嘉永2(1849)年に十二ヶ郷と奥坂村で争論となった「名越悪水抜事件」は流出する砂が原因であった。
十二ヶ郷村々は砂川(天井川)や桜川から流入する砂に難渋していたのである。
明治当初(1868)は対岸の人と対話できたり、鯉のぼりも見えていた砂川の堤もだんだん高くなっていった。
(注、昭和28年発行の「阿曽村」より)
木の生育に悪条件の花崗岩層に加え、たたら・鋳物や生活の変化で増加する木炭、材木需要のため山々はさらに禿山となっていたためであろう。
明治20年(1880年代)頃に治水治山を行った人物が「宇野円三郎」である。
その功績に感謝する記念碑がこの「井風呂谷川砂防公園」にある。
十二ヶ郷村々は砂川(天井川)や桜川から流入する砂に難渋していたのである。
明治当初(1868)は対岸の人と対話できたり、鯉のぼりも見えていた砂川の堤もだんだん高くなっていった。
(注、昭和28年発行の「阿曽村」より)
木の生育に悪条件の花崗岩層に加え、たたら・鋳物や生活の変化で増加する木炭、材木需要のため山々はさらに禿山となっていたためであろう。
明治20年(1880年代)頃に治水治山を行った人物が「宇野円三郎」である。
その功績に感謝する記念碑がこの「井風呂谷川砂防公園」にある。