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郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

忍者の里、霊山を歩きました、そしたら!!

2010-09-19 10:41:18 | 甲賀郡中惣

   期せずして霊山登山と信長・伊賀衆
     のかかわりあいに巡り合えました

  =あそこの寺はなー、信長が焼いてしまいよったんや=

          
                   霊山山頂から伊賀市内を望む

訪ねたところが伊賀忍者の里:
所属の山の会で三重県伊賀市にある霊山(れいざん:765m)登山に
参加しました。登山口までの途中、農作業中のおじさんに、前に見える
山のどの峰が霊山の山頂かを聞きたくて声をかけました。ご親切にも
仕事の手を休めてこちらに来られました。
あの山並みのどこそこ、としか
お答えを予想していなかったのですが、おじさんのお陰で表題の新しい
発見(ああ、ここがそうやったんや!)に恵まれた次第です。 

      
          
霊山の麓に再建された霊山寺 

JR関西本線、仲間の後に付いて柘植駅を降りたらそこは戦国時代に
活躍、そして日本中に忍者の町として知られる伊賀市でした。
その日の登山、霊山が何処にあるのかも知らずに兎に角草津線に乗車。
柘植で降りるまで伊賀市の伊賀忍者の町に行くとは気が付いておらず、
登山はできるし道中では興味津津、周辺をきょろきょろと。しかし町おこし
の幟以外に忍者の里を偲ぶ物は目に入ってはきません。 ところが、

あの山の上にあるお寺を信長が焼いてしまいよった!
そこで当のおじさんが、ビッグプレゼントを下さいました。 さっそく聞き
かじった薄識を現場で振り返ることができました。   

       
           麓のお寺にはこのような石仏が
焼き討ちと言う先入観からかなにかもの悲しい感じがします。 山道にも何箇所か
石仏(六地堂とか)がありました。
 
 
信長が伊賀衆を集落とも壊滅:        
最近のセミナーで教わった史実で確かに信長は伊賀衆を集落共々壊滅
させています。それは佐々木六角を観音寺城で滅ぼした直後です。
理由は常に合戦に敗れると伊賀に逃げこんだ六角、つまり伊賀が六角
を匿ったことが焼き討ちに繋がるのだそうです。

今も、伊賀の皆様の心の中から消え去ること、忘れることのない史実だっ
たのです。それからもう400年以上が過ぎています。伊賀、甲賀忍者の
背景については近い時期に改めてブログに記録したいと思っております。

                    
               山頂の案内板です
           ここには焼き打ちの記述はない

小説「梟の城」は伊賀衆の物語:    
今、40年以上前に読んだ司馬遼太郎の「梟の城」を改めて読んでいます。
物語では信長への復讐、さらに没後は秀吉に向かって行きます。刀の鍔を
足場に塀を乗り越える術、忍者の役目などの背景をしっかり頭に入れて
読めるとことで、この歴史小説の新鮮さを感じております。

期せずして歴史の一端を垣間見ることも出来、霊山は素晴らしい登山となり
ました。この山に連れて行ってくれた山の会リーダ、GTOさんに感謝です。

       (この日記は9月24日ー30日まで掲載します)

      今日もご覧下さいましてありがとうございました

 

 

 

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2 コメント

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山登りが信長につながるとは (茲愉有人)
2010-09-24 23:12:46
Kennyさんに、霊山山行の後、教えていただいた『梟の城』を先日読み終えました。
司馬遼太郎が直木賞を受賞した作品だったのですね。

信長の伊賀平定で滅ぼされた伊賀者が小説の主人公ということから、間接的に伊賀の地にある霊山の山頂にあった伽藍が焼き滅ぼされたことに繋がっていたのですね。なるほどでした。

小説自体は伊賀の乱後10年余の時点からの話で、本能寺の変で殺された信長には晴らせない恨みを、信長の継承者・天下人の秀吉暗殺の請負でやり遂げようとすることがテーマとなる。なかなか読ませるストーリー展開でした。主人公を含む伊賀忍者としての価値観と行動が、あくまで個人行動主義であり、生き残りの伊賀者が敵・味方に分かれて話が展開する一方、秀吉側に属する甲賀者の阻止行動が、忍者集団としての組織行動主義にあるという点と、具体的な忍者の行動の描写が私には面白かったですね。秀吉暗殺という課題を軸に、様々な人間の思惑が複雑に交錯していく筋立てはさすがにうまいなあと感じつつ引き込まれていきました。
最後に石川五右衛門がでてくる結末への落としどころがさすが!意外でした。

さて、永禄11年の観音寺城の戦いで、織田軍に肩透かしを食らわせ、城を捨て敵前逃亡した六角承禎・義治は、実際のところ一旦どこに落ち着いたのでしょうか。
その後は、ネットの検索情報では、甲賀郡石部の城を拠点に、信長と争っているのようですね。

『佐々木六角氏の系譜』の著者である佐々木哲氏は、著者のホームページで詳細に六角氏関連について記載されていますが、そこでは「甲賀に逃亡し」と記載されています。
http://blog.sasakitoru.com/200504/article_15.html
一方、『織田信長合戦全録』(谷口克広著¥中公新書)の拾い読みをしますと、「伊賀目指して逃げ去ってしまったのである」(p62)と記されています。

谷口氏の本によると、当時の伊賀の国の状況を要約すれば:
・伊賀の国は、四方八方の峠を越せば、大和・山城、近江、伊勢・東海に繋がる交通の要衝の地だった。
・名目の守護・仁木氏に力はなく、実際には北部地域は六角氏に属し、南部地域は伊勢の北畠氏に属していた。伊賀の地は地元有力者66人の話し合いであり、信長の中央政権から独立した状態だった。
・信長の二男信雄が北畠氏の家督を継ぎ、南伊勢の実権を握った後、伊賀の領国化をめざし、伊賀攻めをしたが2度失敗していた。

信長にしたら、伊賀の平定が戦略的に重要だったのでしょうね。

山行前は全く意識していなかったのですが、霊山山頂での説明板の「伊賀の乱」とKennyさんのメールが、信長話題に一歩深く入る契機になった次第です。

返信する
いやー、歴史はロマン (Kenny)
2010-09-25 07:44:41
当事者はロマンではたまらないでしょうが、もう400年以上も前の話、許していただくとして。六角は確か(また調べておきますが)伊賀周辺で身を潜めているところを捕まったと記憶しておりますが・・・。

司馬遼太郎は学生時代に「峠」を、何かの機会に読んで司馬文学にほれ込み、全部とは行きませんがかなり集中しました。その峠は書棚の一番見えるところに今もおいてあります。そして「梟の城」を物置で必死に探しましたが見当たらず先ずは野洲図書館で借りました。そしたらその峠の2,3冊隣にありました(笑)。紙は茶色の変色して・・・。私も読み直しております。
返信する

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