2006シリーズのコトー先生は、
とりわけその最終回を締めくくるラスト30分での、
島を往診するそのお姿ときたら、それはそれは
大層美くしゅうございますので、吉岡君、
ごっつぁんです!
吉岡君の出演作には必ず1つや2つの、
「おぉっ、シャバダバダッ!」、
巷で言うところの「ぉバッ!ポイント」、
というものがあるでございますが、
上記の「コトー先生往診する」の場面は、
もうなんというか冷静にいうと、
「ォババババババババビバノンノンッ!」
でありまして、更に例えて書けば、
ベルマーク3万枚。
みたいな感じでごぜいやす。
ついでにラストソングの稲葉一矢くんでも
このポイント例を挙げると、
秋の俳句 その1
朝霧に 佇む君は 硝子の詩篇
とか、
秋の俳句 その2
シュウちゃんに 羽交い絞めだよ はらりんぱ~
とか、
秋の俳句 その928
なんたって ギター弾いてる 弾いてるぜーっ!
とかですね、
羅列しだしたら書ききれないので、
それはそれは諸々テクマクマヤコンえとせとら~んで、
ヤンバラヤンヤンヤン。
しかもこのポイントくんたちは普段、
ほんげぇ~としている時などにいきなり
吉岡ですッ!
と脳裏に出現してくる突然突発現象であり、
うっかりしていると、
その突然脳内吉岡くん映像によって我が顔は、
「へら
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/heart.gif)
と恥らい微笑むなまはげの如きなフェイスに変貌してしまい、
よって家族のものを恐怖のどん底に突き落としかねないので
要注意なのでありますが、しかしだってぇ~まったくぅ~
吉岡くんなんだからしょうがないのよ、ええじゃないかい、
素晴らしいったらあ~りゃしないのよ~、吉岡君ったら宝の山だわ、
巡る巡るよわ~んだほ~吉岡くんったらわ~んだほ~、って
ラブラブ走馬灯ですかい?
と一人ツッコミまで披露しておまけにそこら辺を
スキップらんらん♪とかまでしちゃったりするので
重症かもしれない。
でもいいのだ。
だって秋だしねーっ。
ということで文頭に戻って、
コトー先生のことでございます。
ついつい当たり前のことのように見てしまうのですが、
よく考えると、いやもしかしたらもしかせずによく考えなくとも、
コトー先生って奇跡の人に近いと思うですだ。
普段はまるで濃縮還元ヘタレ100%愛媛みかんジュース、
みたいな人なのに、いざ病人を目の前にすると
ブラックジャックばりの敏腕外科医に
スーパーチェンジするその大魔神のような変貌振り。
キリっとキリキリッ!と上京オペした後に、
全身脱力してますので魂は蒸発寸前なのだよ憂愁の君。
となってしまうその豹変ぶりなどはまさに前代未聞の
陽炎消之助くんでございますだ。
こんな様子を文面だけ読むとですね、まるで五島君は、
「トランスフォーマーですかい?」
と捉われがちになってしまうのですが、しか~し、
そう安々と劇画チックに流してしまわないのが、
吉岡くんですだば。
名優じゃけんのぉ~。
んふ。
んっふっふ~。
ふふふふふぅわぁ~はっっはっはー!
また来週―!
なんて書いている場合じゃないのだったわよ。
元い。
2004の時も感じたことなのですが、
2006では殊更に、コトー先生は
半透明っぽい。
なんつーか、全体的に、その在り方が、
どこかひっそりと人知れず、
天に吸い込まれている。
みたいな雰囲気がそこはかとなくするですばい。
診療所の屋上へと一人で階段を登っていく姿を見るたびに、
もしかしたら五島くんの本当の居場所は、
切ないくらい澄みきったあの空に近いところにあるのではないだろうか?
