代の知人には大歓迎であった。面白い話、特に読書習慣のない連中にだ。

 この冊子はぐちゃぐちゃになっていた本、書類の山の中からやっとこさ見付け出したものである。たまたま、別件で福岡県の北九州市役所から郵便があり、この9月締め切りで<自分史コンクール>があるそうで、実は応募しようかと考えている。
 なお、詳細は下記のH・P内のサイト内検索欄からお入りください。
     北九州市自分史文学賞

   2007年6月29日  *************************
 前回の内容ではどうしても中途半端の感じがしますので、引き続き、「生活意識とデザインのかたち」の後段の文章を掲載したいと思う。スタイルがかたい言い回しで恐縮ものではあるが、できるだけ筆勢を生かし原文をそのままにした。気取ったりそっくり返ったりと、わたしにとって限りなく恥ずかしい思いもするのですが。
 皆さんが読んでみて、ごく普通にふるさとのこと、または農業・民俗学など、そして造園設計・ランドスケープ論、デザイン論について面白いと感じる方はなんでもコメントをお寄せください。
 全文公開は、前回に紹介したコンクール次第になります(??)。ここでは2回目、次回の“わたしの育った田舎3”で終了予定です。

 《私がおくった昭和20年代から昭和30年代の生活風景を描写すると、農家の少年時代はこうであった。ここには日々の暮らしの原像がある。山間の地にあってそれぞれの家庭ではいつも子供は家族、親の顔の見える距離でいっしょに生活して育った。子供の遊びと言えば朝から晩まで山野を駆けずりまわっている。そこには豊饒な自然と沃野からの恵みと、継ぎあてをした粗末な衣服、好き嫌いでもなくおいしいまずいなどという食味ではなく体力をつける意味の簡素な食事、ゴミを出さず物を使い廻しする無駄のない生活、朴訥な人情とわかりやすく目に見える質素な生活形態の暮らしの繰り返しがある。
 このような農民の文字通り土着的な日常の暮らしの中で、仕事がつらい、体がきつい、好きなことができず不自由だと、当時私は内心思っていたが、しかし今となれば逆の意味合いで楽をする、自由という物事をどうとらえ、それに対しどう対処することであるかがよく分かるというものだ。生きていくことは生存感覚そのものだ。そのうえで身心とも自由な時間が持てることが真の生活だ。物質的に豊かなことは必ずしも幸せとは限らない。
 いったいにして東北の貧しい山国の農村では、春夏秋冬の季節と自然環境のもたらす生活は自然の気候、風土に左右されて成り立っており、その素朴な生活の態様はものを捨てず循環させて再利用し合理的なものである。お天道様を相手に過酷な農業労働を厭わず、またその苦労話をしない人達がいる。他人のせいにせず忍耐を美徳とした、その集合が村落共同体である。
 揺籃期を文字の世界と無文字の世界とに住む集落の人々にかこまれこのように育った少年は、当時、日本の農村の社会構造のなかで名利栄達をもとめるようにはならない。むしろ、そのトラウマをも含めた少年時代の原体験を体験に終わらせず経験と言う生きた知識に昇華させていくべく彼の十字架を背負ってゆかねばならない。たとえば、山河を復元させるという視点である。》

  2007年7月1日  *************************
 《§デザインの源泉ということ§
 どうしてこういうことをしなければならないのか?私の今までの無骨な生き方を解剖してみたらどうか?この文章の内容は、幾多の困難を経てと言うほどでもないが、私なりの逆説的な内面のストーリーを成功ではなく苦い失敗を梃子にして立て起こした創意、工夫談で裏打ちされている私の人生経験をもって描いていきたい。そしてここに若年期に怠惰な生活を送り文学青年から造園の世界に歩みを変えた者の独白をつづった。まず、表現行為としての造園設計論をくりひろげたい。
 はたして、こんな私の芸術的な資質と素養はどこからくるのだろう。創作力と着想のモチーフの源泉はどこにあるのだろう。私が原初的に刷り込まれた(Inprinting)ものは、思いおこすとたとえば、こんな象徴的な散文詩の世界が浮かんでくる。

