月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

吉岡刑事物語 その11

2008年11月27日 | もしものコーナー 吉岡刑事物語


息苦しさで意識が戻った。
気付くと周りは一面の暗闇で、
不気味なほどに静まり返っていた。
自分の置かれた状況が、
吉岡にはすぐに理解できなかった。

何が起こったんだろう?
自分は今どこにいるんだ?

記憶は壊れたビデオテープのように、
切れ切れな映像を再生するだけで
全く要領を得ない。
それより呼吸が苦しかった。
体全体が四方から圧迫されて息が上手く吸えない。
しかしその惨めな状況が、
吉岡の意識を無慈悲に現実へと引き戻した。

そうだ、
雪崩にやられたんだ。

マチャトンくんは?!

咄嗟にマチャトンの安否のことが脳裏をよぎった。

彼は無事なのか?

吉岡はマチャトンの名前を呼ぼうとしたが、
しかし思うように声が出せない。
体を動かそうにも、そこに寝袋がピッタリと
糊をつけたように張り付いていて、
僅かな隙間の空間に位置した右腕すら
全く動かすことが出来なかった。 
懸命にもがけばもがこうとする分、雪の重みは
じわりじわりと吉岡を圧し潰しにかかってくる。
恐怖が吉岡を襲ってきた。

ここから出なければ。

雪崩に埋もれたら、最初の20分で
その生死の行方は決まってしまう。

早くここから出なくちゃ・・・ 
出ないと・・・
でもどうやって? 
それより、
息が、
息が出来ない。
誰か・・
誰か、
助けて・・・

意識まで暗闇の中に引き込まれそうになったその時、
一気に酸素が吉岡の肺に入ってきた。

マ: 吉岡君っ!!!

頭上に雪の切れ目が開いていた。
マチャトンの顔がその先に見える。

マ: 今助ける! もう少しの辛抱だ!!

マチャトンが必死になって雪を掻き分けてくれたお陰で
吉岡の体に感じていた雪の圧迫感は次第に軽くなっていった。
やがて雪穴を大きくこじ開けたマチャトンは、
中に埋もれていた吉岡を両手で掴んで外に引き出した。
吉岡はその場で何度も大きく息を吸い込み、
乾いた空気が喉につかえてゴホゴホと咳こんだ。

マ: 大丈夫か、吉岡君?!

吉: うん・・。 大丈夫・・。

マ: 危機一髪のところだったよ。ちょうど僕が紅茶を作ろうと
テントの外に雪を取りに行ったときに雪崩が起きたんだ。
僕は上手く流れに乗って泳げたから遭難を逃れたけど、
君はあっという間に埋まってしまって・・・。
ほんとにあっという間だった。。。
小規模の雪崩だったのが不幸中の幸いだったよ。

吉: ありがとう、マチャトンくん。

咳で乱れた呼吸を整えながら吉岡は礼を言った。

吉: 君のお陰で命拾いした。ありがとう。

マ: ・・・よ、よせやい、吉岡君。。。

吉: 本当だよ。もし君がいてくれなかったら、
僕は絶対助かってなかった・・・。

マ: ・・・・。

吉: 本当にありがとう、マチャトン君。

マ: ・・・・。

吉: (ニコ。)

マ: ・・・・。

吉: (ニッコリ。)

マ: ややややいゆえよ~~し~お~~か~くぅ~~~~んっ!!! 
あ、

バタ。

吉: あっ、いきなり倒れちゃってどうしたの、マチャトン君っ?!
一気に疲れが出ちゃったの? 

マ: 違うよ! 助かった喜びを分かち合おうと思って君に両手を広げて
駆け寄ったのに、君が急に立ち上がっちゃったから僕はここにバタって
なっちゃったんだ。こういうシチュエーションの時は普通、
「おぉ~!」とか言って互いの肩を叩き合って抱き合いながら
喜んだりするものなのじゃないのかい? ドラマとか映画だったら絶対そうするよ。
基本だと思うんだよね。だから僕はその基本にのっとってだね、ねぇ、吉岡くん、
聞いてる?

吉: え、何が?

マ: また芳一なのかっ?! 

