のろいというものがあるならば、こういうことなのだろう。
「なにもかわらない。かえられない。ときがすぎてゆく。」
それをごまかすようにあるこーるをせっしゅする。
ぶったれるかのようにねむりにはいる。
のろいというものがあるならば、こういうことなのだろう。
「なにもかわらない。かえられない。ときがすぎてゆく。」
それをごまかすようにあるこーるをせっしゅする。
ぶったれるかのようにねむりにはいる。
そうすけは「望むこと」ではなく、「望まないこと」しかわかっていなかった。
「望まない」恐怖から対決することなく逃亡した。
絶対的正義を求めても信じられなかった。
何かを期待する生き方から一歩も動けなくなってしまった時、漠然とした不安が覆ってきた。
「人間とは・・・・・・なんとうさんくさいものか、なんと助平なものか、なんと優しいものか、なんと弱々しいものか、人間とはなんと滑稽なものかを真剣に問い、総じて人間とはなんと面白いものなのかを知ってほしい。そしてこれを問う己は一体なんなのかを反問してしてほしい・・・・・・」今村昌平
この世を芝居小屋と見立てて、人間社会を眺めなおしてみる。この芝居は、この世に生きている限り、自分も参加できる。
主人公になるか、脇役になるか、端役になるかは自分次第だ。
今年は敬老の日と秋分の日が重なり五連休の人が多いと思います。
やっと秋らしい穏やかな晴天になりました。親子ずれというよりはおじいちゃん、おばあちゃんをくわえた家族連れが目につきました。
人の幸せは、それぞれでしょうけれど、あたりまえの家族の光景に、これでいいのだと納得いたしました。
皆様に、幸あれと願います。合掌。
つまり、あなたは自分を含めた人間が嫌いなのだ。
自分を嫌っているあなたが他者をきらいなのだ。自分を好きでないあなたは他者を好きになれない。
わずらわしさより、さびしさをとったのだ。
人は自分を好きになることによって他者を好きになる。
つまり、あなたは自分が許せないのだ。
自分を許せないから他者を許せないのだ。
許せないあなたは他者を好きになれないのだ。
愛することより憎むことで、さびしさを抑えたのだ。
人は他者を許すことによって、自分が許される。
のり巻きを食べると思い出す。
叔母の運動会。
叔母とそうすけは十歳違い。
そうすけが五歳。叔母が十五歳。
茣蓙の匂い。バトンを持って走る女の子。
万国旗。歓声。
セピア色の木造校舎。
「お母さんは足が速かったんだよ」
いとこの大ちゃんに言った事がある。
大ちゃんは目を丸くして首を横に振った。
誰といったんだろう?
祖父と祖母とだろうか?
父、母、叔父たち、叔母たちとだろうか?
そうすけの儚い思い出。