18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

親子で一緒に

2004-11-30 01:39:50 | ファミリー
 最近まで、ゴルフのレッスンに仕方なく通っていたが、この11月で一区切り終えたのでレッスンは終了することにした。仕方なくと書いたのは、正直なところ、あまり進んでやりたいと思えるモノではないからなのだが、いわゆる”付合い”でのゴルフの為に少しでも周りに迷惑をかけないようにするためである。ほとほと消極的な理由だが、まあそういうこともある。

 一方で、子どもたちがテニスを習いたいと言い出した。本気なのかどうか最初は半信半疑だったが、習い始めて一ヶ月が経とうとしているいまは、子どもたちも一所懸命だ。それに乗せられた分けではないが、練習に付き合ううちにだんだんと熱が入って、市のテニスコートを借りて練習したりしている。

 そこで気が付いたのは、同じスポーツ競技の練習でも、子どもたちとやると本当に時間が過ぎるのを忘れるし、楽しいものだなあということだ。親子で楽しめるスポーツといえば、我が家ではスキーなのだが、冬しか楽しめない。 もうすこし子どもたちがテニスが上手くなれば、キャンプ場や国民宿舎などでコートを借りて楽しめる。

 親子の会話は年々減っているという。しかも子どもが思春期を迎えるあたりから極端に会話が減るが、スポーツを家族で楽しむ環境があると、会話も補えるし、会話以外の家族一体感を感じることができるので、精神の成長には欠かせないのではないかと思える。

 親子でのスポーツ。何でもいいから一緒にやることから始めては如何だろうか。



おいしいよ、どうぞ

2004-11-25 22:35:56 | ファミリー
新大阪駅で電車を待つためにCAFEに入った。その時に目にしたポスターに、「召し上がれ最後までおいしいヨ!」と書いてあったのを目にして、ふと母親のことを思い出した。
まだ他界しているわけではないが、訳あってずっと会ってはいない。その母が手作りの佃煮だか漬け物だかを密封容器にいれて食卓にだしていたが、その密封容器に油性ペンで書かれていたのが、「おいしいよ、どうぞ!」という一言だった。母はいったいどんな気持ちで、その一言を書いたのだろうか。丁度そのころは生意気盛りで、おそらく自分が二十歳前後だったのではないかとおもう。親の加護の中にあることなんてみじんも感じることなく、雨をしのげる家と、眠る為の布団がちゃんとあって、母親が料理をつくって待っている。それを何の疑問もなく、いやそれどころか時には親の存在をうっとうしく思いながら毎日を過ごしていた時期である。

子どものそんな生意気ぶりに、どんな気持ちでいたのだろうか?「おいしいよ、どうぞ!」には子どもとの会話の乏しさに対する思いはなかったのだろうか?そう考えると、もっともっと優しい気持ちで接していればよかったと胸を締め付けられる思いがする。ひとに言えた義理ではないが、人間はどこかで素直さを学んで、それを一番身近な人に表わさなければならないと思う。いまでもそれがなかなか出来ないでいる。家内に対しても、父や母に対しても。

自分の心にもうひとつ余裕が無かったのかも知れない。仕事をしっかりやって、家庭をちゃんともっているのだけれども、どこか殺伐としている部分が心のすみっこにあるのだろう。またどこか自分自身がまだまだ大人になりきってないのだろう。いつの日か素直に、「あのときはごめんね」、「あのときはありがとう」と言えるようになりたい。遅すぎることがないうちに。




社長知ってるかぁ!