なんて思ってしまってこっちも切なくなってしまうのどすえ。。。
ぶひっ。(←泣いているらしい。秋なので。)
んが、こんな儚き君な印象を全体的に与える人である一方、
しかしコトー先生の心はしっかりと島民の一人一人と繋がっているですだ。
ここでぃす。
ここなのでぃす。
こりが吉岡味じゃでたまらんっす~シャバダバダ~。
と、私なんぞは思うわけであり。
透明なのに、その存在感には厚みがあり、
とても儚そうなのに、えらく侠気がある。
この対極を成す要素が吉岡君の生み出す感情作用によって
無理なくコトー先生の核へと符合されているのだと思うわけで、
まったくこれだから吉岡君ったら・・・フッ。
たまらんぜよ。
コトー先生の医者としての腕は、超人ハルク並ですだば。
そしてコトー先生の人柄も、ナイチンゲール級なのだと思われ。
でも五島くん自身は、超人でも聖人でもないわけで、
あくまでも人間でありますだ。
決して既成の鋳型へとその人物像を流し込まない吉岡君。
わ~んだほ~なのだべり~まっち。
人間であるということを演じることは、もしかしたら
超人や聖人を演じることより断然難しいことであるのかも
しれないですねぃ。
人間だから排斥できない様々な自感情が
その内面に渦巻いているわけで、人間だから、
人間としての我意に葛藤し、しかしそれを
決してないがしろにせずに内包し咀嚼しながら、しかし
対する人へと解放する感情は芯から真っ白であり続ける五島くん。
苦悩、懊悩しながらも、すっと遥かに透き通り、
透き通りながらも島民一人一人の心の中にその存在をしっかりと
宿らさせてしまえる五島くんはやはり、
奇跡な人なのだと思うわけであり、
そうした人物を生み出す吉岡くんという人は、そうだわ、
そうよねそうなのだからそうなのよーっ、
奇跡なのだ。
極上やで、吉岡く~ん。
吉岡君は「宿る」ことのできる役者さんなのかも
しれないですたいね。
演じるその人物に宿る。
その作品に宿る。
その作品を観る人の心に宿る。
ハッ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_sup.gif)
北の宿からの法則なのか?
あなた変わりはないですか?
日ごと寒さがつのるのよ~吉岡く~ん
元気ですかーっ?! って、いやちょっと待てよ、
吉岡君は南の宿もどんどこいなのだ。とすると彼は、
「ニッポン全国ずずずい~っとどんとこい」、略して
ポンず君だったのねーっ。
どうりで素材に味を効かせる人だと思ったのだ。
まいったねぇ~。惚れるじゃねぃですかい、吉岡く~ん、
んきゃ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/heartss_pink.gif)
もちろんコトー先生に限っていうことではないけれど、
吉岡くんの演じる人物には、
そこに徹底したその人個人の体温が宿っているですね。
だからどの角度から切り込んでいっても、
その人物の核は絶対に揺るがないのだと思うし、
その礎が観客に安心感を与え、そしてその安心感が
彼の安定した演技力と相俟ってストーリー全体を
ひっぱっていくのだと思うです。
映画やドラマは観る人一人一人のものであり、
その意味意義は多様性に富んでいるものだから、
そこに役者さんがやたら滅法に色を塗りたくって
「見たれぃ。」と高みから押し付けるのでは、
それは確かにインパクトにかけては効果大やね、
とはなるかもしれないけれど、しかしそこには
観客と同じ目線で見渡す地平線はないと思うし、
そうなると結局、その作品はやがて記憶の中へと埋没していく
「過去の産物の一つ」へと化していってしまうのだと思うです。
吉岡君は、観客と同じ呼吸音で「そこ」にいてくれるですだ。
人は生きている限り呼吸をしていく生き物であるわけで。
彼の演じる人物には普遍性が宿っており、
それは微かに振動している共鳴波であり、押し付けず、
呼吸する空間を与えてくれるその器の部分に、
観客は感知し、響応し、安心しながら各々の気持ちを委ねられ、
そうした相乗作用によって、その作品は
高みに上がっていくのだと思うでぃす。
観る者を裏切らない役者さんとは、
こういう人のことをいうのだと思うし、
それが真の主役、即ち真のストーリーテラー
なのだと思うでありますです。
これが真の牽引者というものなのだわ。
頼もしいじゃねぇですかい、吉岡くんってばよぉ~、
はぁ~もうほんとに・・・・・
べらぼうにかっちょええぜぃっ!!!
って話が横に逸れてしまったですばい。
吉岡君の生み出す人物からは、
両端から中心へと向かって放散していく
エネルギーみたいなものがあると思うとです。
それが一番顕著に現れていると思ったのが、
話題があっちゃこっちゃ飛んで申し訳ないのですが、
「続・三」での、茶川さんが酔っ払って
自宅に帰ってきてからの一連の演技でぃした。
あれは崩壊ギリギリの限界感と、そこを掠めていく
緩んでほぐれてしまいたい気持ちのその対感情が、
それぞれの感情の両端から、茶川さんの核の中心へと
ぐぐ~っと引き寄せられてやがて孤独へと終局していく様が
も~う観ていて痛いほどひりひりりんと伝わってきて、
えらく切なかったとです。
でも切ないけどちびっと笑えてしまえるわけで、
笑えちゃうけど、胸がしめつけられるわけで、
切なさと滑稽さの重さと軽みが絶妙な兼合いでもって
脈打っているのでございますので、おぉっ、
これぞ吉岡っ!!!
と心底思ったです。
くはぁ。
唸らせるね~吉岡く~ん。ちょっと言っていい?
