18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

クレヨンしんちゃんは誰のもの?

2006-09-30 18:17:56 | 文化・芸術
 クレヨンしんちゃんの商標登録が、中国のしんちゃんの偽物を製造する企業に対して認められた。著作権もなにもあったもんじゃない。「だから中国は嫌い!」という理由の一つに、人様の物を勝手にまねて(というか殆どコピー)、儲けてるやつらがいるということ。

 日本でもそういう偽造とか、コピー品だとか、横行しているのも認めるが、今回の件は、なんと中国の裁判所が、つまり中国の司法がそういう判断をしたのが問題。

 国を挙げて、コピー三昧。4000年の歴史があろうが、日本の文化は中国のコピーだと言われようが、関係ない。過去の話をしているのではない。現在の当たり前の商行為の中で認めら得るべき著作権と商標権が、歪めて”盗まれた”のだ。

 クレヨンしんちゃんだけではない。無印良品もまねられている。恥ずかしくないのか?と思うが、中国にはモラルもなにも無いようだ。司法の判断がそうなのだから。

 むかしから物まねばっかりすることを”猿まね”と言ったが、このままだと中国や、中国人が”猿なみ”だということになる。

 まともに著作権を認めようよ。商標権を認めようよと言っているだけの日本のまっとうな主張を、認められない。 そんな人たちの主張はまともに聞く気も起らない。中国人は、自ら、自浄作用を働かせ、こういう判決そのものを、あるいは明らかなコピー商品やその製造者をなくす動きをしなければならない。

 著作者は泣き寝入りか?ホンモノである価値が蹂躙され、商標権を持っていない奴が跋扈する。中国はまだまだ安心できない恐い国だ。




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英語の必修化は必要ない?ある?

2006-09-28 00:20:50 | 文化・芸術
 Yahooのニュースによると、次期学習指導要領に盛り込まれる見通しの小学校5年生以上の英語必修化について、伊吹文明文部科学相は「必須化する必要は全くない。まず美しい日本語が書けないのに、外国の言葉をやってもダメ」と必修化に慎重な考えを示した。とある。

 ここで改めて問いたいのは、英語を学問として学ぶのか、言葉として、コミュニケーションの道具として学ぶのかという点である。

 「美しい日本語が書けないのに」という下り。これは国語を勉強するのは、美しい日本語を書いたりできる能力の為だと言っているが、いままでそんなことを意識して国語を勉強したことは無い。そんなやつ居るの?

 ましてや、英語などの場合など、SVOCだの関係代名詞だの、現在完了形とか言って文法ばっかりやらされたからどう考えてもコミュニケーションの手段として学んだと思っていない。

 自らの経験からすると、きれいな日本語を書けるようになりたいなら、たくさん作文を書かせて、よい文章を読むしかない。言葉遣い、文章表現力、漢字の誤用などがどんどんと直されてゆく。またそういう中で、いろんな表現を覚えるから、文章表現のバリエーションが増えて、将来役に立つのは間違いない。

 例えば、ある料理を食べても、”おいしい”としか言えないタレントと、”芳醇な香りで、まるで南フランスに射す夕日のようなたおやかさ”などというタレントでは、どちらが知性を感じさせるかといえば当然後者だし、タレント生命も自ずと後者のほうが長くなる。

 その為には、そういう表現ゴッコをしたり、作文を書いたりするのがいい。国語の学び方をそんなふうにすれば、日本人はもっと言い言葉遣いができるはずだし、手紙や文章を書くときにも役立つ筈である。

 日本語を学ぶ本来の目的が、もし「美しい日本語を表現豊かに使えるようになる」ことであって、テストで点を取る為ではないなら、そういう学び方が認められても良いはずだ。


 もちろん英語も言語だから、日本語と同じく、表現豊かに使えるようになることが本来の学ぶ目的であるはずだ。言葉として、コミュニケーションの手段として学ぶ英語は、小学校からでもやればいいと思う、いやそれどころか、小学生から学ぶべきだとおもう。

 日本語がきちんとできてから、英語を・・・というのはどこか形式主義的で納得できない。そんなこと言い出したら、帰国子女達はどうなるのさ?と言いたくなる。コミュニケーションとしての言葉には学ぶ順番は関係ない。

 自分自身としては、日本人はもっともっと英語を使う場を持つべきだと思っている。このブログで、何度かアメリカ人は議論好きということを書いたが、やっぱり彼らと議論しあいながら、意見交換をしたりいろいろな事を学んでゆくことが大事である。

 日本ではそういう場が少なすぎる。その結果、英語での議論の場に参加できずに、その場の外でへらへら愛想笑いしているのだ、場の中に居る人達からすれば、場の外にいるのは理解出来にくい連中ということになるのだ。いまでもそうだと思うが、海外でのホームステイ生活でも、すぐに日本人同士が集まるのは全然変わっていないようだ。せっかくの海外での生活なのにである。