2004-11-23 23:34:12 | 
 IYの甲子園口店がプレオープン。IYの会長、社長が現地訪問、その後この店に来るという連絡がはいって、みんな大あわてで”視察対応”スクランブルとなる。活気が足らないとまずいからと、昼過ぎに引ける予定のパートさんたちに残業させたり、ディスプレイを変えたりと、、、。社長や会長は、現場でそんな対応、つまりその場しのぎの対応がなされているとは思っていないだろうし、順風で業界内で一つ一つ登ってきたときのチームワークを信じたがっているだろうから、現実を見せられていないことにもどうしても鈍感にならざるを得なくなっている。

 よくよく考えてみれば、「社長や会長が視察に来るからきちんとしているところを見せなきゃ」なんていうのは、小学生や中学生ぐらいが、「先生がくるからちゃんとしなきゃ」という発想と殆ど変わらない大変幼稚きわまりない発想である。大人ならば、プロならば、社会人として、指導を受けるべき所は受け、改善すべきところは改善する、自分たちは、完全ではなく、未完の状態であることをはっきりと明らかにすることの方が、求められるものである。

 現場の実態をそのまま人に見せられるモノではない、という認識があるから、現場マネージャたちはあわてて取り繕うかのように、視察対応をしているのである。せっかくの視察の時に実態を見せずに、取り繕い、一方で業績が未達であると、いったいどうやってその「不振」を説明するのだろうか?監督者は「視察対応」された”虚偽の実態”を見せられているから、つじつまを合わせる為の理由をでっちあげなければならなくなるのだ。いい大人が、嘘の上塗りに四苦八苦して、エネルギーを費やしているのだ。そういう人たちに言いたい、「あなたの仕事は何ですか?」と。

 大企業に就職すると、競争が激しいと言われるが、問題はその競争の中身だ。お互いに切磋琢磨する競争ならば大歓迎だがどうもIYを見ているとそのようには見えない。”取り繕い”競争だったりしないのだろうか?人よりも”劣る”ことを見せられない”優秀君”が大企業にはどうしても多くなる。いわゆる”本音君”や”野武士”君は少なくなるし、例え入社しても排除される。本当に物事の本質をしっかりと押さえて、それに基づいて戦える社員はいったい何人いるのだろうか?

 まあIYのような大企業だから、”取り繕い”君の存在など「さらっとお見通しだ!」と言っているかも知れない。でも、万一、そんな実態を身にしみて感じていないとしたならば、社長はもっと隠密で、普段着で売り場を見てみるべきだし、またパートだけを集めて現場の実態を聴くべきである。社員は必ずしも本当のことを言うとは限らないのだ。特に自分をある程度”優秀”に見せなければならない”秀才君”には特に気を付けなければならない。






退職届

2004-11-23 02:33:20 | 
 ある社員の退職の話は以前にも書いたが、今回は別の男子社員である。彼の場合は、完全に”熱にうかされている”状態で、まともに会話ができないケースである。

 仕事を通じて自分が普段から疑問におもっていたことがあり、それを何とか解決したいと考えていた「彼」なのだが、あることがきっかけで、そういうことが「出来そうな」会社を見つけてしまったというのだ。

 「彼」との会話を約3時間続けた。まあ人間だれしも3時間も嘘や作り話で逃げられるモノではない。3時間も話していると「彼」の「辞めたい理由」にもほころびが出てきた。 最初は、「SEという仕事を極めたい。」といっていたが、そのうち、「もしかしたら業務を極めたいのかも知れない」と言い出す始末。自分の中で、本当に何がしたいのかがまったく決め切れていない、真剣に考えていない、本人は、熱に浮かされているので全く気づいていないが、「感覚」だけで、理由を後から付けているのがありありだった。「その考え方は、どこかおかしいよ」と辞めようとしている社員に対して、思いとどめさせる意味ではなく、親切にも教えて上げたが、かれの気持ちはもう完全に、今の仕事には無いようで、耳に入っていない。もうこうなってしまうと、何を言ってもダメ。業界に20年近くいる経験から、若いSEが良く陥る選択の間違いを指摘してもまったくダメである。残念だが、冷静さを失った人を落ち着かせるほどこちらものんびり時間を使えない。結局は退職届を受入れたが、やはり心配である。

 この例のように、人はあるとき、分っているのに人の警告を聞かないときがある。”聞こえてはいる”が、”聴いて”いないのである。”人の話を聴かない”というのはゼロには出来ないだろうが、しばらく時間を置いて、”話を聴ける”ようにしてゆっくりと考えてもいいのではないかと思う。特に周囲からは、”おかしいよそれは”と指摘されればなおさらではないだろうか?