吉: ごめん。モジモジしながら話をしてるからトイレに行きたいのかな~
と思って。。。 ところで芳一って誰?

マ: ・・・もういいよ・・。それよりそこで何をしてるんだい? 

吉: 埋まったザックを探してるんだ。一刻も早くテントを張らないと、
僕たちまた寒さでやられちゃうから。

マ: ・・・そうだった・・。 僕も手伝うよ。 

しかし彼らのテントは雪崩によって下方に流されてしまっていた。
仕方なく、僅かに二人が座れるような広さの岩棚を見つけ、
そこで一晩ビヴァークすることにした。
壁にピトンを打ち込んで固定し、そこにザイルを回して
自分たちの体を岩棚に固定する。簡単に言えば、
崖に僅かにせり出た平らの場所に座り、壁に張り付きながら、
二人並んで腰をかけている状態だ。
かなり窮屈できつい体勢だが、一晩我慢すればいい。
雪の中から唯一掘り出せたマチャトンのザックの中から
ツェルトを取り出し、それを二人で頭から被って風除けにする。
それが長い長い夜の始まりだった。


身を切るような寒さとともに吉岡は目を覚ました。
いつのまにかうとうとしていたらしい。

どのくらいの間眠っていたんだろう?
1時間か・・、いや、もしかしたら
たったの5分くらいだったかもしれない。

隣を見ると、窮屈そうな格好のまま
微かな寝息をたてているマチャトンがいる。

墨をこぼしたような暗黒の空には星一つなく、
あれほど荒れ狂っていた吹雪は、
いつの間にか姿を消していた。

霧のヴェールを纏った月だけが夜空に浮かび、
仄かにくすんだ青白い光をその周囲に滲ませていた。

静かだった。

とても静かで、
そして恐ろしく寒くて長い、
冷酷な夜だった。

マ: うわぁああっ!!!

突然、さっきまで横で寝ていたマチャトンが叫び声を上げた。

吉: どうしたの、マチャトンくん?!

マ: 今そこにっ、そこに変な生き物が・・

幻覚だ。

吉岡は咄嗟にそう思った。
こういった極限状況で幻覚を見てしまうのは、
山では決して珍しいことじゃない。

吉: 悪い夢を見ていたんだよ。もう大丈夫だから、安心して。

マ: いや、悪い夢なんかじゃない。確かにこの目で・・・、ほらっ、
すぐそこにいるじゃないか、わぁあっ!

まるで暗闇に怯えている子供のようにマチャトンは震えている。

吉: 大丈夫だよ。もう消えちゃったよ。

マチャトンを安心させようと、吉岡も彼と同じ方向に目線を移した。
そこには、

吉: 何してるんですか、ゴリさん?

ゴ: 見てわからんのか、ばかもん。木枯らしに吹かれているんだ。

吉: 人知の理解範囲を超えています。なんで
ミノムシの格好をしているんです? 

ゴ: それじゃ~お前は、俺が
チクワの格好をしてたら納得するというんだな?

吉: そういう問題じゃないんですよ。第一、
一体どこからぶらさがっているんですか? ここは標高
3000m上ですよ?

ゴ: 自分の理解しうることだけがこの世の全てではないだろう?
わかるか、雪見大福三号よ。隣にいるホームランアイスの様態はどうだ?

吉: まず最初の質問の答えですが、はい、それは僕もゴリさんと
同じ意見です。そして次に答える質問ですが、まとめて言いますと、
僕は雪見大福三号ではなく、マチャトンくんもホームランアイスでは
ありませんし、様態は疲労はしていますがさほど悪くはありません。

ゴ: おい、雪見大福一号二号は誰だか聞かなくていいのか?

吉: いいえ、結構です。

ゴ: そうか、なら教えてやるよ。一号は吉岡、二号は秀隆、三号がお前だ。

吉: 全部僕じゃないですか?!

ゴ: 四号はヒデちゃんとなるかもしれないがそれはどうかな。
それにしてもさすがの洞察力だな、吉岡。さてはお前、
さしずめインテリだな? 

