農楽通信(農を楽しむ現場報告)

農を楽しみながら自然と歴史を深めます。■米つくり 天日干し れんげ朝日米■畑つくり 好物づくしの野菜と果実

2024年10月17-18日:伊藤若冲をたずねて

2024年10月19日 | 知楽通信
 17日には、石峰寺と五百羅漢、そして18日に嵐山の福田美術館の伊藤若冲展に行ってきました。
 若冲展をしています。
 かみさんの関心で同行したのですが、
五百羅漢の素朴な石仏、時代は異なりますが文英石仏との共通点も感じて、興味をそそられました。
 写真はその一部でパンフレットを撮影しました。撮影禁止場所なので。
 地蔵菩薩と子供の石仏のようです。
 その他多くの石仏がありました。表情も多彩で写真を撮りたかったのですが残念です。
 忘れていましたが石峰寺近くには若冲の墓もありました。


 渡月橋近くの福田美術館です。
 絵にはあまり関心はないのですが伊藤若冲の絵には動きが感じられ魅了されました。
 ここは珍しく撮影自由のようです。
 これが本来の展示の仕方のような気もします。

 館内のカフェから見た渡月橋です。
 とにかく、観光客多いです。特に外人が。



2024年10月18日:広隆寺に行ってきました。

2024年10月18日 | 知楽通信
 秦氏関係で広隆寺に行ってきました。

 霊宝殿の弥勒菩薩半跏思惟像を見ました。教科書通りの姿に納得しました。

 ただ、色合いが写真の方が良いように感じました。

 霊宝殿には十二神将像をはじめ多くの仏像が安置されていることに驚きました。

 また、秦河勝夫妻の像もあります。



 2024年10月19日追加

 興味の尽きない上宮王院太子殿の本尊である聖徳太子の33歳の時の像は指定があるのか不明です。




2024年10月17日:伏見稲荷へ行きました。

2024年10月17日 | 知楽通信
 秦氏について調べています。
 関連の深い伏見稲荷に行ってきました。
 多くの外人参拝者に驚きました。
 又10月なのに汗をかくほど暑い日になりました。
 収穫はなく、人混みで疲れました。
 次は広隆寺を計画しています。




2024年10月3日:最上稲荷は「神社」か「お寺」か。(神仏分離の廃仏をどのようにしのいだか!)

2024年10月03日 | 知楽通信

最上稲荷のホームページを参照すると、

「最上稲荷は、正式名称を「最上稲荷山妙教寺」という日蓮宗寺院ですが、明治の神仏分離令の際、特別に「神仏習合」の祭祀形態が許された、仏教の流れを汲む貴重な稲荷として知られています。」(2024年10月3日現在)

