インターネットの動画配信で、まるまる映画を見ることができるようになって便利なので、つまみ食い的に映画をみるのだけども、「Gyao」で配信中の映画「es」が結構衝撃的な、かつ考えさせられる内容だったので日記に書くことにした。
「es」はアメリカのスタンフォード大学で実際に行われた実験とその結果に起った事件に基づいて作られた映画である。全編ドイツ語。アメリカでは映画作りがなされなかったのは何となく理解できる。
ともあれ、この映画についてはGyaoの無料配信で見て欲しい(ただし18歳以上)。この映画で考えさせられるのは、「権力」「役割」「人格」「集団」「環境」の人間心理に及ぼす影響の複雑さと普遍性である。
人が権力を持つとどうなるか?それが単なる役割として与えられているだけであるにもかかわらずである。
映画の中の実験では、看守と囚人という役割が与えられ、その中であるきっかけから役割をまっとうする為に権力を行使することが拡大してゆく様が描かれているのだが、とくに馴染みのない看守と囚人という関係では無くても、上司と部下、教師と生徒や、親と子の間でも当然に起こりうる話である。
パワーハラスメントなる言葉があるように、権力を持っている人間が、それをかさに支配下に置かれている人間に根拠のないいじめや一方的な要求を出すケースも珍しくはない。
部下は上司の言うことをなんでも聞かなければならないのか?生徒は先生のいうことを聞かなければならないのか?子どもは親のいいなりにならなければならないのか?
答えは「否」である。
本来は役割としての範囲を逸脱してまでいうことを聞く必要はない。本当なら拒否してもいいのだ、いや拒否すべきである。
また、それ以外の関係とは異なり、役割以外に、「信頼」という要素が加わり、親子の信頼関係や愛情に基づいて本来ならば、関係が形成されるはずなのだが、最近の子どもへの虐待に見られるように、親の方が未熟なままで、そういう関係の形成すら出来ず、単なる権力だけで子どもに接してしまう場合も増えている。情けない話だが、本当に親としての役割を果たせない、果たすだけの忍耐力のない大人になれない親たちがこんなに多くいるのは哀しい話である。
人は、勘違いをする。「権力」は「役割」についているのである。「役割」は単に役割でしかなく、決してその「人格」をあらわしはしない。
偉い政治家、偉い社長、やり手の部長などさぞ立派であると想像しがちだが、その人を評価ときに、その役割の名前で評価しているのが、私たちが勘違いしている証拠である。
もちろん、とんでもない努力をしている成果でもあるし、秀でた能力があるからだろう。だけども、その人たちの権力の及ぶ範囲は、その役割の関係を形成している組織内だけである。
どこの誰であっても一個の人間には変わりない。「社長だから」許される、「先生だから」生徒に従わせるというのは、その関係性が成り立っている範囲だけだ。それを逸脱したような関係では、たとえ先生だろうと社長だろうと一個の個人であり、みんな対等なのだ。
映画「es」は映画作品としては60点ぐらいだけども、考えさせられるという点では70点。気持ちいい映画ではないが、(18歳以上なら)見てもいいのではないかとおもう。
「es」はアメリカのスタンフォード大学で実際に行われた実験とその結果に起った事件に基づいて作られた映画である。全編ドイツ語。アメリカでは映画作りがなされなかったのは何となく理解できる。
ともあれ、この映画についてはGyaoの無料配信で見て欲しい(ただし18歳以上)。この映画で考えさせられるのは、「権力」「役割」「人格」「集団」「環境」の人間心理に及ぼす影響の複雑さと普遍性である。
人が権力を持つとどうなるか?それが単なる役割として与えられているだけであるにもかかわらずである。
映画の中の実験では、看守と囚人という役割が与えられ、その中であるきっかけから役割をまっとうする為に権力を行使することが拡大してゆく様が描かれているのだが、とくに馴染みのない看守と囚人という関係では無くても、上司と部下、教師と生徒や、親と子の間でも当然に起こりうる話である。
パワーハラスメントなる言葉があるように、権力を持っている人間が、それをかさに支配下に置かれている人間に根拠のないいじめや一方的な要求を出すケースも珍しくはない。
部下は上司の言うことをなんでも聞かなければならないのか?生徒は先生のいうことを聞かなければならないのか?子どもは親のいいなりにならなければならないのか?
答えは「否」である。
本来は役割としての範囲を逸脱してまでいうことを聞く必要はない。本当なら拒否してもいいのだ、いや拒否すべきである。
また、それ以外の関係とは異なり、役割以外に、「信頼」という要素が加わり、親子の信頼関係や愛情に基づいて本来ならば、関係が形成されるはずなのだが、最近の子どもへの虐待に見られるように、親の方が未熟なままで、そういう関係の形成すら出来ず、単なる権力だけで子どもに接してしまう場合も増えている。情けない話だが、本当に親としての役割を果たせない、果たすだけの忍耐力のない大人になれない親たちがこんなに多くいるのは哀しい話である。
人は、勘違いをする。「権力」は「役割」についているのである。「役割」は単に役割でしかなく、決してその「人格」をあらわしはしない。
偉い政治家、偉い社長、やり手の部長などさぞ立派であると想像しがちだが、その人を評価ときに、その役割の名前で評価しているのが、私たちが勘違いしている証拠である。
もちろん、とんでもない努力をしている成果でもあるし、秀でた能力があるからだろう。だけども、その人たちの権力の及ぶ範囲は、その役割の関係を形成している組織内だけである。
どこの誰であっても一個の人間には変わりない。「社長だから」許される、「先生だから」生徒に従わせるというのは、その関係性が成り立っている範囲だけだ。それを逸脱したような関係では、たとえ先生だろうと社長だろうと一個の個人であり、みんな対等なのだ。
映画「es」は映画作品としては60点ぐらいだけども、考えさせられるという点では70点。気持ちいい映画ではないが、(18歳以上なら)見てもいいのではないかとおもう。