産経新聞の記事に「万引き現場にもモンスターペアレンツ」というのがあった。
万引きした子をしからずに、店が悪いと怒鳴り込んでくるらしい。
また、「お金を払えばいいんでしょ」などという親すらいるという。
この現象を見ると、いろんな複雑な思いが浮かんでくる。
ひとつは、「子どもの教育」だ。
「お金を払えばいいんでしょ」という親の場合、万引きをした子どもが、金で解決する親を見てどう思うか?「悪いことをしても、お金で解決できるんだ」と思うだろう。その程度のことなんだと思うだろう。
一方もし、親が子どもの前で、店に「スミマセンでした」と謝っている姿をみたらなんと思うだろう。
情けない親と思うか?それとも親にこんな情けないことをさせてしまったという罪悪感を感じるだろうか?
少なくとも「お金」で解決しようとする親に対する感情よりもましな思いを持つだろう。
店の責任にする親をみて子どもはどういう子どもに成長するだろう?なんでも自分が正しいという錯覚に陥らないか?なんでも親が自分をかばってくれるんだと思うのではないだろうか?
では親はいつ子どもを叱るのだろう。親自身の鬱憤晴らしでのしつけと称した虐待か?
古い話だが、神戸の猟奇殺人事件の少年Aの育てられ方に問題は無かったのだろうかということが頭をよぎる。
何でも自分の言うとおりになる。子どもがしたことの責任を取るのは親だと勘違いする。子どもがこういう感情ともったとしたら、これすべて親の責任ではないか?
生まれてきた子どもの自己は、真っ白ではない。すでに何らかの個性を持っているし、感性を持って生まれてきている。幼稚園や保育所に通う子どもであればなおさらである。親の想像をはるかに超えて社会性を備えるものだ。
そういう事実に対する自覚が親の側になく、子どもをいつまでも溺愛の対象とし、社会性を身につけるたくさんの学習機会を親が自ら消し去っているのが、この万引き現場のモンスターたちなのだ。
悪いことをしたら、親は子どもをつれて謝りにいく。もちろん万引きした子どもはきつく叱る。人の道に外れたことをしたらとことん叱られることを覚えさせるのは親の役目だ。叱らず、万引きを金で解決するような大人はろくなものではない。覚悟が出来ていない大人の年齢の子どもなのだ。
万引きをお金で解決したり、店に文句を言ったりするのは、大人としての「覚悟」の欠落としか思えない。とても恥ずかしいことを子どもがやってしまったという事実を受け止める覚悟。そして店に謝りに行く覚悟。子どもをしっかり叱らなければと思う覚悟。
そういう覚悟なしにどうして子どもを育てられるのか。
金で解決なんて、もはや親自身の保身でしかない。
そんな親の姿を、親の想像以上に社会性を身につけそして十分に知性をもった子どもが見ていったいどう思うか? きっと尊敬されないし、いやそれどころか、子どもは希望をなくしてしまう。
大人というものに対する憧れは親に向けられる。その親がなんと金で
万引きを解決したと知ったら憧れは消え去り、憎悪と形を変え、複雑な
感情でしか親のことを見ることができなくなる。
素直さは消え、屈折した感情をもてあまし、深夜に出かけたりする。
親に対する示唆行為の典型だが、大概の子どもがそれに近い感情を持つものだ。
親は覚悟を決めて、子どものしでかしたことについては謝罪し、そしてこどもを思い切り叱り飛ばすことだ。
親の覚悟というものはそういうときに使うものだと信じる。
万引きした子をしからずに、店が悪いと怒鳴り込んでくるらしい。
また、「お金を払えばいいんでしょ」などという親すらいるという。
この現象を見ると、いろんな複雑な思いが浮かんでくる。
ひとつは、「子どもの教育」だ。
「お金を払えばいいんでしょ」という親の場合、万引きをした子どもが、金で解決する親を見てどう思うか?「悪いことをしても、お金で解決できるんだ」と思うだろう。その程度のことなんだと思うだろう。
一方もし、親が子どもの前で、店に「スミマセンでした」と謝っている姿をみたらなんと思うだろう。
情けない親と思うか?それとも親にこんな情けないことをさせてしまったという罪悪感を感じるだろうか?
少なくとも「お金」で解決しようとする親に対する感情よりもましな思いを持つだろう。
店の責任にする親をみて子どもはどういう子どもに成長するだろう?なんでも自分が正しいという錯覚に陥らないか?なんでも親が自分をかばってくれるんだと思うのではないだろうか?
では親はいつ子どもを叱るのだろう。親自身の鬱憤晴らしでのしつけと称した虐待か?
古い話だが、神戸の猟奇殺人事件の少年Aの育てられ方に問題は無かったのだろうかということが頭をよぎる。
何でも自分の言うとおりになる。子どもがしたことの責任を取るのは親だと勘違いする。子どもがこういう感情ともったとしたら、これすべて親の責任ではないか?
生まれてきた子どもの自己は、真っ白ではない。すでに何らかの個性を持っているし、感性を持って生まれてきている。幼稚園や保育所に通う子どもであればなおさらである。親の想像をはるかに超えて社会性を備えるものだ。
そういう事実に対する自覚が親の側になく、子どもをいつまでも溺愛の対象とし、社会性を身につけるたくさんの学習機会を親が自ら消し去っているのが、この万引き現場のモンスターたちなのだ。
悪いことをしたら、親は子どもをつれて謝りにいく。もちろん万引きした子どもはきつく叱る。人の道に外れたことをしたらとことん叱られることを覚えさせるのは親の役目だ。叱らず、万引きを金で解決するような大人はろくなものではない。覚悟が出来ていない大人の年齢の子どもなのだ。
万引きをお金で解決したり、店に文句を言ったりするのは、大人としての「覚悟」の欠落としか思えない。とても恥ずかしいことを子どもがやってしまったという事実を受け止める覚悟。そして店に謝りに行く覚悟。子どもをしっかり叱らなければと思う覚悟。
そういう覚悟なしにどうして子どもを育てられるのか。
金で解決なんて、もはや親自身の保身でしかない。
そんな親の姿を、親の想像以上に社会性を身につけそして十分に知性をもった子どもが見ていったいどう思うか? きっと尊敬されないし、いやそれどころか、子どもは希望をなくしてしまう。
大人というものに対する憧れは親に向けられる。その親がなんと金で
万引きを解決したと知ったら憧れは消え去り、憎悪と形を変え、複雑な
感情でしか親のことを見ることができなくなる。
素直さは消え、屈折した感情をもてあまし、深夜に出かけたりする。
親に対する示唆行為の典型だが、大概の子どもがそれに近い感情を持つものだ。
親は覚悟を決めて、子どものしでかしたことについては謝罪し、そしてこどもを思い切り叱り飛ばすことだ。
親の覚悟というものはそういうときに使うものだと信じる。