絶望とは自分自身に絶望することである。
自分に自信が持てなければ、人間生きていくことは難しい。
自分で自分を許せない人間は生きていくことがつらい。
そうすけは自分を哀れむ。
不安の種を探し、うまくいっていない部分に意識を向けている。
はじめは不満だった。コップに水が入っていないければ、「水をください!」と叫ぶ。誰かが注ぐと半分しか入っていないからもっとくれとのぞむ。しかし、次は誰も注いではくれなかった。
コップに水が半分はいっているのに、「半分しか入っていない」と不安になる。
この水を減らすな。みんなやっている。できるはずだ!と声が聞える。
そうすけは、コップの水が飲めなくなってしまった。
「皆はできているというのに、できない自分が悪い。」
かなしい。つらい。茫然としてくる。意識が遠のき、自分を失っていった。
人生のほとんどを自己憐憫に浸りながら過ごしている。
それは、そうすけが望むことを選んでいるのだ。
こんな夢をみた。
屋外パーティーのようだ。ワインを飲む。これから仕事だからな・・・。気がつくと一本空けていた。しまった!水を探しまわる。
●失敗をおそれる人は自分の考えや気持ちを大切にせず、外的な基準でコントロールしています。
●自己表現で大切なことは、言いたいことが伝わるかどうかではなく、自分の気持ちが適切に言えるかどうかです。
△反射的に感情の赴くままに言わない。その言動は得てして攻撃的になり、相手に真意が伝わりにくい。また誤解を生む。
●失敗することを恐れていては、コミュニケーションは成りた立ちません。他者は萎縮している人間には近寄ってきません。
●精一杯、自分のできる限りで自分の気持ちを表現することにエネルギーを注うことが先決なのです。そして、伝わらなかったら、またコミュニケーションを続けるしかないのです。
△主語をつけて話す。人の名前をおぼえる。
私たちには自己主張しない権利もある。そのことによって相手を恨まない。
ひとを傷つける言葉を言うことなかれ
言われしものは、かならず言い返す
怒りを含む言葉は苦痛を与え
その報いは必ず身に至る
思うことなかれ 思いは自己を不利にし
幸運を遠ざけ 自己の心を打ち砕く
世の中が生きづらいのは、そこに世間の目があるからです。
この世間の目から抜け出したくても抜け出せない。
それを実行できないのは、私たちを守ってくれるところもある「世間」への執着を捨てきれないからです。
したがって、いったん本気で覚悟して、世間に評価されたいという欲を捨ててしまえば、もう怖いものはありません。
●穴を見つめるとは「空虚」という「自分」の存在を認めることからはじまる。
●人間は「世界」をもっている。いずれの環境を突き破って世界そのものへと向かっている。
友人たちと酒を飲んだ。久しぶりに会った。
みなと共有していた時空が今をやさしくつつむ。
空虚という存在を忘れさせ、われらの世界を楽しむ。
都会は欲望の成れの果てではないか
欲望こそが現代社会を成り立たせている一つの本質であった。
そうすけは高層ビル群にめまいをおぼえる。(高層ビルをつくった人は欲望に忠実である)
欲望をコントロールできないそうすけは際限なく肥大させる。
そして漂流する。
欲望の衝動にふりまわされている人間には形がない。
欲望という名の大海。
おぼれ、もがくことをやめよ。
舟に乗りこめ。舟を漕げ。
ダメなままでいいのだ。
(これでいいのだ)
いや、ダメだからこそ救われる。
(だからダメな必要がある)
やる気を起こして救いを引き寄せようとすると手に余り間に合わなくなる。
どうしても生きてることがいそがしくなってしまう。
ただひたすらに待つ。
ひとはダメというだろう。だから救われるのだ。
凡骨の、そうすけは、足を踏まれてみなければ、痛さがわからない。
痛いと思った時は、足を踏んだ人を恨めしく思う。踏み返したいと思う。
「すみません」と言われる。痛さがうすらぐ。
なぜ踏まれたのか、どうすれば踏まれないのかとは考えない。
痛みが無くなるころ再び踏まれるのだ。すこしも身にしみていない。