18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

いじめがつづく学校 ~なによりも自分を優先するべし~

2008-04-29 00:11:33 | 
 以前、兵庫県の有名な高校で、イジメを苦にした自殺があったが、くだんの高校ではまだイジメが続いているのだそうだ。

 イジメ対処ができない学校は自浄作用がない。何の自浄かといえば、先生達の自浄だ。

 先生達のことなかれ主義。見てみない主義に若い命が摘まれて行く。先生ごとき存在に子ども達のやる気や命、才能が摘まれていってしまっている。なんと勿体ないことだ。

 

 イジメでその学校をやめたりした人の中には、サッカーの才能に恵まれた人もいたという。勿体ない話だ。




 イジメをするような卑怯なヤツらに負けるというのも腹立たしい。学校はやめても構わないが、才能を伸ばすことはやめてはならないと思う。




 
 また、何かのきっかけでぐれてしまって学校へ行かなくなった人も同じく、まだ芽が出ていない才能があるかもしれない自分の可能性を自ら摘むことはない。なんだかんだと食べてゆける時代に生まれたのだから、自らの可能性に鍵をかけてしまうことなく可能性を見つけて、「明日」に向かって一歩を踏み出して欲しい。




 学校はすべてではない。いつからでも学校は行き直すことができる。順序がすこしぐらい違っても構わない。だから、自分の才能や可能性を伸ばすことを最優先で考えるべきだ。



 「イジメに負けるな」はイジメている奴らに向けて言う言葉。「イジメをすることしか、自分を保てない」なんてイジメに負けている証拠。イジメをやるやつこそが、イジメに負けているのだ。

 イジメに負けないというのは、イジメに対抗することでも、イジメに向かっていくことでもなくて。イジメごときで、自分の夢をあきらめるなということだ。



 学校は自浄作用がないところだと覚悟するべし。先生はあてにならない物だと考えるべし。自力でなんとかするべし。


 また親も学校や先生なんてそういうものだと思って子どもからのサインを見落とさないように最大限の応援をすべきだ。「イジメなんか無視しろ」なんていうのは無責任な発言だ。子どもには、「どんなことがあっても、学校をやめても、お前の味方だ、応援するから夢を叶えろ。」と言うべきだ。



 キレイごとはいらない。駄目な学校へは行くな。ダメな教師はあてにするな。自分の人生を最優先にしろ。4月早々のこの時期だからこそ書く。



 親も子も、自分の人生を大切にする為の会話の1つでもしたほうがいい。せっかくのゴールデンウィークなのだから、出かけるばかりじゃなくて、父と子、母と子の間でゆっくり会話するいいチャンスだと思って、しっかりと会話しよう。

 
 

 あなたの才能を摘むようなところは、もはや「学校」ではない。あなたのことを応援してくれるのでなければ、それは先生でもなんでもない。尊敬する必要はない。




 だから「親」は子どもの味方にならなければならない。それが親としてやるべきことだ。





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Gacktやったね!

2008-04-24 06:54:30 | ニュース
 以前に、Gacktの事をこの日記で書いたが、あの迫力と美貌でハリウッド進出!というのはすごい。

 最近は、アニメの実写版が話題になっているので、そのうち実写版の「地球(テラ)へ・・・」でもやってくれないだろうか?

 もちろん、Gacktにはキース・アニアンをやってもらう。

 



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自己欺瞞 ~光市事件の弁護団~

2008-04-23 01:10:12 | ニュース
 光市の事件の判決が広島高等裁判所であったが、弁護団が即時上告したそうだ。


 被告には裁判を受ける権利はある。でも弁護団は自分たちの仕事のために仕事をしてはいけない。


 なぜ弁護をしなければならないのか?

 それは権利だからか?

 そういうことが仕事だからか?

 弁護の主人公はだれだ?

 弁護士か?

 いやそうではないだろう。

 弁護団が自らのことを「意見が割れても、一つの方向に行った。こういう弁護団であることを誇りに思う」と言ったそうだが、何言ってるんだこいつ?


 20人以上の弁護士がつくってどういうことだろうか?弁護士っていったい何者だ?



 刑事裁判でいつも思うのは、「弁護士」達の発言だ。北九州の飲酒事故にせよ今回の事件にせよ、犯罪を犯した容疑者あるいは犯人と被害者あるいは被害者家族が本当は事件の第一者であり第二者である。

 
 それを「法律」に基づいて処罰するかどうかの為に「検事」と「弁護士」と「裁判所」が存在する。つまり、「事件という事実」があって、その事実が真実なのかどうかという点の評価と、その事実の背景となった環境やいきさつがどうだったのかという点の評価には言及することはあったとしても、それを夢物語のようにしてまで作りあげて弁護することは弁護士の仕事ではない。また検事が事実を裏付ける証拠をそろえる必要があるのと同じように、弁護士も証拠が必要なのは、そういう「作りあげ」を避けるためでもある。



 この「作りあげ」のことを「ねつ造」というが、それは検事も弁護士もやってはならない。


 