  ∞陽春、透けて見える青空と峰々を後景に木々の瑞々しい芽吹き、
   若葉の爽気ただよう時季、暖かくなる頃の草原の草いきれの香り
   が匂い立つ。
 
  ∞アブラゼミの合唱が響きわたりげんなりする暑さの中での沢水に
   足をいれた触感とカジカのつかみ捕り。夏の夕べから夜半にかけ
   ての押韻をふむような虫のすだく音色がする。

  ∞寒さに向かう季節の凍りつく平原で爪先立って見る田園を廻る草
   紅葉、照柿と群青色の空の下で燃えたぎる木々の紅葉などの天然
   色の風景が広がる。

  ∞山あいには、せせらぎの瀬音に欹ててしんしんと降る静かな降雪
   がある。そこでは鈍重な昼の純白と夜半の漆黒の寡黙な世界が演
   出されて、清浄な空気とスタティックな厳冬の光景が現われる。

  ∞森羅万象には、あらかじめ無音という沈黙を下地にした生き物と
   自然との交歓が醸しだす、万物の生成過程のささやきともざわめ
   きとも言える微音の環境が用意されている。

  ∞自然という宇宙には、譬えれば山紫水明の世界には、様々なメカ
   ニズムを持ちドラマツゥルギーを秘めたダイナミズムと諧調美を
   引きつれた旋律を内包している。

 私の場合、自然に対峙しどうしても生じざるを得ない人間の心の動きである情緒と、それがゆえの表現である詠嘆調を排し自然の摂理による宇宙にもとづいたこの四季の心象風景を活写し復元することが芸術的な意味での独創性である・・・・。
 いつでもデザインの発想の源泉は原風景への回帰を繰り返すものと言えるのではないだろうか。
 山村のきわめてシンプルな自給自足の生活、写実的な世界そのものが、私の感性をゆり起こし叙事詩的な世界が心の内奥で胚芽し醸成した美意識に由来して、私の記憶をなしているのだろうか。》

 デザインという職能は個人を前提にしている。その能力は専門課程を修了して得られるものではない。知識を習得すれば、あるいは多方面の観念で頭の中をいっぱいにすれば良しとするものではない。人生の初期段階にある若い人たちはそこを勘違いするようだ。色々なことを知っている、上手に表現できるから才能がある、というふうに。残念なことにこの場合、成果品は絶対条件であるオリジナリティに縁遠く単に模倣である場合が多い。個人的所業であれば、その孤独な積み重ねの果てに出てくるものと思う。忍耐をともなうその個人的営為から自然と産みだされるものだ。
 ドイツがどうだとか、アメリカ東部の新しいランドスケープなどと、トレンディにないものねだりをした造園設計作品は本当に後世に残るのか。まずは、現場の設計対象をみずからの五感のみを頼りに見つめることからはじまるのに。
 多分、あとで反省点として、体のいい自己満足(瞞着)に過ぎないことに気付くはずだ。もっとも、このことはデザイナーの姿勢の問題だが、自己検証あるいは振り返りさえしないかもしれない。

 この 極私的造園設計経歴書-自叙伝ふうに-《緑の仕事》 は、わたしにとってランドスケープデザインとはなにかを、徹頭徹尾、追及したもの。そして、その緑の仕事を通じてわたしの50数年の来し方を浮き彫りにさせた。
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六軒町のサイカチの木