好き。 (←控えめに言っているらしい。)
両極に対峙する複雑な感情を、
自然の成り行きの一つとして表現できる吉岡君は、
いやそれはもう「表現」という枠などからはとっくに
逸脱しているものなのかもしれないですねぃ。
一つの吐息も、一つの眼差しも、
それらは確かに彼の体の中に流れる血に宿っている
一つの真心なのかもしれないですだばぁ。
なんてなまとまりのない想いを巡らせていた
今日この頃の私でありまする。
秋だわ。
コトー先生には凄く格好いい部分と、情けなく頼りない部分があり、それは本当に両極なんだけど、どちらもコトー先生らしいんですよね。
天才的な腕をもっていても、現実離れしてなくて、本当にそこに生きている人のように思えてしまう。
格好いい人を演じたり、情けない人を演じたりすることはできても、一つの役で、両極を表現するのはとても難しいことだと思うんです。
でもそれを表現できる吉岡くんは、役のイメージを演じるのではなく、人の生き様を伝えているんですね。だからこそ私たちは、その生き様に感動し、涙し、時にその滑稽さに笑うんですよね。
そして私たちは、吉岡くんの真心を受け取っているんですね。
2006のシリーズが始まったのは勿論嬉しかったけど、
でもあのエンディングの自転車を漕ぐ後姿が変わらず使われていたのが
すっごく嬉しくって感動でぃした~。
コトー先生が自転車を漕ぐ姿を見るだけで、なんか、
「あぁ~、コトー先生ってこうなんだよな~。」
って思うです。 それは“どうだからこうでそうなのだ。”
っていう具体的な言葉の解説が必要な感情でなはくて、
とにかく「こうなんだよな~。」っていう広がりをもった感情と一緒に
自分の心もあるべき場所にす~っと還っていくっていう感覚がするです。
吉岡君の演じる人物たちには、
陽だまりがありますよね~。
悲しいことが多くても、つらいことがあっても
でもやはりその人物に寄り添っていきたいっていう
温もりのスペースがあるっていうか・・・。
それは同じ「人」として共感する温もりですよね。
吉岡君は、「全体の流れの一つ」としての台詞、表情を
その場面場面にのせることができる役者さんだと思うです。
生きていくということは、他人との関わりによって形成されているものでぃすよね。
人は日々の生活の中でどう人と関わっているのか、どう人と繋がっているのか
それは実際にその中に生きてみないと掘り下げられない要素だと思うです。
吉岡君の演技は、人との繋がりを大切に生きているからこそ生まれてくる
彼の温もりだと思うですばい。
こんにちは~お久し振りです
風子チャンの吉岡秀隆ラブレビューを読ませて頂いていると、感動して私も頑張らなきゃって思って来ますよ~
ソウソウ、吉岡さんは空のかなたにお住まいがあると思ってきますよね
そして、彼の魅力は小泉監督さんのお言葉を借りるなら、演じるキャラクターに全く寄り添って完璧、そのキャラクターを表現する吉岡秀隆さんは、人間を演じることが出来る稀有な俳優と言えるのではないだろうか~
「警官の血」製作発表で、鶴橋監督さんが、吉岡秀隆さんは僕にとって大切な天才と仰ったのも、そんな吉岡秀隆さんだからこそのお褒め言葉だと思われ~~
アハン^^
優駿で初顔合わせとなった佐々部監督さんには、僕は吉岡君のファンですからと告白された吉岡君!!
彼を有能な俳優と思っておられる監督人は多いゆえに、山崎監督に茶川さんは吉岡君に!
と白羽の矢が刺さったのでして~。
コトー先生の両極端さの演技も彼オンリーですし、茶川さんのも然りですね。
語っていると限がないのでこの辺で。
ちょっと、風子チャンのレビューとずれちゃったけれど、吉岡ラブラブコメントでっすv
さて、最近pikomamaから、pikonokoへ孵化した私。今後とも宜しくお願いします
改めまして、こんにちは!
吉岡君、ほんとに沢山の監督さんたちから
愛され、信頼されてますよねぇ。
「絶対的に頼れる人」なのでしょうね、吉岡君って。
悩み、葛藤しながらも核心へと
突き進んでいける人なのかもしれないですよね。
それが吉岡君の役に対する真心なのだと思うですたい。
核心をきちんと見つめ、掘り下げ、掴み出すって、
とても難しいことですよね。辛いし、いやんなっちゃうなぁ~もーっ!
って逃げたしたくなっちゃうと思うのですが、しかし吉岡君という人は、
それが出来るですだ。 いや、それをしてしまう、というか、
それをせずにはいられない人なのかもしれないですだのぉ~。。。
勇気の人ですだば。
はぁ~も~っ、男だじぇ~、吉岡ー!!!
たまらんですばい。 くはぁっ
って、また突っ走ってしまいました~。
こんな私でぃすが、pikonokoさん、
こちらこそこれからも宜しくお願いいたします。
そだ、今日、日本に発ちますで~す。