館内のカフェから見た渡月橋です。
館内のカフェから見た渡月橋です。
霊宝殿の弥勒菩薩半跏思惟像を見ました。教科書通りの姿に納得しました。
ただ、色合いが写真の方が良いように感じました。
霊宝殿には十二神将像をはじめ多くの仏像が安置されていることに驚きました。
また、秦河勝夫妻の像もあります。
興味の尽きない上宮王院太子殿の本尊である聖徳太子の33歳の時の像は指定があるのか不明です。
最上稲荷のホームページを参照すると、
「最上稲荷は、正式名称を「最上稲荷山妙教寺」という日蓮宗寺院ですが、明治の神仏分離令の際、特別に「神仏習合」の祭祀形態が許された、仏教の流れを汲む貴重な稲荷として知られています。」(2024年10月3日現在)
とあります。
これより、表題の「神社」か「お寺」かという問いの回答は「お寺」になります。
三代稲荷の豊川稲荷は「圓福山妙嚴寺」というお寺です。また、伏見稲荷は「伏見稲荷大社」という「神社」です。
これらの三代稲荷も明治維新の神仏分離政策により、それまでの神仏習合から神社かお寺かの選択を迫られたようです。
「高松歴史を楽しむ会」の資料を整理中に興味深い原稿(作者不明、「おかやま百年より抜粋」)を見つけました。
原稿は、後半に添付していますので、ご確認ください。
特に関心を呼ぶところを記します。
当時は、「正一位稲荷大明神」(注)別項を考察中 をまつっていた。
住職、前住職、院代の三人が頭を悩ませ、思いついたのが、「普賢菩薩は白像に、文殊菩薩は獅子に象徴されている」、
妙教寺として、法華経(経王)の象徴として稲荷の白狐を使ったら・・・
そこで、「正一位稲荷大明神(神)」を「最上位経王大菩薩(仏)」とし、神社に関わるものを取り払ったり隠したりした。
「お寺」を主張したわけである。その後も数度、神道を疑われ視察されたが「妙教寺」寺院排斥を免れることができた。
「正一位稲荷大明神」については、「最上稲荷の参道と門前町(加原耕作)」によると、天保十二年(1841)頃の最上稲荷は
「高松稲荷大明神」と呼ばれていたようです。
また、「特別に「神仏習合」の祭祀形態が許された」のではなく、大菩薩を祀るお寺として切り抜けたと考えられます。
坂越では親切に説明していただき、大変喜んでいます。
「後期古墳を歩く」で紹介した「道満塚古墳(岡山県総社市)」の「道滿」について興味深い書籍を見つけました。「道滿」といえば「蘆屋道満(平安中期の僧、陰陽師)」が有名ですが、
「秦道滿」は白比丘尼の父親と言い伝えられているようです。
「伏見稲荷の暗号 秦氏の謎」(関裕二著)からの一部の抜粋ですが、
『若狭出身の白比丘尼は、八百歳を保ったという伝説の白拍子だ。
白拍子とは、平安時代末期から室町時代にかけて活躍した、漂泊する遊女だ。
宴で舞い、一夜の契りを結ぶ。そして、問題は、白比丘尼の父親が秦道滿だったと
言い伝えられていることだ。
真偽のほどは定かではないし、白比丘尼という名の女人が実在したのかどうかも定かではない。
ただここでも秦氏が芸能と繋がっていたことがわかる。・・・・』
少し長くなりましたが、道満塚古墳に「道滿」家の墓が多いことが気になっていました。
また、この付近の地名は西郡(にしごおり)で、錦織(にしこり)、錦織(にしきおり)にも
繋がり、秦氏の養蚕・機織業に因む地名であることも興味深いものがあります。