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日光山 勝道上人が歩んだ修験者の道・その1

2020-04-27 08:03:31 | yoyoの日々
これから日光山で勝道上人が歩んだ修験者の道を考察することにします。


<イントロダクション>
このブログのテーマは、日光山を開山した勝道上人の辿った道を歩くことです。
そして、それが修験者の道としてどのように発達したのかを考えることです。

日光山における修験者の道というのは、文書で残された記録を辿れば誰でもが歩ける道です。
したがって、「日光山における修験者の道」のまとめは、簡単すぎて面白くありません。
私は「道」ではなく「未知」の部分を追求します。

きっかけは、この石仏を見つけたことです。


この石仏は東照宮の裏山にあります。
でも誰も知らない場所です。
(日光市歴史民俗資料館の学芸員の方に質問したら、その存在は聞いたことがある程度の答えでした)
私はこの石仏と出会い、もしかしたら「歴史を自分の目で見る」ことができるかもしれないと考えました。

そこで自分の足で、勝道上人が歩んだ修験者の道をたどってみることにしました。


そうしたら、次の衝撃がありました。

あるはずのない場所にあるものです。

これも誰も知らないことです。
ここに関しては、宗教上のタブーに関わるので、ブログでは公表をしません。

・・・・・・・・・・・・・・・・

<日光山 勝道上人が歩んだ修験者の道・その1>

勝道上人の歩を簡潔にまとめます。


勝道上人は、古峯ヶ原の三枚岩で修行をして男体山に登ることを決意しました。


若かりし勝道上人


古峯神社


その準備のためには、まず大谷川を渡り、766年に日光山を開山しました。


男体山が見える場所に本宮(質素な祠)を建てました。

この画像は貴重です!
現在の二荒山神社からは男体山が見えませんが、二荒山神社を外れた東照宮の裏山からは、男体山がこのように見えます。
ここは観光客が入れないので、本宮神社の本当の場所は誰も知りません。

さらに四本の紫の煙に導かれた四本龍寺を建てました。

現在の四本龍寺(本宮)は、二荒山神社が建てられたために移設されたものです。
そして男体山は二荒山神社(新宮)のものとなり、現在の四本龍寺(本宮)は太郎山を崇めるとされています。

勝道上人は男体山の登頂に成功すると、山頂に奥宮と、そして中禅寺湖に中宮を建てました。


勝道上人の死後、この仏岩の上部で荼毘にふされ聖地となりました。


ここは、東照宮が出来た時に移設された勝道上人の墓地です。


そして、ここが仏岩の上部、荼毘にふされた場所です。


ここは観光客が知らない聖地です。


その後
弘法大師が820年に滝尾神社を建てました。


滝尾神社は女峰山を崇める神社と位置づけられています。


滝尾神社と四本龍寺を結ぶ鍵となるのが「龍」です。

龍は水の神様です。

滝尾神社と四本龍寺は、「水路」で繋がっています。


四本龍寺は、4本の沢水(龍)の集まる場所であり、最も太い水路(龍)の取水口が滝尾神社(龍の尾っぽ)となります。

これは現在の水路図ですが、四本龍寺への水路は別途まとめます。

この地中水路は、ひとつは子種石


もうひとつは、行者堂によって守られています。


やがて四本龍寺に多くの修験者が集まってくるようになると、勝道上人の聖地を中心とした山岳宗教は僧兵の集団となり、修験者の道は鳴虫山から日光山全体へと発展します。

これは古賀志山から見た日光山ですが、鳴虫山が拠点として重要だとご理解いただけると思います。

こちらは、女峰山の方面から見た画像です。

修験者は、このような光景を見ながら歩むことになります。

これは鳴虫山の修験者の道から見た日光山(輪王寺・二荒山神社・東照宮)の全体像です。

輪王寺だけが明確に写り、東照宮(家康)、二荒山神社(秀忠)、輪王寺大猷院(家光)は、巨木の杉に囲まれて見えません。

そして慈眼寺(天海)は、さらに奥に隠されています。


日光山の歴史は、すご〜〜〜〜くおもしろいですよ!

*日光 修験者(未満)の道・<プロローグ>は、「日光山 勝道上人が歩んだ修験者の道」に改題しました。


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