甲子園といえば阪神タイガースと高校野球。高校野球連盟の規定では選手は男子と決められていて、女子選手の公式試合出場は認められていない。華陵高校の女子選手が甲子園での練習にさえストップがかけられたことがニュースになっている。
練習ぐらいならいいじゃないかと思うのだがルールはルールなのだそうだ。
このページに規定があるが、第5条の「男子生徒」という文字が、あるかないかだけなのだ。
多くの組織にはその存在理由がある。しかしいつしかその存在理由が忘れ去られ、組織があるから理由が存在するという奇妙な事が起こる。
ひとつの例が、行政と市民の関係だ。市民の為に行政があるはずなのだが、現実には行政上の理由で市民が不便を強いられている。行政事務手続が複雑化すればするほどに、市民がたくさんの手間をかけなければならない。市民からみれば、そんなルールは無くても良いはずと思うようなことも、存在しているルールそのものは、行政の立場からはなんとも改訂できずに延々と無駄なことを続けている事が多い。
今回の高校野球の規定についてもそうだ。ただしルールを決めているのも、ルールを適用しているのも高校野球連盟という点。だから“自己点検”機能がきちんと働いていれば、こういう“時代錯誤”な規定はとっとと削除できていいはずだが、残念ながらそういうわけにはいかないようだ。
スポーツ関係のこれらの“連盟”は、いわゆる老獪が多くなかなか開かれない組織。エゴと利権とは言わないが、少なくとも体育会系独特のものがあるのではないかと、こういう側面から感じざるを得ない。
陸上競技連盟、水泳連盟、野球連盟、スケート連盟、スキー連盟・・・これらの発足当時の「発展させよう」という気持よりも、「現状維持」に終始しているのは何とも情けない。スポーツの世界で現役でやってきた人達が重ねた苦労を、現在の若い人達にはさせずに済む方法はないものか?とか、少子化や青少年の健全な育成とスポーツの関係についてもっともっと積極的な活動があっていいと思うのだが、連盟という組織は“規定やルール”を作って運営している“権限団体”だとでも思っているのか、本来の存在意義に則った運営ができているのかどうか怪しい。
今回の華陵高校の女子選手の件を持ち出すまでもなく、とっとと“男子生徒”をとるべきだ。大義名分がないと・・・なんて行っているから、問題解決に向けてのスピード感が無く、すべての物事が遅々として進まないのだ。大義名分が必要ならば、「規定は必ず年に一回見直す」という規則でも作ればいい。
練習ぐらいならいいじゃないかと思うのだがルールはルールなのだそうだ。
このページに規定があるが、第5条の「男子生徒」という文字が、あるかないかだけなのだ。
多くの組織にはその存在理由がある。しかしいつしかその存在理由が忘れ去られ、組織があるから理由が存在するという奇妙な事が起こる。
ひとつの例が、行政と市民の関係だ。市民の為に行政があるはずなのだが、現実には行政上の理由で市民が不便を強いられている。行政事務手続が複雑化すればするほどに、市民がたくさんの手間をかけなければならない。市民からみれば、そんなルールは無くても良いはずと思うようなことも、存在しているルールそのものは、行政の立場からはなんとも改訂できずに延々と無駄なことを続けている事が多い。
今回の高校野球の規定についてもそうだ。ただしルールを決めているのも、ルールを適用しているのも高校野球連盟という点。だから“自己点検”機能がきちんと働いていれば、こういう“時代錯誤”な規定はとっとと削除できていいはずだが、残念ながらそういうわけにはいかないようだ。
スポーツ関係のこれらの“連盟”は、いわゆる老獪が多くなかなか開かれない組織。エゴと利権とは言わないが、少なくとも体育会系独特のものがあるのではないかと、こういう側面から感じざるを得ない。
陸上競技連盟、水泳連盟、野球連盟、スケート連盟、スキー連盟・・・これらの発足当時の「発展させよう」という気持よりも、「現状維持」に終始しているのは何とも情けない。スポーツの世界で現役でやってきた人達が重ねた苦労を、現在の若い人達にはさせずに済む方法はないものか?とか、少子化や青少年の健全な育成とスポーツの関係についてもっともっと積極的な活動があっていいと思うのだが、連盟という組織は“規定やルール”を作って運営している“権限団体”だとでも思っているのか、本来の存在意義に則った運営ができているのかどうか怪しい。
今回の華陵高校の女子選手の件を持ち出すまでもなく、とっとと“男子生徒”をとるべきだ。大義名分がないと・・・なんて行っているから、問題解決に向けてのスピード感が無く、すべての物事が遅々として進まないのだ。大義名分が必要ならば、「規定は必ず年に一回見直す」という規則でも作ればいい。