吉: そんなんじゃありません。ただ真っ当な受け答えをしただけです。
それより一体ここで何をしているんですか? そんな格好でぶら下がっていたら、
普通の人間だったらとっくに瞬間冷凍されていますよ。

ゴ: そんなに褒めるなよ、照れるじゃないか。いいか、
氷点下で薔薇の花はバリバリに凍ってしまうが、
モービルオイルのゴリは凍らないんだ。金槌がなかったら
バナナで釘を打てよ。おい、寝るなよ、吉岡。

吉: 急に疲れが襲ってきたんです。

ゴ: いいか、吉岡、俺はな、大事な部下を助ける為に、
越冬つばめにも負けないくらいの我慢強さでもって、
ここで木枯らしに吹かれているんだぞ。涙ぐましいだろ?
哀愁の中間管理職なんだよ、俺は。ほら、これを受け取れ。

吉: ゴリさん、これは・・・・?

ゴ: ん? あ、それはバトンだった。
そっちじゃなくてこっちを受け取ってくれ。

吉: ・・・これは?

ゴ: ミトンだ。さっきの雪崩れで失くしちまったんだろう?
ミトンがなかったら凍傷になっちまうだろうが。とっとけ。

吉: ゴリさん・・・これを渡す為にわざわざ・・

ゴ: うむ。それは俺にとっては思い出の手袋なんだ。大事にしろよ。

マ: どんな思い出があるんですか?

ゴ: おわっ、なんだよマチャトン、急に出てくるなよ。
作者が急にお前のことを思い出したみたいな出方じゃないか。

マ: 作者ってなんのことですか?

ゴ: 細かいことは気にするな。とにかく、
これがお前達に渡せる最後の手袋だからな。失くすなよ。

吉: ありがとうございます。大切に預かります。

ゴ: あぁ、そうしてくれ。なんてたってこれはな、俺の母さんが・・・

マ: え、ゴリさんのお母さんが?

ゴ: 母さんが夜なべして。。。。

吉: そんな大事な手袋を・・・

ゴ: 鍋を焦がしちゃったんだ。 寝不足でお肌も荒れちゃったらしい。

マ:: 退場してください、ゴリさん。

ゴ: なんだよ~、俺だけ仲間外れにして~。先生に言いつけるぞー! 
いいかお前ら、これだけははっきりと言っておくがな、
俺の血液型はA型だ。

吉&マ: だからなんだっていうんですかっ?!

ゴ: いちいちハモるなと言っておるだろうが。
由紀さおり&安田祥子 男性バージョンなのかい、お前達?
それよりいいかお前ら、山をなめるなよ。
お腹が痛くなっちゃうからね~。なんせ土はバイキンだらけだしぃ。

吉: そういう意味で山をなめる人なんて誰もいませんよ。
 
ゴ: どうしてそうはっきりと言い切れるんだ、え? いいだろう、
一つ話をしてやる。俺はな、その昔、ラという相棒とコンビを組んでいたんだ。
いい刑事だったよ、ラは。その頃の俺たちは文字通り二人で一人前だった。
出前は二人分とったがな。悪どいホシたちを捕まえる為に、二人で毎日、
昼夜かまわず都内を走り回ってたんだ。そしてある時ラはな・・・ラは・・・
あ、帰る時間だ。さよなら~。

マ: 話の途中で帰らないでください! 気になるじゃないですかっ!!

ゴ: 気になるなら続きは山を降りてから聞きに来い。じゃ~な!

吉: あっ、ちょっと待ってください、ゴリさんっ!
ミノムシのままどこへっ?!

ゴ: 家に帰って炬燵に入るんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ~~~~

マ: ・・・降りていってしまったよ。スルスル~っと。。。

吉: ・・・幻覚だったのかな、今のは?

マ: いや、ゴリさんだったよ、確かに。

吉: でも、

マ: 深く考えちゃダメだ、吉岡君。特にゴリさんのことに関しては。
今は無事に下へ降りることだけ考えよう。

吉: ・・そうだね。体調の方はどう?

マ: 良いとはいえないけど、最悪ってほどでもないよ。大丈夫だ。

吉: そう、それならよかった。それじゃ、日が昇る前に降り始めようか?