 英語の不得意トラウマを作ったのは、英語を学問として学ぼうとさせたからだと思う。英語をコミュニケーションの道具として学ぶようにして、高校や大学でも入学試験科目などせずに、就学中の成績だけで判断すればいいのだ。普段の授業でコミュニケーションのツールとしての英語の習熟度を評価すればいい。もちろん英検やTOEIC、TOEFLなどの結果も参考にすればいい。入試科目には必要ない。そうすればSVOCだとかで悩まなくてよくなる。みんなコミュニケーションツールとしての英語に堪能になれる。こんなハッピーなことはない。

 そうすれば議論の場の中に入れる。理解されるし、友達も増える。こんなにいいことはない。

 くれぐれも英語や日本語は学問としてではなく、言葉、コミュニケーションツールとして学ぶことを忘れないことだ。そうすれば学んだ言葉の数だけ世界が広がるはずである。




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安カワ

2006-09-27 19:37:20 | 風景
 ちょっとセクシーでカワイイのがエロカワと言い出したのは、倖田來未だが、それが流行語になり、その後、どんどんと「××カワ」が生まれている。

 キレカワ、キモカワなど、まあ許せるが、タイトルの安カワだけはちょっと気持ち悪い。

 安カワっていうのは、たまたま携帯のメルマガ登録している通販会社からのメールに載っていた単語だ。

 ”安カワブーツ特集”というタイトルで届いたメール。その文字を見た瞬間、「安もんの革ブーツか?」と思ったのは自分だけではない筈だ。薄っぺらい、革なのか合成皮革なのか分からない安物のブーツ・・・そんなヴィジュアルが浮かんでしまう。

 せっかくのメルマガでの販促が、”言葉のセンス”の有無で売れ行きが変わってしまうことを考えると、今回の”安カワブーツ”は頂けない。

 「××カワ」という語感を使いたかったのだろうが、こういうことはやってはいけない。

 しかし、日本語のこういう省略形や短縮形は文化として根付いているから決して悪いことでは無い。省略形の形式美というものがどこか在るように思う。

 ”天丼””市バス”、”学食”、”学割”、”着メロ”、”着うた”もはや誰も原型を使おうと思いもしないことばだらけだ。

 英語の場合は、アルファベットの頭文字から略語を作る。ハリウッド映画に良く出てくるCIAやFBI,NSAなどは全部正式名の単語から作られている。コンピュータのIBMはInternational Business Machines の略だし、NCRはNational Cash Register などだ。コンピュータ関係で3文字略語が多いのは、彼らの影響も大きいのかもしれない。

 そういえば、略語でも地域差があるらしく、「試験に出る単語」の略語は関西では、「シケ単」というが関東では、「でる単」というらしい。有名な東西差のある省略形は、マクドナルドという言葉。関西は「マクド」関東は「マック」明らかに関東のほうが響きがおしゃれっぽいが、フランスでは「マクドォ」というのだそうだ。

 この間の渡米で気づいたのだが、ワシントンD.C.の事をみんなD.C.と略していた。それ以外の地名を略してたかどうかは覚えていないが、省略形は万国共通なのかもしれない。


 さて、タイトルの”安カワ”だが、まだ”トクカワ”とかの方がマシに思うが・・・どうだろう。”トクカワブーツ”VS”安カワブーツ”広告が気になる目からすればトクカワに軍配を上げたいのだが・・・。






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時効ってなんだろうか?

2006-09-26 19:59:52 | ノンジャンル
目の前に犯人がいるのに、何もできない。これが時効の正体。

このことが裁判で争われた。YAHOOのニュースによると、26年前の殺人で、刑法上も民法上も時効が成立している犯人が殺人を告白。遺族は1億6千万円の損害賠償を請求した裁判を起こした。

男はすでに年齢も70歳に達している。時効だから殺人を告白した。何の罪のない小学校の女性教諭が誰かに殺され埋められた事実を、26年後に明らかにされたのだ。

犯人を憎んでも憎んでも殺された家族は帰ってこない、せめて犯人に名乗り出て罪を償って欲しいという願いさえ、”時効”の前に実現できずにいる。

どんな無念な思いだろうか?殺人犯人が罪を償わずに、刑務所にも入らずに、生きているのだ。法律は時にこういうおかしなことを認めてしまう。殺人という罪
がそんな簡単に洗われてしまっていいのだろうか?時効後の犯人の遺族に対する謝罪の念やその行動などは一切報じられていないが、仮に、殺人を告白した犯人が、逮捕されなかったことをいいことに、例えば、どんな殺し方をしただとか、どんな風に苦しんだのだとかを、その遺族に対して直接、あるいは間接的にでも伝えようものなら、遺族の感情は一体どこまで嬲られなければならないのだろう?それでも”法律的には事件”ではない。何回でも書くが、事件の被害者が受けた心の傷は、加害者がどれほどの罪を償っても一生涯消えないのだ。しかし法律には時効が存在している。心情的におかしくないか?人間は弱いもの、間違いを犯すものなんていう人道主義的な言葉だけで、法律論を片手に犯罪者を守る弁護士の存在は、果たして純粋に法律が人の処罰に対してキチンと執行されているかを見ているだけなのだろうか?権利があるからという論理だけではないだろうか?さまざまな例を見ていても、弁護士は罪を犯した人を守るというよりも、「弁護士の仕事をする為に」つまり有益かどうかよりも「法律と戯れ、法律を盾に」上告したり、犯罪被害者よりも犯罪者を守っていたりしているように思えてならない。「法律があるから、法律にのっとって」というのは大切だけども、一方で、「時効」という法律が存在したおかげで、謝罪せずにのうのうとお天道様の下を大手をふって歩ける殺人犯人を認めざるを得ないというのはどういうものなのか?弁護士という職業は、確かに高度な法律知識が必要なので、頭脳明晰でないといけないし、専門職であるから高い報酬を手にするが、でも所詮「法律」がありきの商売。偉くもなにもない。