とあります。

 これより、表題の「神社」か「お寺」かという問いの回答は「お寺」になります。

三代稲荷の豊川稲荷は「圓福山妙嚴寺」というお寺です。また、伏見稲荷は「伏見稲荷大社」という「神社」です。

これらの三代稲荷も明治維新の神仏分離政策により、それまでの神仏習合から神社かお寺かの選択を迫られたようです。


「高松歴史を楽しむ会」の資料を整理中に興味深い原稿(作者不明、「おかやま百年より抜粋」)を見つけました。

原稿は、後半に添付していますので、ご確認ください。


特に関心を呼ぶところを記します。

当時は、「正一位稲荷大明神」(注)別項を考察中 をまつっていた。

住職、前住職、院代の三人が頭を悩ませ、思いついたのが、「普賢菩薩は白像に、文殊菩薩は獅子に象徴されている」、

妙教寺として、法華経(経王)の象徴として稲荷の白狐を使ったら・・・

そこで、「正一位稲荷大明神(神)」を「最上位経王大菩薩(仏)」とし、神社に関わるものを取り払ったり隠したりした。

「お寺」を主張したわけである。その後も数度、神道を疑われ視察されたが「妙教寺」寺院排斥を免れることができた。


「正一位稲荷大明神」については、「最上稲荷の参道と門前町(加原耕作)」によると、天保十二年(1841)頃の最上稲荷は

「高松稲荷大明神」と呼ばれていたようです。

また、「特別に「神仏習合」の祭祀形態が許された」のではなく、大菩薩を祀るお寺として切り抜けたと考えられます。













2024年9月29日:吉備津神社の正面参道の右の柱の読めない漢字がわかりました。

2024年09月29日 | 知楽通信





2024年8月22日:YouTube動画再生回数が3000を超えました。

2024年09月04日 | 知楽通信
 細やかな数字ですが私の動画では最大数になります。
 「備中神楽 吉備津」で検索するとトップで表示されます。
 この動画には類似の動画にはない「台詞」が不十分ですが表示されます。
 セリフがわかると理解がより深まります。
 温羅伝説として庶民に知られているのも、元は「鬼ノ城縁起」になります。
 やはり縁起より神楽の方が浸透し易いのでしょう。





2024年7月5日:削除しました。

2024年07月05日 | 知楽通信

 削除要請がありましたので削除いたしました。



2024年6月12日:大避神社に行ってきました。

2024年06月12日 | 知楽通信
 お伝えしたいことがあり過ぎて、今回はほんの経緯だけにします。
 後日纏まればいいのですが難題です。
 きっかけは後期古墳、特に横穴式古墳の再訪からでした。
 そこで渡来人との関係が知りたくて、備中といえばやはり秦氏になります。
 とっかかりは「秦氏の謎(関裕二)」から、その中の「翁と河勝(梅原猛)」で、さらに秦氏について知ることになりました。
 梅原猛は日本史嫌いの若い頃出あった「隠された十字架」で歴史への関心を刺激されていました。
 その奇遇に驚きながら両書を何度も読んでいました。
 さて最近は温泉巡りもしていまして、カミさんの提案で赤穂に行こうとして、そこで秦河勝に縁のある赤穂市坂越に寄ることになりました。
 そこにあるのが大避神社でした。
 長くなりそうなので、梅原猛との関連の写真だけを紹介します。


 坂越では親切に説明していただき、大変喜んでいます。
 その他お伝えしたいことが多くありますが別の機会が持てればと思います。



2024年6月1日:気になる「道満塚」について???!

2024年06月01日 | 知楽通信

「後期古墳を歩く」で紹介した「道満塚古墳(岡山県総社市)」の「道滿」について興味深い書籍を見つけました。「道滿」といえば「蘆屋道満(平安中期の僧、陰陽師)」が有名ですが、

「秦道滿」は白比丘尼の父親と言い伝えられているようです。


「伏見稲荷の暗号 秦氏の謎」(関裕二著)からの一部の抜粋ですが、

『若狭出身の白比丘尼は、八百歳を保ったという伝説の白拍子だ。

白拍子とは、平安時代末期から室町時代にかけて活躍した、漂泊する遊女だ。

宴で舞い、一夜の契りを結ぶ。そして、問題は、白比丘尼の父親が秦道滿だったと

言い伝えられていることだ。

真偽のほどは定かではないし、白比丘尼という名の女人が実在したのかどうかも定かではない。

ただここでも秦氏が芸能と繋がっていたことがわかる。・・・・』


 少し長くなりましたが、道満塚古墳に「道滿」家の墓が多いことが気になっていました。

また、この付近の地名は西郡(にしごおり)で、錦織(にしこり)、錦織(にしきおり)にも

繋がり、秦氏の養蚕・機織業に因む地名であることも興味深いものがあります。


2024年5月10日:もう一つの温羅伝説 備中神楽(吉備津)もお楽しみください。

2024年05月10日 | 知楽通信
 数少ないYouTubeへの動画登録ですが、最近、「備中神楽(吉備津)」の再生回数が少しずつ伸びています。
 50分以上の動画ですが、他の動画との違いは台詞があることです。
 多分、そのことに気づかれた方の視聴が増えたのではないかと自負しています。
 台詞の原典と不完全ですがその台詞から、温羅伝説をさらに楽しむことができます。

 ホームページを以下に、
 URL

 YouTubeを以下に、
 

 2022年3月18日にサンロード吉備路で「総社観光大学」の一つの講座として実演された「影社」の備中神楽(吉備津)のフルバージョンです。不完全ですが、テロップを入れてみました。