マ: ああ、そうだな。雪質が悪くなる前に出発したほうがいい。行こう。


夜明け前、二人は再び下降し始めた。
吉岡が先頭に立ち、マチャトンをリードしていく。
二人の体は互いにザイルで繋がっていた。
風はなく、朝焼けの紫が東の空を染め始めている。

よかった。
今日は晴れる。

天候に恵まれさえすれば、このまま一気に
ベースキャンプまで戻れるだろう。

吉岡は兆しの良い空を一瞥した後、
再び全神経を自分の両足に集中させた。
二人の履くアイゼンの爪が、
硬く締まった雪面に食い込んでいく。
ガシッガシッと雪を蹴る音が、
やがて一定のリズムになっていく。
と、ふいにそのリズムの片方が、
ふっつりと途切れた。
不思議に思った吉岡が後方を振り返る間もなく、
マチャトンが真横をまっさかままに落下していった。
吉岡は急いでザイルを掴んで滑落を止めようとしたが、
マチャトンの落下のスピードに足元を取られて、
自分もバランスを崩してしまった。

一瞬の後に二人は斜面を滑落していた。

それはほんの一瞬の出来事だった。

スピードはどんどん加速していき、二人の体は上下左右、
コマのように回転しながら滑り落ちていく。
ただ重力に身を任せて落ちていくこと以外
他にどうするすべもなかった。
体が雪面の所々から飛び出ている岩にぶつかっていく。
二人の体はまだザイルで繋がっていた。
どちらかが止まれれば、滑落はストップできるはずだ。

吉: 何か掴むんだ!!!

前方を滑り落ちていくマチャトンに向かってそう叫びながら、
吉岡はピッケルで懸命に雪面を叩いた。

引っかかれ!
引っかかってくれ!

と吉岡は声に出して叫んだが、
しかし凍りきった雪面は無常に沈黙したままだ。
その時、背中に衝撃を感じてザイルがピンと張った。
滑落が突然止まったのだ。

気付くと、吉岡の体は雪面上に出た大きな岩に引っかかっていた。
背中に背負ったザックがクッションとなって、
激突時の衝撃を和らげてくれたのだろう、
多くの岩に当たりながら滑落したのに、
奇跡的に何の怪我もしていなかった。

吉: マチャトン君・・・?

搾り出すような声で吉岡はマチャトンに呼びかけた。

吉: マチャトン君、大丈夫か?

しん、と静まり返った斜面に、
風が雪煙を巻き上げながら吹き降りていく。

吉: マチャトン君?

吉岡は、引き伸ばされたザイルに
再び体を取られて二次滑落しないよう、
岩から突き出たこぶをしっかりと掴みながら、
慎重にゆっくりと岩の上に起き上がった。

その瞬間背筋が凍りついた。

マチャトンと互いに繋がっているはずのザイルの片端は、
まっすぐ二メートル程下方へと伸びていき、
そしてそのまま崖の下へと消えていた。

落下したんだ!

吉: マチャトン君っ!!!

吉岡は急いで伸びたザイルを両手で引っ張った。
生きていればそのサインとして、
マチャトンはザイルを引き返してくるはずだ。
しかし下からは何の反応も伝わってこなかった。

まさか・・・
まさかそんな・・・

最悪の事態が脳裏をよぎる。
パニックに陥りそうな気持ちを抑えながら、
吉岡はありったけの力を振り絞ってザイルを引き上げた。
ザイルに掛かった重みが苦痛と疲労を呼んで
腕全体の感覚を麻痺させたが、吉岡はかまわず
全神経を集中させてザイルを懸命に引き上げ続けた。

生きていてくれ、
マチャトン君。

やっとの思いで50㎝程手元にザイルを引き上げた吉岡は、
その緩んだ部分を素早く岩のこぶに括りつけてしっかりと固定した。
そして自分の腰からザイルを外す。 
慎重に這うようにして崖の縁へと進んでいき下を見下ろすと、
50メートル下の空中にマチャトンがだらりとぶら下がっていた。
その光景に一瞬呼吸が止まりかけたが、しかしよく見ると
マチャトンはザイルを両手でしっかりと掴んでいた。

生きている!

吉: マチャトン君っ、大丈夫か?!