 ところで、判決に関係なく、この被告はどのように罪を償うつもりでいるのだろうか?自らの犯した罪は、自分がどんな精神状態だったかに関係なく、事実として残る。それをどう捉えているのだろうか? たくさんの言い訳をして、それを認めてもらえたとして、それはいったい何のためなのだろうか?弁護団はそれでどうしたいのだろうか?いったい弁護団は何を勝ち取ろうとしているのだろうか?弁護団は誰のために控訴したんだろうか?弁護団の自己満足の為にやっているのだとしたら、この弁護団こそ恐ろしい存在だ。

 

 最近の弁護士や弁護団をみていると、自己欺瞞という言葉が頭をかすめる。

 
 



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狭い視野

2008-04-23 00:34:59 | 心と体
 人は年齢を重ねて行けば、どうしても、自分のやり方に固執する傾向がある。

 これは当たり前だし、必ずしも悪いとは言えない。しかし、時にはそのせいで視野が狭くなることもあり、大切な助言やアドバイスを聞き逃すこともある。


 人のアドバイスを「あ~分ってる、分ってる」と言ってしまうことがある人は要注意である。

 その結果迷惑がかかるのは、本人よりも「周囲」であることが多い。



 
 経験を重ねても、当事者であるとどうしても見える部分が狭くなる。常に全体が見える人というのは限られている。経験を重ねたひとよりも、経験はあまり無くても、第三者であればよく見える事が多い。


 つまり、それだけ周囲のほうが「ハラハラ」させられているのである。


 そしてうまく行かないと「ほらね、やっぱり」となる。


 確信犯的に「ハラハラ」させていれば別だが、そういうケースはまれだし、そんなことなかなか分ってもらえるモノではない。



 結局、周囲も一緒になって「うまくいかなかった」事への対応に追われ、このように周囲がフォローすることになる。







 でも、よくよく考えてみれば、これは若い人が失敗して、上司や先輩、周囲がフォローするのとなんら違わない。


 つまり、仕事の失敗のフォローには、先輩・後輩は関係ないし、上司も部下も関係無い。失敗するときはするし、うまく行くときはうまく行くものだ。


 だから、上司は部下の、先輩は後輩の、「あ~見えてないなぁ、このままだとだめだろうなぁ。」と思ったときには、自分にも当てはまることがないか、再確認したほうがいい。



 狭い視野とは、「自分は大丈夫」だけど「部下や後輩は心配」といった形で物事を見ることでもある。


 広い視野とは、「自分の事も心配」で「部下や後輩にも気づいたら言ってくれ」というものの見方であるとも言える。



 広い視野を持てば、他の人からのアドバイスも素直に聞けるし、耳を傾ける価値があるというふうに自然に認識できるようになる。




 このように狭い視野というのは実にもったいない。時には広く意見を聞いてみるのはどうだろうか?



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グランドプリンスホテル新高輪 ホテルは何を守ったのか?

2008-04-15 21:22:48 | ニュース
 未だにこの話題がつづいていたのに愕きながら、しかしホテル側の今回の態度は100点満点で120点、いや150点かもしれない。

 マスコミはこの手の事件には、「集会の保証」だの「言論の自由」だのと声高に叫ぶが、いざ映画「YASUKUNI」が上映禁止になったことについては、いきなりトーンが落ちる。


 あ~あマスコミって結局「発言弱者」イジメをするんだなぁと感じた。


 
 犯罪“被害者”を追いかけ回したり、おそらくマスコミに対して怒ったりしないだろうという前提で“ハニカミ王子”だの“ハンカチ王子”だのと適当に名前をつけて四六時中追いかけ回すことが“使命”だと勘違いしている。


 これらすべて“発言弱者”だ。


 そしてちょっとでもマスコミに不満を漏らすなら、いきなり“生意気”だのいろいろとかき立てる。



 マスコミはもちろんそういうこと、つまり、“追いかけっこ”であることぐらい分っているのだが、いざ社会性を帯びた事件が出ると、とたんに情けなくなる。





 ホテル側は立派です。もちろん司法の判断ということも想定しただろう。もしかしたら“逮捕”の覚悟もあったかも知れない。世間から非難も受けるかもしれないことを覚悟していたのは当然だろう。“迂闊にも”予約を受けてしまったホテルとしては、どういう形でケリを付けるか考えただろう。

 日教組とホテルの間で“丸くおさめる”ことも出来た筈。しかし、そうしなかった。自らが非難を受ける、制裁を受ける、罰を受けるかもしれない選択を敢えて行った。





 つまり、“自ら血を流して、ホテルサービスというもの”を守った。“ホテルの誇り”を守った。





 いま、どこにそういう“決断“が出来る人がいるだろうか?言葉だけの顧客第一はあちこちで聞くが、本当の顧客第一をみせることが出来るホテルは少ない筈。


 日教組も顧客だろう、しかし、別の顧客、周辺住民その他の人達に迷惑をかけてまで守らなければならない顧客ではないことは明らかだ。


 本当の意味での“大人”の態度をこのホテルに見た。





 日教組もいい加減に“大人”になれ! 訴えるだの損害賠償を求めるだのとやるのは勝手だが、大人じゃない日教組が浮き彫りになるだけだ。

 こういう人達が学校の先生なのかと思うとちょっと考えさせられる。





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