山城(跡)をこうやって眺めると面白さが倍増
=土塁、堀切、曲輪、石垣に矢穴、=
Kennyの滋賀から情報発信
(この日記の掲載期間:1月4日~1月10日)
またまたマニアックな話題ですんません
竜王町の主催、滋賀県の山城の第一人者(くらいでの紹介では失礼か?)
中井 均先生の講座に参加しました。
昨年 拝聴した先生のもう一つの講座 「安土城は燃えなかった」 も
私のブログでUPしております。そのページは ここを
さて、冒頭の題名、なんのことか簡単に
そこが山城跡(防御の為に山の上に建てた城や砦。平地にある城は平城)か
何か他の建物跡かを見分けるはその場所に土塁(敵が進みにくくする為
に築く高い土手)、堀切(同、掘られた深い溝)、曲輪(くるわ:建物が建てられてい
たなどの平たい敷地)の三つが揃っているどうかを見ればいい。 この三
つ がなければそれはお寺の跡などである。とは先生のご指摘です。
矢穴(矢印) :観音寺城跡の石垣
滋賀県文化財保護協会 HPより拝借の写真を加工引用
もう一つの面白い見方:石垣に矢穴があるか
矢穴(やあな。大きな石を石垣などに使えるように割る時、きちんと割れるように幾つ
か一列にあけた穴)が石垣の石に有るかどうかです。穴があれば六角系
の城で、なければ信長系の城とある時期までの城では区別がつく。
これは初めてお聞きするお話です。 矢穴も始めて耳にしました。
今回の話題にある城跡の所在図
同上、保護協会HPより拝借
先ずは城跡かどうかの話です
先生は星ケ崎城跡を取り上げました。理由は主催者の竜王町にその
城跡があるからです。先生の今日の見解、結論は「謎は解けなかっ
た」と、歩かれてのお話でした。立派な石垣はあります。(下の写真)
星ケ崎城跡の石垣
しかし城跡の三要素、土塁、堀切、曲輪がまったく見つからないのです。
石垣も権力の誇示から東側(よく見える人が往来する町側)ではなくて
西側にある。実はこの城のある山、星ケ峰の麓には最澄開基の西光寺
という僧坊を300有する寺院がありました。今も宝篋印塔(ほうきょういん
とう)、石燈籠、平坦地が残っています。この城跡と云われているのはこの
お寺の奥院ではないかとの謎です。そこには星ケ崎城址と掘られた石碑
が立ってはおりますが・・・。
星ケ崎城の解説板(クリックで拡大します)
。
城跡と断定の石碑 西光寺の解説板
宝篋印塔 (西光寺跡)
星ケ崎城が城かどうかのもう一つ: 井上氏との関係
この山のすぐ近くに井上氏の方形館があります。そこで井上氏の居館
としての詰め城として星ケ崎城を見るかがもう一つの見方だとのご指摘
です。そうなるとお城だったという事になるんですね。
Kennyの星ケ崎城跡の訪問ブログレポートはここを
次は石垣の矢穴を見る:城のもう一つの楽しみ方
上にある写真で見ていただいた矢穴、城によってある石垣と矢穴がない
石垣があるそうです。そこから近江系(六角系)の城と東海系(信長系)
の城という見方です。安土城にはその矢穴のある石垣はないとのことです。
つまり信長は東海系の技法で石垣を積んでいます。一方観音寺城は矢
穴があります。近江系の六角は観音寺技法で積んでいます。
観音寺城の石垣
つまり、
六角氏の城:観音寺城、小堤城山城三雲城は石垣の石に矢穴がる。
信長の城:安土城にはその矢穴がない。
近江系・六角系・観音寺技法:
この石割技法は矢穴が特徴です。 観音寺城、三雲城・小堤城山城がその
例です。ところが同じ六角系でも佐生城と星ケ崎城の石垣には矢穴が認
められない。なぜか? 時期差か技術差か?? の謎でもあるそうです。
くっきりと矢穴が 小堤城山城跡の石垣
では自分の目で
それで早速近くの小堤城山城跡に出かけてきました。見つけてきました。
確かに矢穴がありました!(上の写真)。私のこの城跡のブログはここを
お城、お城跡をこんな見方で歩く
今まで何年もお城跡を見てきてなんとなく土塁他二点セットは理解してい
たように思いますが石垣の矢穴、そう云われれば見たような、程度でした。
お城の石垣に観音寺技法、東海技法があるなんて全く知りませんでした。
これでまたお城を歩く楽しみが出来ました。
淡海の城友の会の仲間から追加情報を頂きました(5日)
追加情報内容はコメント欄をご覧ください。八幡遊人さんありがとうございます。
お断わり:今回もご専門の先生のご講演で しかも初めて聞く内容と
専門用語の連発です。聞き違いは十分考えられます。
もし、これ違うよ、そりゃ逆だよ というところがありましたら
ご指摘頂いた方が正しいと思います。 素人の日記とどうか
お許しください。
この日記の掲載は、中井 均先生のご承諾を頂いております。
実に細かいお話でしたが、
今日も訪問いただきありがとうございました
「大和郡山城ばーずあい -図説 城郭と城下町-」
詳細な考察のウェブサイトです。
http://www4.kcn.ne.jp/~suizan21/page013.html#lcn005
「14◆郡山城の天守【その1】」の最後の方に写真掲載あり
http://homepage2.nifty.com/yogo1394/nara/kooriyamasi.htm
写真集の中程に具体例があります。
「石仏などの石を意図的に利用した」、私もそのように理解しております。
スキー、スキーで昨日はたまっていたメール返信などを。今日は貴殿のブログを見せて頂きます。これからも出かける合間にブログUPです(笑)。
中井先生のそのお考えは最近のご提唱なのでしょうか?
