18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

東京ガス

2005-12-28 21:43:07 | 
 昨日の夜なぜかいきなりガスがでなくなった。夜中でお風呂のお湯を溜めてるときだったのでさー大変

 お風呂のお湯を溜めるのに給湯のスイッチを入れて蛇口をひねる。いつもの通りにお湯が流れ始めたかなぁという感じのときはまだ十分に湯温が高くないのでまあそのまま気にせずにリビングにもどってパソコンをいじっていた。そろそろかと思ってお風呂場に行くといつもと雰囲気がちがう。

 あれ?と湯船のお湯に手をつけてはじめて気がついた。水やん!
 
 給湯スイッチを見るとなんか、明滅してるし。なんかおかしいんだろうとおもって一度スイッチを切って、もう一度オン。蛇口をひねってお湯がでるのを待つけども、やっぱり水しか流れない、給湯スイッチもまたまた明滅。故障かなぁ。年末の夜中でこまったなぁといろいろ調べるもわからずじまい。どうもガスが流れていないことがわかったが、ガス代の支払いをためた訳でもないし、結局は東京ガスへ電話。

 15分ぐらいで、東京ガスの方が到着され、原因はあっさりと判明。到着して1分もかからないうちに原因がわかって対応。「この程度の事で電話で呼びだしやがって」と思われても仕方がないのに、大変丁寧な対応。なんでガスが出なくなったのかを質問してもじゃま臭がることなく、丁寧に説明してくれた。

 いつぞやのバスの運転手を思い出しながら、この東京ガスの方(名前はわからないけど)の対応の丁寧さに感激した。あきらかに東京ガスの担当の人のほうがバス運転手よりも若い。冬の冷たい刺さるような風の中で、きちんと対応してくれたことに立派だなぁと。同じような仕事をやっても、いやはっきりこの東京ガスの方に対応してもらった事のほうがよっぽど大変だったのに、この違い。

 反面教師と、接客の手本の2つの違いを実感させられた。



 



こういうのも未熟さの一例

2005-12-26 08:56:50 | 社会・経済
 スパムメールや、トラックバックスパムのようなのも社会性の未熟さの一例だ。そういうやつらに対してマジで怒るのも大人気ないけども、”犯罪でなければ何をやってもよい”とか、”ルールにないじゃん”とか、”ブログとはそういうことを承知の上でやるものだ”とかまあ、いろいろ言いたいだろうが、精神的成長の出来てない人たちとは会話にならないだろうから、マジになるのはやめておく。

 掲示板に”殺す”だのの書き込みをやって逮捕されている人もいる。掲示板への書き込みをやるぐらいなら、きっと普段インターネット上のニュースなどで逮捕されることぐらいは分かるだろうに、見てないのだろうか?

 ニュースに関心が無かったり、火事場泥棒的だったり、匿名性を利用して好き放題、取り締まる法律が無いと好き勝手だったり、広告メールもとんでもない量を送っている人たちは取り締まられたが、立法化が追いついてないからその後も少数のスパムメールが届いている。

 ”法律で取り締まられなければ当たり前のマナーを守れない”ということはそれだけその当人たちが幼稚で未熟だということ。年齢だけ20年、30年と重ねてもやっていることは小学生と何ら変わらない。

 たとえば、映画館やコンサートのチケットを買うのに並んでいるとする、そこに平気で割り込むやつらがいたとする。ちょうどあなたの目の前に。”みんな並んでいるんだから、並びなさいよ”と言ったときに、”そんなルールは誰が決めた?”、”法律違反か?逮捕するのか?”などと開き直られたらどう感じるだろう?スパムメールやトラックバックスパムを送るやつらのやっていることは、マナーやルールを守らない、自分本位の勝手な解釈という意味で、これらとなんのかわりもないのだ。

 今のインターネットの活用状態や、ネット関連企業が、まだまだ”きなくさい”と思われている背景にはこういう輩がおおく存在しているからではないだろうか?法律がなくてもマナーを守ることで、そろそろ、ネットを活用している人たちは”大人なんだ”と見せ付けるぐらいの気持ちがあってもよいと思うのだがどうだろうか?



