朝が来た。今日なすべきことがある。ありがたい。
反省せず、希望なし、己が明確でない。
目的意識をもって前向きに人生を送れるような使命がない。
陽は昇る。いやいやながらも、なすべきことがある。
それは過去の桎梏と将来の不安を浮かび上がらす。
冷や汗、疲労と倦怠に
がたがたなじぶんとぶよぶよのじこの狭間にゆすられる。
その日の暮らしをじたばたしたり、がまんしたり、わかれたり、くっついたりしている。
朝が来た。今日なすべきことがある。ありがたい。
反省せず、希望なし、己が明確でない。
目的意識をもって前向きに人生を送れるような使命がない。
陽は昇る。いやいやながらも、なすべきことがある。
それは過去の桎梏と将来の不安を浮かび上がらす。
冷や汗、疲労と倦怠に
がたがたなじぶんとぶよぶよのじこの狭間にゆすられる。
その日の暮らしをじたばたしたり、がまんしたり、わかれたり、くっついたりしている。
過去にしがみつく生き方をしている人は、永遠に答えのない「自己の起源」への問いかけをしている。
何かを求めて記憶をさかのぼっていくと、どこかで切れてしまう。過去にこだわる人は、実はそのことを通して「自己の起源」を取り戻そうとしている。
自分の人生が記憶の欠如から始まっているという事実に、どうしても納得することができず、それを空想で埋め合わそうとしている。
生きる意味とは過去を求めることではない。
青い空。おだやかな日。
睡眠不足のためか頭がふらつく。目がかすむ。ひたすら眠る。
何かをしたいが何もしたくないことに不安になる。
次々と過去の亡霊が現れる。酒と風薬の飲みすぎだ。
いままでのとおりに生活できない。それを受け入れられない。あきらめられないところに原因がある。
とにかくねむることだ。
人生に意味はあるのか?
Z先生がいうには、
フランクが言っている「忘我」というのは、単に我を忘れるということではなく、自分以外の何かに向けて我を忘れることです。
自分以外の何かに本気で取り組む。自分に以外に誰かのことを本気で思う。
そのとき、「私」などという意識はないということです
つまり何かとのかかわりの中で人間は生きている。
「私」に人生というものがあるなら、あなたと暮らしたあの夏の日々。
Z先生は云った。
祈ろうとするときは、
まずわたしたちが持っているものに対する感謝をもって始めなければならない。
そうすると心が祈りにふさわしい気分に導かれる。
つぎに自分の意志を神にゆだね、最後にその日一日のために信仰と愛とをお願いする。
それからはじめて目前の必要ごとを祈らなければならない。
己の意志を神に委ねたときにのみ、われわれの祈願に神が御心をよせてくださることを十分の確信ををもって期待することが許される。
そうでなければ、やはり自力にたよるほかない。
しかし自分の意志を神にゆだねて神の誤りなき導きに固く信頼しながら自分勝手に未来を予見しようとせず、
一歩一歩未来の闇の中を進んでゆくならば、およそこの世で可能な人生の確固とした静かな幸福が始まるであろう。
今宵は満月。
幼い時から続いている問題は電話が怖いことだ。
生まれて初めてぶつかった恐怖は電話をかけて知らない人が出た時だった。最後のダイヤルを9ではなく0にまわした。間違え電話をしたとわかっているにもかかわらず、自分で電話をきれない。呼び出し音が続いているときの困惑。どうしよう。どうしようもない。どうもできない。
「もしもし」知らない男の声。
相手が何者なのではなく、自分が何者なのか。何者でさえないのか。
体調が重い。
通路いっぱいに二人が並んで歩いている。わずかに二人の間に隙間があったので、そこから抜けようとした。「ごめんなさい。ごめんなさい」と左側を開けてくれた。
まったくの悪気はない。ただ自己中心的なだけだ。それがダメダメなのだ。
暴飲暴食不規則。ただ横になる。