2024年11月23日 11時30分16秒 | 樹木医の日々片々
 
 11月16日、房州の館山市内の『六軒町のサイカチの木』について現地研修をおこなう。ちなみに、タイトル名の『六軒町のサイカチの木』はネット上の記事で見つけた見出しである。この案件はかなりその方面で流布されているようだ。これは千葉県樹木医会南ブロック主催、当日、20数名以上参加、樹木医会員自体は11名集まった。
 ここでは樹木医のみならず、地元住民、館山市当局、NHK千葉放送局、ミニコミ紙との対応が地域を巻き込む形で進んでいて優れている。そのボランティア活動は地元住民の〈サイカチの木を守る会〉をはじめとして目覚ましいものがある。
 活動の資金不足を補うための会場内の募金箱設置も好ましいことだろう。わたしには、樹木保護の活動としてひとつの理想的なパターンかなと思われる。
 今を去ること2019年の台風15号は、9月9日千葉の房総半島に珍しく上陸した。この台風は風雨が強く房州全体や安房地方はそれにより住宅家屋の倒壊、屋根の破損、市原のゴルフ練習場などが被害を受けた。
 このサイカチは、館山市街地にあり、根鉢や根系がほぼ市道の道路敷きに位置するこのサイカチはその時に元の所有者側の敷地内に倒れた。
 当初、枯死をおそれて後継樹を残すために、現地のサイカチの種子を播種したが発芽せず、静岡産の種子を育てて台木とし、現地のサイカチから穂木を採取して接ぎ育成させて成功した。
 現状では倒伏したサイカチは立て起こしはせずにこのままの状態で経過を見ることになる。今後の樹勢回復の方向性としては、現地でわが先輩樹木医が主導的に調査し、再生についてこの樹木の活力面は元気であり太鼓判を押すという発言をおこなった。現状での治療の詳細は技術上検討することになるが、取りあえず、対処方法では、①呼び接ぎ法、②不定根誘導法を提案されていてわたしも同じ見解を持った。この樹木医には同事例の過去の治療経歴があるのだ。
 ところで、サイカチの樹形から言うと規模が小さいながらも盤根錯節という表現がピッタリくる。根元廻りはとぐろを巻いているようで、平俗で妙なたとえだが、人間で言えば容貌魁偉ともいえるのか。

 以下に、あらためてサイカチの特性について触れる。
 Gleditsia.japonica Miq(ヤポニカ)和名サイカチ、漢字名阜莢。マメ科サイカチ属。 高さ15m、幹径1mになる落葉高木で、本州、四国、九州、中国大陸に分布する。茎に長さ10cmほどの強刺を多数つける。葉は羽状複葉、小葉数はアメリカサイカチ(Gleditsia.triacanthos)より少ない。花は黄緑色で長さ2.5mm、5~6月に咲き、花序は長さ20㎝になる。果実はやや捻じれ長さ25㎝になる。幹に棘が強いので庭木にはなりにくいが、器具用材、薬用などに用いられる。品種にトゲナシサイカチ(f.inermis Mayr)がある。
 以下はわたしの経験で記す。日本国内では北海道を除く全域で植栽されていて、植生上もそうだが繁殖的に自生化傾向にあり、水分を好み川沿いに繁茂するようだ。サイカチは古来、生活上も有用樹木として植えられた。かつて石鹸替わりに用いられたがそれは果実の種子ではなく莢部分である。わたしの幼少期、岩手県南部の各農家では莢を水中で揉み泡立てて落ちにくい汚れ落としに利用していたのを覚えている。
 参考資料:「園芸植物大事典2 小学館」ー323P 記述担当:横井正人氏

 また、余談だが、この際にという思いでわたしは曲亭馬琴の伝奇物「南総里見八犬伝」を読む。舞台はわたしの住む千葉県だが、かつて中里介山の大河小説である「大菩薩峠」以来であった。
 なお、その模様が当日の午後6時45時分からNHK首都圏ニュースで放送された。この見学・検討会には地元のNHK通信員も参加していた。放映の時間配分は予定では1分だそうだが、実はわたし自身もテレビ画面に映っていたので驚いたもの。6時49分から50分台の多分2,3秒程度だろうか。現地の倒伏したサイカチを数人で調査している状況がである。この番組は急なことで録画も知人にも知らせていない。元々自分の面相には自信がないが、その所作や作業服姿はまあまあである。
          
          
          
          
      
          
          
 倒伏前のサイカチ、ミニコミ紙の古い記事である。
          
 館山城山公園の高台に、現地からの接ぎ木苗であるサイカチの後継樹2本を記念的に植樹した。植穴にはぼかし肥料を入れて全員で立込み、水極めで植えた。
          
 館山城付近から館山湾(鏡ヶ浦)を望む。
          
 城山公園・クサギ
          
 城山公園・キダチチョウセンアサガオ
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ー夏の思い出ー

2024年11月21日 15時22分45秒 | 短編小説、エッセイ・創作作品・成果品など
 わたしの過去の創作、成果品造りを振り返る●● 12月17日 ●●●
ここでは先年、朝日新聞社系列の神奈川県内のミニコミ誌に応募したコラム記事をアップする。
 既にわたしのホームページに記載されていたものを転載する。内容的には平易な表現に徹している。これは詳しい経緯は忘れたがどうなるかと思い投稿したもの。

