スピノザ
<以下の文を復刻します。>
今日は少し“七面倒臭い”話をしたい。苦しみから脱却しようとする時、大抵の人はさまざまな思想や宗教などに頼ろうとする。しかし、納得のいく思想や宗教がないと、人はさらに苦しみの中へ落ち込んでいく。私の場合ももちろんそうだった。
若い頃、過激な学生運動・革命運動に没頭していた私は、ある時、マルクス主義やアナーキズムが信じられなくなり、運動から離脱した。寂しかった。これを自分なりに「転向」と受け止めたものの、一種の懐疑論、虚無主義へと陥っていった。
しかし、それでは生きていく“張り”がなくなり、私は必死になって自分が救われる思想を追い求めた。ところが、そんな救いの思想や宗教はなかなか現われない。
苦悶の時間がどんどん過ぎていったが、ある日、東京・新宿駅の雑踏の中で、一瞬の閃きから「この世は全て必然だ」という思想に到達した。
これは要するに運命論、決定論、必然論といったもので、「この世は全て成るように成ってきたし、これからも成るように成っていく」といった考えである。ケ・セラ・セラ・・・成るようにしか成らないというものだ。 この考えで私は小康状態を得て、精神がだいぶ楽になった。自分は成るように成ったのだから、仕方がないじゃないかという諦めにも似た心境に達したのである。しかし、これでは生きていく上で十分とは言えない。余りにも受動的というか、無為の気持である。事実、それから私は無為・怠惰な生活を送っていった。
時間を持て余した私はいろいろな文学作品を読んでいったが、大好きなゲーテとロマン・ロランの間に、ある大きな“共通点”があることを発見した。それがスピノザ哲学と「汎神論」なのである。
スピノザ(1632年~1677年)はオランダの哲学者だが、ゲーテもロマン・ロランも彼の著作『エチカ』から大変な影響を受けていた。詳しく述べるスペースはないが、ゲーテは「私を激しく動かして、私の考え方全体に極めて大きな影響を与えたのはスピノザである。・・・・・・特に私を惹きつけたものは、あらゆる章句の中から光を放つ無限の無私であった」と告白している。
また、ロマン・ロランも「スピノザの思想がゲーテにおいて肉となり、芸術となった」と述べ、「スピノザは私には依然神聖であり、聖典を信じる者にとっての聖典にひとしい」と語っている。彼はそれを“スピノザの閃光”と呼んでいるのだ。 ドイツとフランスの2人の文豪が、これほどまでに影響を受けたスピノザ哲学とは何なのか。
それが先ほども述べた「汎神論」である。スピノザによれば、「神、すなわち自然」という考え方なのだ。逆に言えば「自然、すなわち神」ということである。この場合の自然とは、森羅万象、宇宙間にある一切のものを言うのだ。全ては神であり、神は全てだから汎神論と言う。
私はこれが真理だと思っている。もう何十年もこの考え方を信奉してきたし、死ぬまでそれは変わらないだろう。人間の自由、意志、生死も全てこの中に含まれる。つまり、人間も何もかも“神の御手”の中にあるのだ。そう考えた時、私は救われる思いがした。
こういう考え方は、宗教に近い。スピノザも“神に酔える人”と呼ばれた。一見、無神論に近いが、また一神論にも通じるものがある。日本ではよく八百万(やおよろず)の神と言うが、それにも似ているところがある。あるいは、アニミズムにも通じるものがあるだろう。
話が少し逸れたが、この汎神論によって全ての現象が“必然”ということになる。なぜなら、全てが神だからである。こういう考え方からいくと“偶然”というものは有り得ない。なぜなら、偶然も必然の中に含まれるからだ。
私はよく言うのだが、偶然というのは、人間が「便宜的に」考え出した概念である。例えば、誰でも嫌がることだが、事故や災難などは起きて欲しくないのに起きる。交通事故でも地震でも嫌なのに起きる。そこには必ず原因があるのだ。つまり必然なのだ。
原因が分からないと、人はそれを「偶然」と言いたくなるが、例えば物が落ちてきて頭に当たる場合も、そこには「そうなる必然性」があるのだ。そうでなければ、物は頭の上に落ちてこない。
スピノザ哲学から必然論の話になってしまったが、考え方は皆さんの自由である。ただし、私はスピノザの汎神論によって、全てのことが必然(当然)と受け取れるようになり、救われる思いがしたのである。そうでなければ、救われなかっただろう。(2010年10月1日)