『戦国の堅城』(学研)の先生の寄稿論文「多彩な城郭を創出した戦国という時代」では、山城、平山城、平城などの分類は軍事的には何ら意味がない。立地ではなく機能による分類が重要であると述べられています。そして、「見せることによって敵を威圧する抑止力として築城」するという機能を認めておられます。また、「土豪の詰城は、村人に領主権力を認めてもらうためのステイタスとしての城」という説明もされています。
そういう点から考えると、井上氏との関係で説明されている方に、私は納得できる気がします。
井上氏という存在を知りませんでしたので、またこの点関心が深まりました。
星ヶ崎城跡の解説板からすれば、尾根伝いに平坦面を造成していることが明白なら、曲輪(建物が建てられる平らな敷地)という要素はあるわけですね。土塁と堀切は見られないとしても。立派な石垣が築かれていたら、ステイタスあるいは威圧する抑止力はあるように感じます。素人考えにしかすぎませんが。
また、「戦争を産業化した織田・豊臣の築城術」(西股総生氏)の寄稿論文(『戦国の堅城Ⅱ』)で、中井先生が「織豊系城郭の三点セット」として、最も特徴的要素だと「石垣・瓦・礎石建物」を挙げておられるというのを読みました。これは既に多くの城郭研究者の支持を得ているのだと記されています。
土塁・堀切・曲輪の3要素という3点セットはどうなんでしょう。この点関心があります。
矢穴で区分するというのは、おもしろい観点ですね。直に話を聞きたかったですね。
一方、石の切り出し、採取は素材の調達方法ですよね。石垣普請自体、つまり石垣の築き方の技術論、方法論からは観音寺城と安土城はどうなんでしょうか。
矢穴の有無で、六角系、信長系という区分の狙いが今一つ、ご講演を聴いていないので、ピンときません。六角系の城が全て矢穴のある石を使用というならわかりやすいのですが。
矢穴と言えば、昨年の12月22日、小雨の中「八幡 秀次の城と城下町」探訪に参加しました。そのとき、八幡山城に上る道の途中、山道の路面内に矢穴のある石がありました。近江八幡市のガイドさんからその存在を教えていただきました。へ~っと思って、眺めていたのを思い出しました。
また、ちょっと,ネット検索するとこんなサイト記事をヒットしました。
矢穴 :「広島から行く 歴史の旅」
http://www.k3.dion.ne.jp/~tnk/10jiten/yaana/yaana.html
400年の時を超え名古屋城へ!篠島矢穴石寄贈式
http://network2010.org/article/1257
矢穴掘り :「金沢石材工業協同組合」
http://www.ishikumi.com/about.html
八幡遊人さんの私見部分、石垣用石材の採取の必要性という点からの矢穴利用は、個人的には納得できます。
北原氏の「矢穴考1」の論文ご紹介ありがとうございます。
後日、精読させていただきます。
だいぶ以前に安土城の大手道の石段を登ったとき、石段の端よりに石仏が石として利用されているのを見たことがあります。
短期間に石材を調達するために持ち込んだということはなるほどと思います。一方、石仏などの石を意図的に利用したという面もあるというのをどこかの本で読んだときはなんとなく納得したことを覚えています。その仮説(?)は、石仏を信仰の対象として眺める人々にとっては、それに足を向けること、矢を射ることには躊躇する、そんな心理効果が攻め手に影響する面がある。神仏を自分の有利なように利用するという見方でした。当時の駆り出された農民兵などのことを考えると、そうかもしれないなと。
大和郡山城の石垣にも、石仏が嵌められているというのを、どこかのサイト記事で以前に読んだことがあります。
他愛ない個人的な素人の雑感です。
星ヶ崎城跡、ますます探訪してみたくなりました。
それと、石垣の矢穴観察の楽しみが増えました。感謝。
誰もいませんので大声を上げて、やったーと。さー、これで帰れると思いました。 この3か月でその城跡で人に合ったのは一回だけでした。石垣や曲輪を見に来る方なんてね・・・。でも私の場合は講座がまた背を押してくれます。
スキーの旅は話が弾んだり、喧嘩をしたりの3日間でした。でも真面目に息子の指導を受ける妻、急斜面では付いて行けません、やりよる。
さて「初春冠句事始式」、名称だけで参ってしまいますね、私ならば。大抵のことは大丈夫なんですが、知識、才能のない分野はあきません。分からないまでも、いつも句を読ませて(なんて生意気に)いただいての印象は私にとってはものすごいことをなさっていますねと。特に語彙の豊富さに脱帽です。写真作品の題名でお力をと思う次第です。 今年も頑張って、分かるところだけでもとの気持ちでくっついて行きます。楽しみにしております。句も受賞のニュースも。
今日も両方のギターで何曲も弾きました。真夜中のギター、やはりアルペジオでクラッシックギターがいいですね。 夕方、さだまさし、森山良子のTV番組がありました。サムピックを使って自在に弾いていました。参考になりました。このようにあの種の番組を楽しんで(過去はには見向きもせず)いる自分が嬉しかったです。ポエムさん、コメントありがとうございます。
矢穴の確認に行かれて、それを見つけられた時は、カメラを押す手も力が入ったと思います。楽しい趣味を益々深めて下さいね。知識が無いながら、けっこう深読みさせて貰っています。
奥様と一緒のお正月のスキーは如何でしたか?