 結婚して20年余り、二人の子供たちは共に専門学校生、高校生になり、わが家では夏休みに家族で一緒に出掛けることはなくなった。
 私自身の子供時代は岩手県南部の山あいの農村で過ごした。まち境は一級河川であり東北随一の北上川に接している。その支流である黄海(きのみ)川は当時よく洪水を起こした。夏の台風の時期に川が氾濫し道路はもとより、小さな平野部の田んぼは冠水して薄い茶褐色になる。
 子供ごころにその水の恐怖に圧倒されながらも冒険心に気持ちが高ぶりわくわくしている。そこで子供たちは、決壊場所、流れの合流地点、土のう積みの補修箇所などの場所を大人の目を盗み、近所の仲間とかけずり廻ることになる。その冠水状況を一望できる小高い丘に登り、土砂で濁った広大な水面の流れの方向,様々に寄せる波紋を観察しそれを海に擬し「うーん」と大いに納得したものだ。地理的には三陸海岸に近かったが、実は生まれてこの方まだ海を見たことがないのである。
 最近は水量も減っているが、河川改修工事により、サケが遡上する程水質がきれいになってきている。しかしその一方で、水深が浅く淀みも消滅し魚の種類が減少、河原に篠竹が繁茂し猫柳や胡桃の木があった川岸がのっぺらぼうになり、今の子供たちにとって面白味のない川になったのではなかろうか。
 既に郷愁の彼方に過ぎてしまったわが身だが、家庭をもつ親の立場を振り返り、わが家の子供たちはどういう思い出を持てたのかと思う。
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ニシキギとマユミ

2024年11月14日 05時03分24秒 | ガーデニング・庭づくり
既に、今年も木枯らし一号が吹いた。小春日和の陽気も続く。しかし、黄海から南シナ海にかけて未だに台風発生がとどまらないようだ。
 ここではわが庭ほかのニシキギとマユミの着実の光景をアップする。あらためて今年は付着葉数が少なく紅葉自体は遅れていて、その実の色合いが鮮やかである。
 なお、その説明は、「日本の樹木」山と渓谷社 を参考にしている。

撮影日時:11月13日10:30分
          
          
          
ニシキギ: Euonymus alatus ニシキギ科ニシキギ属。錦木 。落葉低木。国内に自生。世界三大紅葉樹のひとつ。蒴果は長さ約8センチの狭倒卵形で、熟して裂けると橙赤色の仮種皮に包まれた種子が一個現れる。

                   
          
          
          
マユミ: Euonymus sieboldianus ニシキギ科ニシキギ属。真弓 。落葉低木。雌雄異株。国内に自生。蒴果は長さ8~10センチの四角形で、淡紅色に熟して4つに深く裂けると、赤い仮種皮に包まれた種子が現れる。
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行きがかりに・・・・・

2024年11月10日 08時13分21秒 | 短編小説、エッセイ・創作作品・成果品など
 わたしの過去の創作、成果品造りを振り返ると、その頃に出回ったワープロにより平成 9 年に“自分史”、また平成 16 年に極私的造園設計経歴書“緑の仕事(自叙伝ふうに)”を冊子にまとめたものである。また、当時の造園会社在社時に設計室として、北鎌倉の邸宅庭園や品川区内の天王州アイル PT を含む自作作品の設計図集を発行したことがある。変わった例では在社時の贈収賄事件の“鴨川裁判傍聴記録”がある。
 ところで、ここでは東洋大学文学部にいた頃に文学サークル会誌の「たいやき 第3号」に発表したものを思い立ってこのブログに転載する。原稿用紙12枚の分量だ。この前後と思われるが、独自にわら半紙にガリ版(孔版印刷)で雑文集「うざね博士の文集」を作っていた。
 わたしは大学生とは言え、当時は勤労学生でバイトで生活費を稼ぐのに追われて、学校の講義にはあまり出ていない。世相的には70年安保の世代、のどかな田舎から上京し自らの生き方について放浪していたのだが、社会的な問題を自らに引き付けていて頭でっかっちの時代であった。
 この短編はボキャブラリーの少なく短文で綴られているが、これはこれでわたしの20歳前半の作と言えそうだ。したがって、あえて修正していない。時代は1970代前半だろうか、半世紀前のことである。当時の東北の方言や古い言い廻しに対し、わたしは、このwordの使い方が未熟のために注釈やルビを振れずにいる。

