甲賀市の専門員さんの
ご案内で城址を歩いてきました
=和田城館群(滋賀県甲賀市)です=
(この日記の掲載期間:8月12日ー8月18日)
和田(わた)集落を訪ねました
滋賀県には1300ケ所の城館址があると云われております(既に何度かこのブログ
でも取り上げました)。 そのうち甲賀市(こうかし)には200か所が確認されており、
県内では最も多くのお城址が密集しています。その中でもこの和田地区には特に
集中しており、しかもたったの100mほど離れて7つも城館が築かれています。
甲賀市教育委員会事務局歴史文化財保護課編集(航空写真)
甲賀市和田には和田川を挟む谷の丘陵上に7つの城館が築かれています。
上の写真は当日配布の和田城館群案内パンフレットの表紙からの引用です。
なぜ甲賀市にお城が多い?
それは甲賀郡中惣(こうかぐんちゅうそう)という中世の自治組織の誕生にあります。
その地を支配する土豪が甲賀にも存在しましが、甲賀全体を支配するような権力が
生まれることなく各土豪が独自の城館を築いて自分の地区を治めました。そして
お互いが対立するのではなく各土豪が連合することにより外敵を防御するという
組織、甲賀郡中惣という独特の自治組織を作ったのです。
和田川を挟む谷の丘陵、そこに城が 和田城址のある山
7つ個々のお城
共に小さなお城(館)です。おおよそ同じ形(方形)のお城で、一番大きな主郭でも
せいぜい一辺が50m程度です。また土塁、帯曲輪(おびくるわ)、切岸(急で高さの
ある斜面)などを築いています。しかしその城館群は発掘調査が全く行われておらず、
分からないことも沢山あると、当日同行、解説下さった市の専門の方々のお話でした。
和田城の縄張り図 (現地の看板) 和田城の虎口(こぐち)
土塁(防御用堤) 堀切
信長には反抗しなかった
六角氏を支えると云う関係にあった甲賀衆も元亀元年(1570年)の野洲川の戦いで
六角氏とともに破れて信長の軍門に入ることになりますが、一族の中でもよく知られた
人物、和田惟政の助言で信長には反抗せず、同盟関係にあった伊賀衆のような襲
撃、取りつぶしには遭っていないようです。しかし、信長はこの地を歩くことはなかった
そうです。つまりあの信長でさえ甲賀衆には一目置いていたと云いうことです。
甲賀衆はその後の秀吉の兵農分離政策によって中世的武士の性格は失われて
行きます。
和田惟政の菩提を弔う五輪塔のある極楽寺 主郭で専門員の解説を聞く見学者
和田城館の城主は?
和田氏が城主の一人であることは有力ではあろうが、有掛かりな文献、資料がなく
はっきりした事実はわからないのが実状との事です。
見学前の講義
この甲賀の地に一乗院覚慶(後の足利義昭)を匿まったとのことです。応仁・文明の
乱による足利将軍家の分裂に伴う出来事でもありますが、この史実に関連して
午前中の講義では、滋賀県の学芸員さん、松下浩氏(滋賀県文化財保護課副主幹)
による「足利将軍と戦国の動乱」と題して興味深いお話を拝聴することも出来ました。
松下浩副主幹の講義 見学に向かう参加者
歴史のロマンをじっくりと楽しめる充実の一日となりました。当地へのアクセスは
JR油日駅、現地までは当駅から徒歩30分です。駅前には広い駐車場(たぶん無料)
もあります。
次回の「連続講座2011」は8月27日の賎ケ岳です(滋賀県教育委員会事務局
文化財保護課主催)。
お断り:この見学会の日記(感想文)の掲載については主催者のご了解を頂いております。
ご参考:「甲賀郡中惣」、甲賀の城については このブログで2月11日公開の
Kennyの城郭址歩き:甲賀忍者の町
甲賀地域には300余りの城が有った
=近江の国(滋賀県)には1300もの城が=
に詳しく記録してあります。 よろしければご一覧ください
(すみません、相当バックしていただく事になりますが・・)
今日もご覧下さいましてありがとうございました
戦国の武将の波乱の人生が垣間見えました。
色々見学に行かれて楽しみですね。
八田正文様のHP、拝見しました。以前住んでいた野洲の色々な様子を楽しく拝見できました。
Kennyさんの入日の写真もありました。何度見ても綺麗ですね。(実家は野洲の近くの市です)
いつも帰省の時に通過する安土城址でふと城址に目をやると以前(30数年前)と様子が違います。何か長い石段が見えます。ちょっと立ち寄ると今私が所属する「淡海の城友の会」のセミナーの日で大勢が20年にわたる発掘調査が行われたお城址の見学を。即入会を決めました。
八田正文先生にお目に掛れたのもよく似たきっかけです。先生はそれまでにもよくよく存じておりましたが、どうすればお目にかかれるのかが分かりませんでした。
このようなご縁でこんな日記や先生に写真を指導していただける今を感謝しております。
甲賀武士団の城跡は手許の本では、比較的アクセスしやすいのですが・・・・
六角氏と和田氏は、「支える」関係ということは、同盟関係みたいなものですか?
和田惟政という人物、信長から結構信頼されていた人物でしょうか・・・・
手許の本によれば、織田・浅井両氏の縁組みに奔走したり、信長にフランシスコ・ザビエルを紹介するということもやった人らしい。後に、摂津芥川城主として大名に取り立てられたとのことですから。
さて、手許の本には触れられていない疑問点を抱いています。
和田氏は甲賀忍者の系統とは無関係だったのでしょうか?
写真を拝見すると、現地の案内板、標識など、かなり整備されていそうですね。
和田城館群の雰囲気を味わえました。ありがとうございます。
「有掛かりな」文献・・・・・どう読めばよいのでしょうか?
(スミマセン。ちょっと気になりました)