甲賀地域には300余りの城が有った
=近江の国(滋賀県)には1300もの城が=
今日(24日)が当日記の掲載最終日です
閲覧くださいましてありがとうございます。
「淡海の城」友の会で城址を歩く:
なんでKennyが横着にも城について云々? を先に話しておかないとあいつ
ちょっとおかしくなったんでは、と私を知る友人が心配してくれそうでして。
実は4年前に暇になると困るので郷土史でもと思い安土城址を歩いていて
目に止まったのがこの会です。主に安土城を知る会でしたので入会しました。
以来いつの間にか大抵は一人でですが県内の城址歩きをやっております。
今日は、最近300以上の城が有ったという滋賀県の甲賀地域を歩いてきまし
たのでその日記です。
水口岡山城址(山頂)から見た甲賀地域
この写真で見るように樹木が生い茂る小高い丘の間に集落が点在します。
私の想像ですが、これは当時のそれぞれの甲賀武士団の名残ではないかと思
います。甲賀五三(53)家とも呼ばれる武士団が同名中惣として連合をなして
いました。 これでは信長勢も匿った六角を探し出すのは難儀ですね。
甲賀といえば忍者、そしてこれらの城の今は:
甲賀地域を歩いていると小高い丘や道路から少し入った藪の中。 または民家
が城址にあったりと、あらかじめ調べておけば見つけるのにさほど苦労はあり
ません。甲賀は日本有数の城郭密集地とされています。ちなみによく似た背景
でお隣の三重県伊賀市も同様です。
大原邸
予め調べておいた城址で、点在する民家の一角に頑丈堅固な土塁に囲まれ、
周囲には堀の一部も残っている大原邸を訪ねました。現存する唯一の土豪屋敷
だと、JR甲賀駅で頂いた観光案内書にあります。
どうしてこれだけのお城が:
この地(以後甲賀郡とも表現)に戦国時代土豪と言われる衆が多く存在した
との事です。ならば各土豪間で日々争いが絶えないか? と言えばそうでは
ないのがびっくりでしてこの甲賀の土豪の最大の特徴、面白さです。(後述)
三雲城のある山 山頂付近に八丈岩が見えます
城と言っても、彦根城のような城ではありません:
土塁(土を盛って城郭を築く)の主郭を虎口(こぐち:城の門)や堀切(水のない
空堀)で防御した中世の城です。 (織豊系城郭は近世の立派な城:後述)
枡型虎口 三雲城址 土塁
三雲城址:六角の重臣で甲賀五三家の三雲氏の居城です。甲賀武士団の居城
にしては珍しく、大規模な山城です。
甲賀郡中惣(ちゅうそう)とは?:
一族縁者を単位として地域的に連合(中惣)して紐帯(ちゅうたい:社会
紐帯)を築いて突出した権力を持てない仕組みの郡を作ったことが背景です。
忍者活動や大名を支える役目を果たす:
忍者と言う言葉は後の作家が言い始めたことで、本来は情報収集活動で
雇われた大名に戦況を提供するのが仕事です。そこで敵地に偲び込む等で
忍者のような危険が伴う活動を要したわけです。更に実戦にも加わりました。
古井戸 三雲城址 八丈岩
古井戸は1.9m径、深さは6.2mあり、内張りは穴太ののづら積です
甲賀郡中惣の解体:信長と六角に係わり
この中惣もやがては消えていくことになります。信長の近江侵攻とともに六角
に味方した甲賀武士は戦力の大半を失い、六角の逃げ場としていた甲賀郡
(伊賀も六角の逃げ場だった)は信長に叩かれるか信長に与した甲賀武士も
あり甲賀武士団の分裂が始まったことが伺える、と手元の文献にあります。
財団法人滋賀県文化財保護協会の編集で今回参考に使わせていただいた
文献です。これは安土町にある安土考古博物の売店で販売されており、
その他にも主に滋賀県の歴史、文化など関して編集された書物が数多く用意
されております。
水口町の国道から見た水口岡山城址のある山 竪堀跡(同城址)
甲賀破儀(秀吉によって甲賀中惣は解体)の後秀吉の重臣、中村一氏が築城。
甲賀郡を支配しました。 岡山はこの山の名が大岡山であることからだと思います。
水口岡山城:甲賀支配の拠点として築城
