18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

根本的なボタンの掛け違い

2021-03-14 16:57:00 | 
差別。特に男女差別。あるいは性差別について、ちょっと書いてみたい。
なぜなら、男女差別について声高に叫ぶひとも大きな勘違いをしているように思うからだ。

まず、男女差別をなくせ!という要求がある。

一方で、男と女は肉体的に違うという事実がある。

結果として何が差別なのだ?という議論につながるが、ちょっとなにかおかしい。


そもそも、男女差別とか性差別の前提である男だから、女だからというのは、男というくくりである属性や特徴に対して同一であること、女というくくりである属性や特徴があたりまえであると考える事自体がおかしいことに気づいてない。

つまり、仮に、男女差別が無くなった状態、ただし男女の肉体的差異による特徴は認めるなかで、というのは、個人個人にとってなんの解決になってないということだ。



個人が、男をどうとらえるか、個人が女をどう捕らえるかの議論もなく、男だからこうだ、女だからこうだ、そんな男だ女だという性別に起因する差別は許さないという出発点にステレオタイプというか、個を拾い上げてない実態がある。

だから男女差別を~という議論がどこか実りがない。




じゃあ、どうするか?男女差別は許さないなら、その差別がなくなったとき、個々の人の権利を考えるなら、そもそも男女差別という議論をスタートさせてることが間違っている。

本来は、個の多様性を認めるところに帰結すべき。


個の持つ多様性によって権利が侵害されるようなことはあってはならないと声高に叫ぶべき。

例えば、ある男性は主夫として家事全般をやって妻を支えることが何よりも好きである。そんな男性の権利が仮に侵害されているならそれはおかしいと声高に叫ぶ。
男は会社に入って一家の稼ぎを支え、女は家事をしっかりやるものだという女性と男性がいてもいい。そういう価値観を持っている人を、男女差別を助長していると「差別」してはいけないのだ。


個々の持つ価値観、価値観の多様性を尊重できる社会をしっかり構築するなら議論は有効だろうし、いい成果を残せるだろう。


女性だからきれいじゃなきゃいけないというのは差別だ!というのは価値観の多様性を認めてないと気づくべきだ。

やっぱり男性は力強くて筋肉質でイケメンでないと!という意見を「だからあなたは駄目なのよ!」などと否定するのは、感覚の多様性、嗜好の自由を妨げている。

男なのに色が白い、女なのに声が低いなども同じだ。

また、あの子の親は外国人だから~というのもおかしい。あの子は片親で育てられたから~などというのも独善的だ。

世の中は、結局多様性にたいする寛容さが欠けている。

俺たちの時代は~だった、これくらい当たり前だったという押しつけもおかしいし、またそれを単純に否定するのもおかしい。

俺たちの時代は~が当たり前だったが、君たちはどう思う?
昔の価値観を押しつけるなと、頭から否定するよりも、なぜそんな時代だったのかを理解しないと何の解決にもならなくて、単なる価値観の押し付け合いになる。

男女差別の前に、多様な価値観を否定してないか?男女差別の撤廃が、価値観の多様性の否定につながってないか、根本な議論がないままの議論は、ボタンの掛け違いでしかなく、お互いにわかり合えるなどという答えにたどり着くことは永遠にないだろう。