この裁判は、東京地裁では、330万円の賠償を認めたが、今後どのように展開するのか見続いていたい。


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よみかきそろばんの真の意味は

2006-09-22 22:58:10 | 文化・芸術
 文章を書くこと、日記を書くこと、ブログを書くことはどうも共通点があるようだ。IT関係の仕事をしていて思うのは、以前にも書いたとおりお互いに話していることを理解する能力がどれほど大切かということだ。

 その為にも、本を読み、話を聞き、説明資料を作成し、文章を書き、人前で話すということを少しずつでも続けなければならない。

 昔から、商売人あるいは丁稚奉公の為には、読み書きそろばんと言ったが、つまり、読める、書ける、計算できるというのはビジネスをする上での必須能力だということだ。

 ところが、この3つの能力。案外難しいのである。

 読み書きそろばんと言っても、単純に日本語が読めるだとか、書けるだとか、四則演算が出来るというわけではない。

 例えばそろばんならば、原価10円で500個仕入れた生菓子を100円で売るとしたとき、何個余ると赤字か?なんていうことの"感覚”を言っている。

 仕入に5000円使っているからまず5000円分は取り戻さないと仕入をカバーできない。1個90円の利益なので割り算すると55.5なので100円で56個売ればまず元は取れた状態。ところが56個売れる前に値引きをしてしまうと、この数がまた増えてしまう。あたりまえだが、商売人は、やった商売がどれだけの現金獲得に繋がったかを感覚で計算する。これが損得勘定である。

 かろうじて56個うれば、あと売れた分は全部利益の上乗せだから、いくらで売るかはそれこそ商品の残り具合である。仕入10円だけど56個売れてから1個10円で売ってもそれは利益。これが損して得取れの後ろの横たわるロジックである。
 つまり、損はしないことは分かったから、あとは”お客さんに、うちの店を選んでもらう”経費のような扱いで、少ない利益でも商品を売るのだ。

 食べ物を粗末にするのはDNAレベルで気が引けるからいやなのだが、どうしても廃棄しなければならなかったとしても、56個以上うれていれば、それは勉強代。確かに売れるともっと儲けられたのにと思うが、そもそもそんな商売はよほどの事がないかぎり無い。

 読むことは、まさに人の話を聞いて本心を読むことに繋がる。お客様から「あんたのとこの商品こんなんやったで!」とクレームを付けられたとして、それをそのままクレームとして受け付けるのは商売ではない。「いやぁー、すんまへんー、そんな商品お渡ししてしもて、ところでどうなってましたぁ?」とどんどんとお客と仲良くなる。そして新品と交換するのはもちろん、「これも、つけときますゎ」となにかサービスすることを忘れない。

 そうするとどうなるか。そういう「うるさ型」のお客ほど、いい話もついつい人にしゃべるもの。「あの店、すぐ交換してくれたでぇ」というのは価格ドットコムでも有用な情報の一つだ。これが読むということ。

 書くのは、一番難しい。商売ではあたりさわりなく、さりげなく「うちはちがいまっせ。」を主張しているもの。書くことで、この書いたモノを人が読んだときにその人はどう思うかを考えて書くのだ。これは”書く”と表現されているが、もちろん”言う”ことにもつながっている。

 「あのー、こういう商品ありませんかぁ?」というお客様がいたとき、この言葉から、「ありません」という言葉が来てもショックを受けたくない心理が働いていることを見抜く(読む)ことができれば、「あー、すんませんなぁ、いま、ちょうど、うれてしもて、まだはいってきてませんねん。」とか「きらしてしもてぇ、すんませんなぁ」と返すことができれば最高である。
 
 「ありませんねん。」では不合格だし、「ありません。」や「おいてません」は退場である。「ありませんかぁ」とこわごわ訊いているのだから、できるだけソフトに返すのが常識である。「おいてません」がダメなのは、そこに売る側の主体性が見えてしまうからだ。「はいってきてません。」や「きらしてしもて」は、外部に原因がある表現になって、店としては売りたいのだけども。が伝わるからだ。これが”書く”ちからなのだ。

 こう考えると、読み書きそろばんも、もう一度見直してもいいかも知れない。


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