 人の話を聴く、ありがたくも自分のために時間を割いてくれているのだから、やはり冷静に聴くべきである。物事の結論なんて急いで出す必要はないのだから。

「パートの女は怒っている」

2004-11-16 01:22:51 | 
 ひきつづき例のお店の話題。

 パートの人たちの仕事は、小間使い的なことから、販売接客、レジ打ち、商品の陳列、片づけ、売り場の棚割り、商品の移動、買い物された商品を駐車場のお客様の車までの運搬、お客様からの返品の受付処理、訂正処理時の上司の承認印受領、お客様からのお問い合せに対応する、在庫商品を探す、GOT端末での発注、など多岐にわたる。普段私たち買い物客の目に触れる所以外でも、一人でこれ以上の種類の仕事を担当している。しかも、ポイントだの割引券だの、セール期間中に買ったものを、セール期間終了後に交換するなど、レジ処理だけでもたくさんあるのだが、パートにも売上げ目標があるのだ。

 ちょっと意外な感じがするが、まぎれもない事実である。みんなで積極的に接客しようとか、パートだからといって甘えた考え方は止めよう、という主旨で始めたモノなのだろうが、これがまた大企業病により、主旨がどうもいびつに理解され、運用されているようだ。その一例を紹介しよう。

 パートの売上成績の付け方の基本はレジ登録を人になるのだが、時には接客した担当者があきらかな場合などは、レジの担当は、気を利かせて接客した人のコードで処理をしたりする。やっかいなのはそんな風に運用したとしても、必ずしもパートの能力や努力がそのままそのパートの成績にはならない点だ。そもそもパートなのだから、毎日店にいるわけではないし、土曜日、日曜日に勤務にあたっている人と、土曜日、日曜日が勤務出来ない人がいるはずである。また商品が高額なものだったりした場合で何度も店に足を運んだお客様には、異なる担当者が接客するからだ。

 であるにもかかわらず、レジに打ち込まれた情報から集計した担当者別の1週間分の売上を書き出して、壁にはりだし、目標に到達していると、○、そうでないと×を付けているというのだ。本人の接客努力が必ずしも売上に結びつかないにもかかわらずだ。仮にそういうことをやるとしても、せめて目標額に届くまであとどれくらいだったというぐあいの表現にとどめるような配慮が必要だ。パートは時には、社員の指示にしたがって、陳列や売り場変更などで、店頭には殆ど出られなかったり、レジに立てなかったりしているのだからである。

 ”パートも一緒に販売に協力しあいましょう”というかけ声はわかるが、実運用がこれでは当のパート本人たちもけっして素直に理解できるものではない。また、いろいろと積極的に動き回るパートさんほど、レジの前に立っている時間も少なくなり”売上”を積み上げる機会にも巡り会わないこともよくある。他方で積極的に動かずにレジの前に立っているだけしかできない人もいるのだ。そういう人にかぎってちゃっかり自分の実績にしてしまうのだ。まじめにやるとバカをみる仕組みにしてしまった社員やマネージャの責任は重い。 

 そういう、積極的に動き回る人ほど、成績があがらず、レジ前でぼーっとしている人がレジ打ちで自分を販売担当としてしまっている事を知った別のパートは、正社員にこの現実を知って適切な改善をしてもらうべく話をした。そうするとその答えが、「まぁまぁ大人になろうよ」と言われたというのだ。仕組みがおかしいといっているにもかかわらず、「大人になろうよ」はないだろう。パートの女は怒っているぞ。