マ: ・・・・ああ・・。

力はないが、マチャトンはゆっくりと反応を返してきた。
安堵感が一気に吉岡の心に湧き上がってくる。
しかしそれは瞬時のことだった。
問題はここからだ。
マチャトンを救出しなければ。
絶壁にたった一本のザイルで繋がっている
マチャトンの命を。

マ: 切ってくれ。

その時マチャトンの声が崖下から聞こえてきた。

マ: ザイルを切ってくれ、吉岡君。

凍てついた突風がふいに吉岡の体を突き抜けていき、
吉岡は言葉を失くした。

マ: 僕のことはいい。ザイルを切ってくれ。

その声は谷間に冷静に響いた。

吉: ・・・・何を言って・・

喉元からやっと出てきた言葉をすかさずマチャトンが遮る。

マ: まさか僕を助けようなんて、そんなバカげたことを
考えているんじゃないだろうな、吉岡君?

吉: ・・・・

マ: このままここにいたら、自分自身だって
やがて疲労凍死してしまうことくらい
君ならわかりきっていることだろう?
こんな状況じゃ僕が助かることは不可能だ。
助けようなんてしたら、君まで一緒に3,000m真下に
落ちて行ってしまうんだぜ。二重遭難は免れない。
そうだろ? 切ってくれよ。今すぐザイルを切ってくれ。

吉: マチャトンく・・

マ: 切れよ。

吉: ・・・

マ: 切るんだ。

吉: 僕は、

マ: 切れって言っているんだ!!!

叫び声が澄みきった空気を揺り動かしていった。
碧空はどこまでも高く、そして凍てついている。
二人は完璧に下界から隔絶されていた。
人の息吹や温もりは、ここには一切届いてこない。
ただあるのは、
永遠の空間に入り込んだような、
静寂。
それだけだ。

吉: そんなこと出来るわけないだろう?

やがて吉岡の声が静かに響いた。

吉: そんなこと出来るわけないじゃないか。

吉岡の静かな言葉が辺りに響き渡っていく。

吉: 僕はこれからも生きていきたい。やりたいことが沢山あるんだ。
行ってみたい場所や、読みたい本や、これから出会うだろう人たちを、
僕は諦めたくはないんだよ。みっともなくても、格好悪くてもいいんだ。
生きていくことが大切なんだと思う。僕はここでは死にたくない。
山を降りるんだ。でもそれは僕一人でじゃない。君と一緒に降りるんだ。
だから僕は君を助ける。

崖下はひっそりと静まり返っている。
しかし引っ張られたザイルは小刻みに揺れていた。
マチャトンが、泣いているのかもしれなかった。

吉岡は、用心深く立ち上がると、
ザイルの端を括りつけてある小岩まで戻った。
ザックの中からハーケンを取り出し、
それをハンマーでしっかりと岩に打ち込んだ。
そうしてから打ち込まれたハーケンの穴にカラビナをかけ、
そこに予備のザイルを結んで自分の体を固定する。

絶壁へと降りていく。

そのことに恐怖心がないとは言い切れなかった。
些細なミスを起こせば、それで自分の体は一瞬にして
3000mまっさかさまに落下していき、たぶん、
誰にも見つけられることなく、その亡骸は、
氷河の中を永遠に孤独に彷徨うのだろう。しかし、

行かないわけにはいかない。

吉岡は両手でザイルを掴んで、
そのまま一気に崖を下降していった。

迅速に、しかし最大限の注意を払いながら
吉岡は崖を懸垂下降していった。
マチャトンは下降してくる吉岡を見上げることなく、
ただだらりとその場に力なくぶら下がっているだけだった。
一下降毎に、彼との距離が縮まっていく。

あと10メートルで辿り着けるだろう。
もうすぐだ。

近づいてみて初めて気付いたが、
マチャトンがぶら下がっている脇の壁に、
僅かながらだが岩棚が出っ張っているのが見えた。

足場がある!

あそこに立つことができれば、
マチャトンの疲労も少しは和らぐだろう。
救助処置も少しはしやすくなるはずだ。

吉: マチャトン君、横に岩棚がある! 
頑張ってそこに足を乗せるんだ!