男子フィギュアスケートVSコンピュータソフト

2005-12-25 10:49:04 | 風景
 男子フィギュアスケートで、織田選手の採点がコンピュータと人為ミスで変更になり、高橋選手が逆転Vとの報道。連盟の問題を指摘する声も多いが、コンピュータ業界に身を置く立場としては、他人事ではいられない。

 YAHOOのニュースによると、規定外の演技をした織田選手のその規定外部分について、利用しているコンピュータでは考慮されておらず、またその上競技委員が見逃したという2重のミスだとされた今回の事件。業界の人としては、最近のコンピュータシステムを構築する”SE”の力の未熟さが招いたものと映る。

 人のミスを防ぐためにコンピュータが存在している”はず”なのに、コンピュータそのものが”人”のお世話にならないときちんと動かせないということ自体がそもそも問題。人間はその性向からどうしても10回20回、100回ときちんと動いたシステムについては信頼を置き、規定をどれだけしっかり決めていても、どうしてもチェックが甘くなったり、いわゆる”大丈夫だろう”という判断をするものだ。人のチェックや動きなんていうものはそういう不確かさがあるから、コンピュータのように何十回、何千回同じことをやらしてもきちんと答えを出す機械を利用する。コンピュータはそうあるべきなのだが、果たして最近のコンピュータシステム(ソフト)はそのような理解の上に設計されているのだろうか?

 やや専門的になるが、コンピュータシステムの設計は、そもそも先のような”人が繰り返しやっているうちに間違う”ことを防がなければならない。よってそもそも”人はどのように物事を判断して事を進めているのか”を調査しなければならな。これが現状調査といわれるものだ。その上に、コンピュータでやるから、あるいはコンピュータでやるのなら人手では大変だった別の”未実施”の事をやらせたい。という”要望”を同じく調査する。これが要望のヒアリング。

 それらをまとめるときに、”未実施”だった事柄から想定できる業務の流れや前後矛盾、また”未実施”だった要望を実現することで、おそらく満たすことができなくなるであろう”現状やっている、できている事柄の拾い上げ”などを行い、やっとコンピュータでやらせる範囲、そのために必要な”人”の動きや”やるべきこと”がまとまる。それを”要件定義”という。ゆえに”要件定義”はコンピュータソフトを作る人が考えるのではなく、コンピュータソフトを作ってもらう”お客様”が決定しなければならない。

 さて、今回のコンピュータのミス。織田選手のような”規定外の演技”をした場合の対応がシステム上に組み込まれていなかったことが直接の原因なのだが、これはスケート連盟側だけの”要件定義”のミスと言い切れるのか?

 スケート連盟側とシステム開発を受けた側とのやり取りの詳細はまったくわからないが、一般にこのようなケースは普通に考えれば答えは”NO”である。少なくともシステムを作る側のSEが”こういうケースはどんな風にすべきですか?”という全体観と想像力をもってお客様側に質問しなければならなかった。なぜならお互いに”未実施”の部分を含めて設計をするという”難題”を進めるのだから、コンピュータソフトウエアのプロであるSEはそのような視点で質問しなければならない。また、たとえお客様側が”それは考えなくても良い”としたとしても、物を作る作り手としての”プライド”にかけて”万が一こういう事が起こったら”と逆に説得すべきである。

 東京証券取引所で起こったみずほ証券の発注ミス事件にしても今回のことにしても、コンピュータソフトの”作り手”の想像力やプライドの低下が気になるところである。

双方の事件ともシステムに不具合があっても、その作成した人自体に被害が及ぶわけではないが、そのシステムの不具合によって、人生が変わる人もいるのだ。当たり前の健全な想像力があれば、自らの設計したシステムがそのようなことに決してならないようにしたいと思うはずである。