 岩手に入ると、俺はもう来てしまった、と思った。上野駅を深夜に発ち、今はもう乾からびたような朝景色がつらなっていた。
 もう、刈り入れも終え、脱穀も終わったのだろう。朝もやを透かして見る崩れた田んぼの畝は、どの田んぼもぶんなげられたようだった。
 どうでもよいこの世のありさまであった。

 ゴトン、ゴトンとひびく。
 ふと、俺は思う、確かにゴトン、ゴトンと鳴っているんだろうな。何か、田舎の方に近づく度に、レールが段々と低くなってるんじゃないか。
 ポカンとしていると俺はやっと気付く。で、しかたなく、網棚のバッグを向かい側の席に下す。車内はがらんどうである。しかたなく、俺は散らかした酒の飲みかすやら、つまみやら、本やらを片付けた。そして、元の通りに、赤茶けた向かいの席に足をのばした。
 綺麗な女でも近くにいれば、俺はそこに目を置きたかった。いやだれでもいいから人が居れば耳を傾けたかった。
 ああそれなのに、と思う。ああそれなのに、と俺は性懲りもなく文庫本を引っ張り出した。鼻紙にも使えないな、と出鱈目に本を開く。
 途端に俺は目がくらくらした。紙の白さが俺に本だと知らせたのだ。

 この小林秀雄という著者は偉いんだと、人は云う。この近代批評の確立者(文学史において)は今の文壇でもかなりの権威者として仰がれているらしい。批評家としての初期は、フランス象徴主義の大きな影響のもとに出発したのである。そして、俺はこの二、三年、この小林に、どう生きるべきかの問題として、滅茶苦茶に振り回されていた。
 俺の兄貴が、この前、沖縄返還批准法案阻止とかのデモ、総評が各組合に全国動員をかけたのだが、町役場の代表みたいなものになって上京した。その時に、俺は御覧の通りのありさまですと、ずっと小林秀雄のことばかりしゃべりまくっていたような気がする。その時も兄貴は云ったものだ。小林秀雄ってええば、なんだおめえ、エライ人じゃないか、と。おめえも変わったなあ、終始、奇妙な顔をしていたのだが。

 俺はひとりごとみたいに、口の中で、もやもやと、何かを云ってみた。
 ほんとにひどい人にぶつかったものだ。
 このようなものが俺には秀でているなど、と口はばったくて云えないな。何がいいのか知らないけれど、全てが凡庸に見えてきゃあがる。ああほんとにおまえは。ああ、ほんとにおまえは、毒があり過ぎる。
 ふと、俺は我に返る。
 この人でなしの文学め!

 俺は例えようもなく、イライラしてくる。ああ、次は花泉なんだな、うん、降りるんだな、とまたつぶやく。

 で、俺は今、絶望している時なのかもしれぬ。だから田舎の一大事に、当然のことながら、何ができる筈もない。

 ホームにとび降りると、覚束ない足どりで閑散とした駅の改札口に向かった。屋根に瓦が葺いてある。駅全体が色褪せて見えた。まだ残っている冷気の中を雉鳩なのか、啼き声がつんざいた。
 駅員がじろじろ俺をながめた。何かあったんですかとでも云うように、切符を渡しながら、俺は見返した。途端に俺は恥ずかしくなった。日頃の無精に加えて、頭はボサボサの蓬髪であった。着るものはそんなに可笑しくもない筈なんだが、とひとり合点したらまるでべそをかいたのだ。