明日は京都のお寺へ「初春冠句事始式」に行ってきます。かなり緊張する大きな句会でして、毎年ドキドキしますが、多くの句友との再会を楽しみに、いい1日を過ごしてきます。そして1句でも佳い選を得て、今年初のブログ更新ができれば尚良いのですが・・・神様に祈っています
大手道の突き当りを左に折れて黒金門跡までの所に私が見たのは一か所ですが墓石(石段に)が使われていました。そうらしいですね、期限を切られてなりふり構わずに石材を集め回ったんでしょうね。
八幡遊人さん、今日はいろいろとお付き合いいただきありがとうございました。妻と正月をスキー場で過ごしていまして約一日遅れの昨晩のUPになりました。そんなことで今日は疲れで終日部屋に籠っております・・・。
すごいですね。専門的な紀要がネットで検索してみることができるなんて。早速見てみました。紀要では観音寺城の石垣を中心に矢穴の考察を展開されているようですが、ほんの一部で安土城について百百口の石の矢穴の写真が掲載されていました。
ところで、私の記憶の範囲で申し訳ないのですが、これとは別に城郭研究室の仲川さんの案内で安土城探訪に参加したおり、やはり安土城の石垣には矢穴はないということでしたが、大手道の途中、伝なんとか館へ入る石橋の下の石に矢穴があるということを言われておりました。もう一度確認する必要があると思いますが。ただ大部分の石には矢穴の後は無いようですので基本的には安土城の石垣は矢穴なしと解釈していいかと思います。安土城は使用する石を周辺の住民にも供出させたようでそのため石仏が多く使用されているとも言われています。(容易に石を供出できるため五輪塔や石仏を持って行った人がいたとか。)
あいまいな話で申し訳ありません。
また次回も楽しみにしています。
http://shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/21_kitahara.pdf
八幡遊人さんご指摘の大きな岩がある山では石を切り出して使用云々のお考え、納得です。小堤城山城は大きな石が沢山あります。割って使用すると考えるのは分かり易いです。
こうやって講座に参加させてもらうなど継続していますと新しいお城跡の見方なども覚えて興味は尽きません。コメント、追加情報ありがとうございます。
竜王町主催の中井先生の講座のご紹介ありがとうございました。私も当日同じ講座に参加しておりましたがもう一度ここで読み直してなるほどと納得しました。
矢穴についてその後別の城跡の話がありますので僭越ながら紹介させていただきます。この話は、後日近江八幡市主催の中井先生の八幡山城探訪で出たのですが、
①矢穴は時代によってその幅がだんだん狭くなる。
八幡山城の石垣にも矢穴がありました。技術の進歩により石にあける矢穴は狭くできるようです。現代は電気ドリルで穴をあけるため矢穴は非常に小さくてすむとのことでした。
②江戸時代のお城の石垣は矢穴を後加工でなくして表面の見栄えをよくした。
③戦国時代のお城の石垣は遠くから石を運んでくるのではなく基本的にはその山にある石を利用した。
これは私の推測ですが大きな岩がある山では石を切り出して使用するため矢穴が残り、てごろな石がごろごろしている山に石垣を築く場合は矢穴は不要だったのではないでしょうか。(いやいや正解は一つにあらず。石工の技術、石垣の作り方によっても矢穴の要否はあったはず。東海技法、観音寺技法の違いも当然あったと思います。)
いろいろと考えると面白いですね。
また、お城についてのブログも楽しみにしています。