 ”利益優先”だとか”どうせわからないから”だとかといった不誠実な姿勢が社会全体に蔓延してきているのではないかと心配である。特にコンピュータ制御された中で生活している私たちにとっては、コンピュータシステムはもうひとつのライフラインである。コンピュータソフトウエア業界の大きな脱皮の必要性を痛感して止まない。



未熟な社会性~耐震強度偽装疑惑~

2005-12-23 22:16:48 | 風景
 今日、伊丹空港から空港バスに乗って三ノ宮へついたときのこと。普段よりもちょっと手前で停車したような錯覚を覚えながら、バスから降りるときに、運転手の方に「もうひとつ向こうに止まるところありましたっけ?」と普通にたずねたら、「ありません。」とにべもない返事。人が丁寧にものをたずねているのに、もうちょっとというか当たり前のマナーとして「いいえございません。お客様ここが終着です。」ぐらい言えんか?

 空港バスの運転手は運転だけしてれば、愛想が悪くてもいいのか?空港から街中へのバス、もちろん街中から空港へ人を送り届ける役目のバス。旅の終わり、旅の始まりそれぞれの人がそれぞれの事情で旅をしているのだ。そんな中でなんとも印象の悪い、いやはっきりいって、”気分を害す”ような対応というのは、なんともなぁと。

 結局その運転手の仕事観がそのまま出たのだろう。「俺は運転するだけ。それ以外は関係ねー」などという価値観がそのまま態度や考え方に出てしまったのだろう。

 いま社会を賑わしている、”ええかげんな仕事のやりかた”をする人たち。「圧力かけられたからやった、住むのは俺じゃないから、まあいいか」と思ったかどうかは知らないが、おおかれ少なかれそんなものなのだろう。会社や企業が最低とらなければならない社会的責任の放棄に近い状態だ。そういう人たちは社会に参加してはいけない。即退場すべきである。

 この運転手もやったことはたいしたことではないが、根底に流れている”未熟”な考え方は同じである。

 人は結局社会との係わり合いの積み重ねで成長してゆくものだが、社会の中での自分を意識する機会が少なかったり、極端に避けたりし続けると、”常識”に欠ける態度をなんの悪気もなくとってしまう。会社もこんな”あほ”社員を使わなければならないのだとしたらかわいそうなものである。

 当たり前のことを当たり前にやる。

 当たり前とは何か?社会の中で当たり前とされていることを、ある人はそれを、”儲けるが勝ち”というし、べつのある人は”利益の社会への還元”という。この事でさえ、「さまざまな価値観があるからなぁ」などという人が居たら、先行きが恐ろしい。
もう一度勉強しなおすべきである。


 

 

心の弱さ、深い悲しみ

2005-12-10 16:03:48 | 
 なぜ、こうも悲惨な事件が繰り返されなければならないのだろうか?

 なぜ、力のある者が、力の弱い者を嬲り、傷つけ、命まで奪うのだろうか?

 言いようのない悲しみと怒り。

 もって行き場のない感情。

 どこかで何かを置き忘れたままにして来たツケというにはあまりにも、悲しい
 出来事ばかりである。

 多くの失われたか弱い命。
 その命をそれまで本当に大切に育ててきた親。
  
 そのか弱い命を奪った”大人”とは名ばかりの”子供”
 名ばかりが”大人”を育てた親。

 こんな、もって行きようのない悲しみは金輪際にしてほしい。

 こんな世間を作ったのは”親”という大人達であることを忘れないし、
 またこんな社会で最愛の子供を失って大きな悲しみに包まれるのも”親”
 という大人なのだ。
 
 いったい日本のどこで、人の命を簡単に奪うことを教えているんだろう?
 教えられもしないことを、なぜ簡単にやってしまえるのだろう?
 どこかで何か、大切なものを忘れてしまっている。

 もう一度、忘れてはいけない大切なものを思いだして、幼い命がだれか
 によって奪われてしまうことがないようにここに記す。