 「何があったのか」
 父が庭で籾殻を焼いている。冬、火持ちを良くするため、炭火の上に振りかけておくのに使う。均一に焼けるように箒でならすのだ。二メートル直径の形に拡げる。箒を左手に持ち替え、トントンとしたと思うと、こう云った。
 その泥分を顔じゅうにまぶしたような、老いた親父をを見て、俺は目の遣り場もまないままその場にかがんだ。
 「麦蒔きはやったの」
 「う、うん、なにい、とっくにやってすまったあ」
 三毛(猫)も耄けたと思った、けむくはないのか、すぐ傍で背を丸めて、ちょこんとしている。日向ぼっこに目をほそめて、澄ましている。以前は雀を取ったことがあるが、鼠でも今は無理だろう。背に手をやってなでてやると尾をパタパタと動かす。相変わらずだな、と思うと、思わず、嬉しくなった。
 「まず、えま、えぐがら、うづんなかに入ってろ」
 このごろめっきりしらがの多くなった親父を横目に見ながら、家に入った。玄関でポンポンと叩く靴音がしたのか、奥から「わあ、来たど」という、とっくの喚き声ともつかぬ声がした。
 この夏に高齢ではあったが祖母が死に、今まで母がいない後、不自由な身で台所仕事を仕切っていたが、この貧寒とした居間も至るところにちりがたまっていた。昼にはまだだとはいえ、うす暗いなかに紙くずが妙に光って散らばっている。三毛がぱたぱたと音をさせたと思うと、台所の方からニャアゴニャアゴとがたごとした。戸棚をあさっているらしい。とっくがひとりで怒っている。
 俺が帰ってきたのはバイトの都合上、死に目にも会っていなかったから、学校をうっちゃり、墓参りにきたのだった。それと実家の不如意について案じていたからであった。というより、一度とにかく帰ってみた方がいい、という俺自身に対する、いわば強迫観念からであったからかもしれない。
 何故こうなんだろう? 本当に、何故? こういう追いつめられた俺等六人兄弟には、いつ俺らの生まれた家に陽光が差しこむというのだろう。いつになってもそうだ。いつになっても、忍従しかない。
  囲炉裏につくった炬燵の上で、お土産だと云って小牛田まんじゅうを二袋、とっくにさっきバスの停留所で買った飴をやった。
 親父が出涸らしの急須に湯を注いで、茶を入れた。漬物はないかな、俺はあちこち探し、まだ、生の大根のような沢庵を皿に盛ってお茶を飲んだ。
 近所こととか、平塚の叔父のこととか、一服ごとに話していたが、やがて誰に聞かせるともなく、煙管を掃除しながら、云った。「はっぱり駄目だあ。気持ちがわけわがんなくって、春男は、はっぱり家に寄ってづかねえ。今でもこっそり会ってるって話だけんとなあ。はっきりしたことは分かんねえけんども、本家の人が云うにあ、そんなふうだあ、まつ子あ、ちゃんと俺のめえゃあで、うづに来るってえゃがって。てゃあほうつきやあがって、わけわがんなくってくるう。とっくはこんなざまだす。おめえあだって帰ってくればええんだ。」
 とっくがその間、ひとりで笑ったり、ポカンとしたりしながら、飴を手でもてあそんでいた。俺は、それをむいてやりながら、惨めな気持ちでいた。たとえ、親父が俺自身のことを、ひとことでも聞かなかったにしろ、俺は、何も、それに反発することはできなかった。
 親父と長男の兄貴と、頭の少し遅れた小児マヒの次女(姉)の三人しか今、家に残っていない。それで兄貴の嫁に来ることになっていた隣の町のまつ子が、一週間許りためしに家に来た。が、すぐにあちらの家に呼び戻されたのだ。しかしそれは二年前のことである。その間、家柄があわない、長女だから、等々でもめていたのだ。

 ひとりでお墓のあたりを掃除していたら、もう夕暮れになったのか、と気づいて、松の木の傍の石の上に腰を下ろした。山肌に這うようにつくられた墓地だが、あたりが杉松の山並みに囲まれたせいで、いっそう趣きを添えている。パサパサと音がする方に気づく。なにか小さな虫なんだろうか。見下ろす小さな田んぼの方から蜩が響いてきた。俺はなんだかせつない気持ちになった。
 母ちゃんもいないし、と思った。その時、突然、親父もいなんじゃないか、と心中でつぶやく声がした。しばし茫然としていた。いや、いや、そんなことはない-----人ってそんなもんだよ。そんなもんってどんなもんなんだ。そう思いがちなんだよ。何、云ってやがる。もっとはっきり云ってみろ。馬鹿にしやがって・・・。わかんねえんだな、とにかく、そんなもんだよ。
 俺はますますせつなくなり、集めた落ち葉に火を点けた。ぼおーっと燃え上がる。それで線香に火を移した。
 とにもかくにもと思って、まだ卒塔婆をたてたままのお墓の前に腰をかがめ、手を合わせた。