信長亡き後豊臣政権の下、甲賀武士団はこの勢力に吸収され秀吉の紀州攻
めに端を発した甲賀破儀により解体されます。秀吉は中村一氏に水口岡山城
を築城させて甲賀を支配します。この城は織豊系城郭(織田信長、豊臣秀吉が
築城する石垣、瓦を用いた安土城、大坂城のような城)であったとのことです。
なお、水口市内にもうひとつよく似た名前で水口城(修復されている)があり
ますが、これは後の徳川将軍家宿館として築かれた別の城です。
水口岡山城址の天守跡 大手道(?)には寒椿が雪を配して
当時もここに寒椿があったとすると、姿が変わらないのはこの花だけで、当時の武士
も暫し心を癒したことかと、ついカメラが向いていました。
郷土史の面白さ:
元々は司馬遼太郎の世界に興味があり、氏の歴史小説に没頭した時期もあり
ました。滋賀県の歴史を知っておきたい、まあその内にと思っていましたが、
この友の会で学んでいる城を知ることが郷土史に入って行くいいきっかけを
得る事になりました。例えば「近江の歴史を学ぼう」という書物が仮にあったとして
も楽しく近江を学んで行くことにはなっていなかったように思います。甲賀忍者、
なぜ甲賀に忍者が? が幸いにも楽しみながら理解出来た今を嬉しく思います。
参考文献:「甲賀郡中惣の世界」財団法人滋賀県文化財保護協会編
淡海の城友の会でのセミナーでも手元において
参考にしながら講演を拝聴させて頂いております。
「近江の山城」 中井 均先生編集 サンライズ出版
いつもこの本を手に城址を歩いています。アクセスや城址
を案内して頂いているのと変わらぬありがたい一冊です。
両著書に感謝します。
(この日記の掲載期間:2月18日ー2月24日)
今日もご覧下さいましてありがとうございました
水口・三雲の城址は、残念ながら手許の本『近江城郭探訪』(滋賀県教育委員会編)には、第12章「甲賀武士団の城」の記載区域外になっています。広がりすぎないように絞ったのでしょね。
逆に、ご紹介いただいたところも加えて、下調べをして何回かの計画で、廻らなくっちゃなあと思っているところです。
本のご紹介ありがとうございます。
さて、手許の本を見て、面白いことを見つけました。
第12章の最初のところなのです。
”「甲賀五十三家」とは”の一節。p130
「それがしだいに在地の領主として力を拡大し、同名と呼ばれる同じ姓氏や同族を許された者達が寄り集まって「惣中(そうちゅう)という組織を形成し、村の自治に当たっていた。さらに、その上位の組織として、特定地域を治めていく地域惣中やそれらを統括していく郡惣中という組織で管理されていた」
こういう記述が目に飛び込んできました。
「中惣」と「惣中」・・・・同じ組織形成のありかたを、二通りに呼んでいたのでしょうか?
興味深いですね。
名称は専門家で意見が分かれているということでしょうか?
ウィキペディアをちょっと検索してみました。「三雲氏」はないですが、「三雲成持」の項目がありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9B%B2%E6%88%90%E6%8C%81
ひょっとしてと思って、検索すると、「甲賀郡」という項目に、「滋賀県南東部一帯を占め、中世には郡中惣として自治意識が高かった。」という一文が書かれていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E8%B3%80%E9%83%A1
一方で、「惣中」については、いろいろな項目の中に、次のような使い方を見つけました。
「明智光秀今井郷惣中宛書状」「織田信長今井郷惣中宛赦書状」「大山崎惣中、織田信長に矢銭を献ずる。」「常是は銀座人とは一線を画し自ら銀座惣中と称していた。」
学芸員さんの見解を楽しみにしています。よろしく!
当日は途中で猛吹雪ですか・・・
やっぱり、暖かくなってからですね。なんせ、自分の足が頼りですから。