そうマチャトンに向かって叫んだ時、
カラン、と頭上で乾いた音がした。

吉: 落石だ! マチャトン君、避けて!!!

間髪いれずにピンポン玉ほどの大きさに砕けた砕石が
霰のように吉岡の頭上に降り落ちてきた。

吉: 壁に寄るんだっ、マチャトンくん!!!

下方に向かって叫びながら、吉岡は自分の体も壁に押し付けた。
その瞬間、拳大ほどの岩石が額の上を掠めていった。
石は急速なスピードを伴いながら奈落の底に落ちていく。
あんな石が頭を直撃していたら、そのまま僕も・・・
そう思った瞬間、恐怖が津波のように押し寄せてきた。

落ち着いて。

落ち着くんだ。

吉岡は懸命に自分に言い聞かせた。
呼吸を整えながらその数を数えることに意識を集中させる。
しばらくそのままの姿勢で落石がおさまるのを待った。
下方を確かめると、幸いマチャトンも落石を逃れたようだった。
岩棚の上にかろうじて立っている姿が確認できた。

行くぞ。

完全に落石が終わったのを確かめてから、
吉岡は再び下降を開始した。

何ピッチか降りた後、マチャトンの立っている岩棚まで
なんとか無事に辿り着くことが出来た。 
二人とも無言のままだった。
吉岡は、素早く的確にマチャトンを固定ザイルに確保し、
そして彼を背中に背負った。

マ: 僕なんかの為に・・・ばかだな、吉岡君・・・

吉岡の背中で力なく呟くマチャトンの声が聞こえてきた。

吉: いいんだ、それでも。

そう言いながら、一瞬ふっと吉岡の顔に微笑みがもれた。
こんな状況下においても笑える自分に驚いた。

大丈夫だ、
行ける。

岩の切れ目にハーケンを力強く打ち込み、
吉岡は再び上へと登っていった。



再び登りきった崖の上に立った時、
柔らかな西日が二人を包んだ。

水をたくさん含んだ水彩絵の具の筆で、
さっと一塗りしたような橙色や緑色が、
暮れ行く一日の終わりの空を美しく彩っている。

マ: これだけのことをした僕達には、
一体これから何が必要だっていうんだろう?

マチャトンが、隣に立っている吉岡に
そう問いかけてきた。
吉岡は眼下の雪田に灯るベースキャンプの灯りを
ずっと静かに見つめていた。
それは、
人の温度だった。
人の温める、日々の生活の温かさだ。

吉: 毎日の生活なんじゃないかな。

マ: え?

吉: それが一番大切で、何より幸せなことだと思うんだ。

そう言うと、吉岡はそっと微笑んだ。


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2 コメント

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一難去ってまた一難 (まーしゃ)
2008-12-24 20:45:02
大変な思いをして降りてきたんですね。
それなのに、何故ゴリさんはいきなり現れて
スルスル~っと降りて行けるのか、
ホントに不思議な生き物ですねぇ、ゴリさんは。

今回は、映画を観てるような感覚で読ませていただきました。
風子さん、雪山に登ったことがあるんですか?
かなり専門用語が出てきていたので、
その辺は雰囲気で読んじゃいましたが。。。

とにかく、吉岡刑事とマチャトン二人共無事で良かったです。
返信する
人生はワンツーパンチ。 (風子)
2008-12-25 02:33:58

私自身も、「帰っちゃうのかよっ、ゴリさん?!」
とツッコミながら書いていました~。
しかし降りていってしまいました、
スルスル~っと・・・。
新種の生物なのかもしれません、ゴリさんってば。。。

雪山には登ったことはないのですが、
登山は好きでぃす。
吉岡くんに登山映画にでてほしいな~、
という想いだけで書いてしまったでっす~。
文中に出てくる登山用語はわかりづらかったですよね。ごみんなっしゃ~い。
「解説しよう!」
とヤッターマン注釈をつけておくべきだったぁ~。。。
でも最後まで読んでくださってありがとうございました  

どんな指令にも応える吉岡刑事とマチャトン、
今頃はどこでどんな捜査に挑んでいるのでしょうか・・・。
幸あれ、ヨシマチャコンビ!
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