高校の必修履修科目問題が世間で騒がれている。どれもこれも大学受験の為だそうだ。受験問題に対して、なんら議論がきちんと出来ずに、何年経っても改善できない日本人は本当にバカだと思う。
暮らしに困らない生活の為には良い企業へ就職することが必要、良い企業への就職は、良い大学、良い大学に入るには、良い高校、良い高校は、良い中学、良い中学へは良い小学校、良い小学校に入るためなら、良い幼稚園、良い幼稚園に言えるならその前に習い事、もっとさかのぼれば、良い遺伝子をもった配偶者が必要・・・。
結局そういうことを、国民全体でやってるのだってことに気づかなければならない。
よい暮らし=よい企業への就職(で、所得が高い…)
というのは、必ずしも間違いではないが、実はちょっと違う。
本質的な視点で見れば、よい暮らし=充実した(自己実現できる)生活というのが正しい図式のはずである。その為にはお金は必要かもしれないが、逆は成り立たない。自己実現したいものが無い状態で、お金があるからといっても、それは充実した、よい暮らしにはならない。
想像すれば分かる。たとえば湯水のようにお金を使えるとする。毎日好きなブランド品を買いあさり、友達よりも先に入手困難なバッグやアクセサリーを手に入れ、有名人との食事に出かけ、高級車に運転手を付ける、自家用ジェットで海外に遊びに行く。世界中を超豪華客船で旅をする。なんだっていいが、そこには消費は存在しても生産は存在しない。
生産しないということは、何も生み出さないということ。つまり存在意義が無いと言うことに繋がる。
人は、生まれたからには、やはり、生まれた意味を求めたいものだし、生まれた意味を自分なりに見つけてそれに向かって動くものであるはずだ。そうでなければ、「いったいわたしは何のために生まれてきたの?」という事になる。
人それぞれ、遺伝子が異なり、生まれも育ちもみんな違うように、見つけるべき目的がそれぞれ違って良いのだ。
良い暮らし=充実した、自己実現できる、自分の夢、自分の存在価値を認めるあるいは求める生活とすると、良い暮らし=良い企業への就職、ではなくなるのである。そう考えればその後の図式も成り立たなくなる。良い生活→よい遺伝子なんてエゴも甚だしい。
その為の教育なんて全然なされていない。家庭でも、もちろん学校でも。
例えば小学生に、「銀行は何で儲けているのでしょうか?」と訊ねればいい。あるいは「花屋さんをやるのには何が必要?」と聞けばいい。まともに答えられる小学生がいったい何人いるのだろうか?
欧米のある小学校では、以前にも書いたと思うが、社会科の授業で、経済の成り立ちを疑似体験学習で学ぶ。授業の中で、銀行をやるひと、花屋さんをやる人と、それぞれの仕事や役割について勉強するのである。そうすると事業をはじめるにはお金が必要で、そのお金の調達先として銀行があることを学ぶ。教科書で書かれている文章を勉強するのではないのがミソだ。こういう教育を受けていると、自分で事業をはじめたいと思う学生が多くいても全く不思議ではない。
こういう話がある。いまや世界のパソコン販売のナンバーワンといえばDELLコンピュータだが、その創始者のマイケル・デルが、大学時代にいまのデルモデルといわれるビジネスモデルを、教授に提出したか、説明したときに、その教授はその内容に不合格の評価をしたのだそうだ。しかし、マイケル・デルは自分のビジネスモデルを信じて、行動し、いまの地位を得た。
ビジネスモデルを描き、新しいビジネスを考える。多くの企業が生まれ、多くの企業がつぶれていく。それが当たり前の世界なのだ。
つまり、欧米ではかなり若いときから、例えば中学、高校生辺りから自分の目標や夢を持つことを意識させられ、その実現の為に大学で学び、そして新しい自分の夢を実現するのだ。金融についてやりたいことがあり、その為に大学で学び、証券会社や銀行に入るひともいるが、それは単に高給だからではなく、やりたいことの為である。
日本人は、一般にそういう面で成熟が遅すぎる。だから「とりあえず大学ぐらいはいかないと…」と「どうせ行くなら良い大学へ…」になるのだ。目的がないのに大学に行く。だから入学することが目標となる。卒業したかどうかは関係なくなる。
人生になんら目標もなく、とりあえず大学は出ておく…、大学が目標になるから必修履修科目が軽視される。大学入学が目標になるから、入ってから何も勉強しないでいる。
親はもっと子どもに伝えなければならない。若いときこそ自己実現に一番近い時期なのだと。だから、しっかりと夢を持つこと、目標を持つこと、社会のしくみ、経済の仕組みなど伝えなければならない。そしてその子どもが持つちいさな可能性をみつけてやりそれを時間をかけて育てなければならない。これが親の役目なのだ。だからといって子どもは子どもの人格があるから、親の言うとおりに行かなくても、それはそれでかまわない。子どもが自分で見つけた目標を優先すべきなのだ。
そういう親子の関係の中で、初めて大学へ行く意義を見つけるし、1つ1つの教科の意味も理解できるのだ。
日本全国、先生も教育委員会もみーんな、大学を出てる”賢い”人たちの筈なのに、なぜこういう議論にまでならないのかと思う。”ことなかれ主義”は生きる知恵であるかもしれないが、自己実現の知恵では決してない。そういう論理の中に子どもを巻き込んで子どもを被害者にしてはいけないのだ。