 今晩、帰ろうかとしている時、兄貴の不規則な仕事の合い間に落ち着きもなく、話し合った。俺と兄貴はいつも何故か、そうだ。互いに忙しい、忙しいといいながら、ゆっくり話し合うということがない。俺が高校に通っている時もそうだった。
 「しょうがないんだ」と兄貴。
 「あまり心配しなくたっていい。もっともな、今じゃ親類の人も俺をあんまり信用してないがな。結局、ここまでくるとわかるんだなあ、利己的だということがな。」
 「俺、考えてみたんだが、一年間だけなら帰ってきてもいい。俺にとっちゃ、小林をとるか大学をとるかっていったら小林をとる位だからな----------でとにかくその間に何とか格好をつけてもらえばいいんだが----------。」
 興奮していたのだろうか。あまり声に落ち着きがない。顔をしかめてじっと考えていたが、組んだ腕を解きながら云った。
 「えや、ずっといろってんだとさ。----------まあ、なんとかするさ。----------その代わり何かあった時には云うつもりだ。本家もあまり頼りにならねみたいだもんな。」
 少しの間、買ってきたビールを飲み合っていた。兄貴はつとめて賑やかにふるまっていた。俺は俺で、もつをつまみに気難しい顔で飲んで許りいた。


 急行第四いわて。一ノ関駅、十九時二十分発。
 夜行の汽車に乗った。混んでいる人ごみで俺はどうにか、あたふたと席を見つける。
 ああ腹減ったなあ、と弁当をとり出した。足を伸ばしデパートの包み紙でくるんだ杉折を膝の上にのっけた。親類の人がおこわを作ってくれたのだ。何はともあれ、俺はムシャムシャと食った。それから思いだして、缶ビール、四合瓶、ハイライトを買った。
 ああ家郷っていいなあ、ああ家郷っていいなあ、と無理に淋しさをかみしめながら、反芻していると、俺は自分でも驚くほど、落ち着いていることに気づいた。途端にビールをぐいぐい一息に飲む。勿論、足りやしない。酒の栓を切り、付属のお猪口で続けさまに飲んだ。その間、汽車がでているのに頓と気づかなかった。
                                        〈了〉

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フェイジョアの初果実

2024年11月02日 06時11分51秒 | ガーデニング・庭づくり
ここではわたしが育てたフェイジョアの初めての果実を紹介する。
 栽培経過をたどると、繁殖作業としては播種か挿し木床から一、ニ年生の苗木を、平成22年(2010年)に鉢上げした。次に隣地境界沿いに生け垣状に露地植えにしてから3年ほどたっただろうか。昨年までは5,6箇所に開花が見られた。生育地は半日陰になるか。今のサイズは、樹高H2.0 C0.12 W1.2(m単位)であり、品種名は自家受粉、結実する『クーリッジ』と思われる。
 ということは、累計すると1個の初成りまで18年の年数がかかった計算になる。フェイジョアには枝や樹姿が暴れやすいという特性があり、それゆえ、わたしの育て方では手に余り面倒くさくて枝を乱暴にぶつぶつ切る傾向ではあった。
 一時、ホームセンターなどではフェイジョアの授受粉を考えて異品種を組み合わせ2株セットで売られていたものだが、今はどうなったんだろう。現在、購入し育てている方はいかがでしょうか。

       
       
       
          
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最後の柿をもぎ食した。

2024年11月01日 05時54分35秒 | 個人の庭・エクステリア
 11月になり、文化の日に続いて11月7日は立冬だ。
 今年のわが家の柿(甘百目)は不作だ。この春の高温傾向が原因と考えられるが。早速、可憐な四十雀はともかく椋鳥などの野鳥に盗られる前に、最後の柿一個をもいで食した。わたしにとって、今年ばかりは木守柿で残すどころじゃない。今までは美味である熟し柿を手や口の周りをべちょべちょにしてかぶりつくのがわたし流だが、今回は小皿に置きギザギザスプーンでたべてみた。今年はゴマ入りが全然なく種子も少ないのが特徴である。

          
          
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