今回の問題の根底には、そういう親や教育関係者たちの怠慢が横たわっている。
暮らしに困らない生活の為には良い企業へ就職することが必要、良い企業への就職は、良い大学、良い大学に入るには、良い高校、良い高校は、良い中学、良い中学へは良い小学校、良い小学校に入るためなら、良い幼稚園、良い幼稚園に言えるならその前に習い事、もっとさかのぼれば、良い遺伝子をもった配偶者が必要・・・。
結局そういうことを、国民全体でやってるのだってことに気づかなければならない。
よい暮らし=よい企業への就職(で、所得が高い…)
というのは、必ずしも間違いではないが、実はちょっと違う。
本質的な視点で見れば、よい暮らし=充実した(自己実現できる)生活というのが正しい図式のはずである。その為にはお金は必要かもしれないが、逆は成り立たない。自己実現したいものが無い状態で、お金があるからといっても、それは充実した、よい暮らしにはならない。
想像すれば分かる。たとえば湯水のようにお金を使えるとする。毎日好きなブランド品を買いあさり、友達よりも先に入手困難なバッグやアクセサリーを手に入れ、有名人との食事に出かけ、高級車に運転手を付ける、自家用ジェットで海外に遊びに行く。世界中を超豪華客船で旅をする。なんだっていいが、そこには消費は存在しても生産は存在しない。
生産しないということは、何も生み出さないということ。つまり存在意義が無いと言うことに繋がる。
人は、生まれたからには、やはり、生まれた意味を求めたいものだし、生まれた意味を自分なりに見つけてそれに向かって動くものであるはずだ。そうでなければ、「いったいわたしは何のために生まれてきたの?」という事になる。
人それぞれ、遺伝子が異なり、生まれも育ちもみんな違うように、見つけるべき目的がそれぞれ違って良いのだ。
良い暮らし=充実した、自己実現できる、自分の夢、自分の存在価値を認めるあるいは求める生活とすると、良い暮らし=良い企業への就職、ではなくなるのである。そう考えればその後の図式も成り立たなくなる。良い生活→よい遺伝子なんてエゴも甚だしい。
その為の教育なんて全然なされていない。家庭でも、もちろん学校でも。
例えば小学生に、「銀行は何で儲けているのでしょうか?」と訊ねればいい。あるいは「花屋さんをやるのには何が必要?」と聞けばいい。まともに答えられる小学生がいったい何人いるのだろうか?
欧米のある小学校では、以前にも書いたと思うが、社会科の授業で、経済の成り立ちを疑似体験学習で学ぶ。授業の中で、銀行をやるひと、花屋さんをやる人と、それぞれの仕事や役割について勉強するのである。そうすると事業をはじめるにはお金が必要で、そのお金の調達先として銀行があることを学ぶ。教科書で書かれている文章を勉強するのではないのがミソだ。こういう教育を受けていると、自分で事業をはじめたいと思う学生が多くいても全く不思議ではない。
こういう話がある。いまや世界のパソコン販売のナンバーワンといえばDELLコンピュータだが、その創始者のマイケル・デルが、大学時代にいまのデルモデルといわれるビジネスモデルを、教授に提出したか、説明したときに、その教授はその内容に不合格の評価をしたのだそうだ。しかし、マイケル・デルは自分のビジネスモデルを信じて、行動し、いまの地位を得た。
ビジネスモデルを描き、新しいビジネスを考える。多くの企業が生まれ、多くの企業がつぶれていく。それが当たり前の世界なのだ。
つまり、欧米ではかなり若いときから、例えば中学、高校生辺りから自分の目標や夢を持つことを意識させられ、その実現の為に大学で学び、そして新しい自分の夢を実現するのだ。金融についてやりたいことがあり、その為に大学で学び、証券会社や銀行に入るひともいるが、それは単に高給だからではなく、やりたいことの為である。
日本人は、一般にそういう面で成熟が遅すぎる。だから「とりあえず大学ぐらいはいかないと…」と「どうせ行くなら良い大学へ…」になるのだ。目的がないのに大学に行く。だから入学することが目標となる。卒業したかどうかは関係なくなる。
人生になんら目標もなく、とりあえず大学は出ておく…、大学が目標になるから必修履修科目が軽視される。大学入学が目標になるから、入ってから何も勉強しないでいる。
親はもっと子どもに伝えなければならない。若いときこそ自己実現に一番近い時期なのだと。だから、しっかりと夢を持つこと、目標を持つこと、社会のしくみ、経済の仕組みなど伝えなければならない。そしてその子どもが持つちいさな可能性をみつけてやりそれを時間をかけて育てなければならない。これが親の役目なのだ。だからといって子どもは子どもの人格があるから、親の言うとおりに行かなくても、それはそれでかまわない。子どもが自分で見つけた目標を優先すべきなのだ。
そういう親子の関係の中で、初めて大学へ行く意義を見つけるし、1つ1つの教科の意味も理解できるのだ。
日本全国、先生も教育委員会もみーんな、大学を出てる”賢い”人たちの筈なのに、なぜこういう議論にまでならないのかと思う。”ことなかれ主義”は生きる知恵であるかもしれないが、自己実現の知恵では決してない。そういう論理の中に子どもを巻き込んで子どもを被害者にしてはいけないのだ。
今回の問題の根底には、そういう親や教育関係者たちの怠慢が横たわっている。