沖縄の旅(そのー2)
戦後70年の節目に
「ひめゆり平和祈念資料館」 を訪ねました
(この日記の掲載期間:8月7日~8月13日)
ひめゆり平和祈念資料館を訪ねて
ひめゆり学徒隊とは
1944年12月に沖縄県で日本軍が中心となって行った看護訓練によっ
て作られた女子学徒隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高
等女学校の教師・生徒で構成されたものの名前(ウイキペディアより)
MBS毎日放送のTV報道画面より
MBS毎日放送のTV報道画面より
ひめゆりの塔
資料館配置図
ひめゆり学徒隊にはこんな悲惨な事があったのですね・・・
1945年3月23日に「動員」された当学徒隊は、敗色濃厚となった1945年
6月18日に突然「解散命令」が出され、翌日の6月19日をはじめとする約
1週間の間に多数の犠牲を出した。死亡者のうち実に80%がこの間に集中。
そのうちの10人(教師の平良松四郎と9名の生徒)は荒崎海岸で集団自決
している(ウィキペディアより)
動員命令 撤退開始 解散命令
荒崎海岸 (毎日新聞紙面より)
沖縄陸軍病院職員やひめゆり学徒隊が避難していた壕
ひめゆり平和祈念資料館のパンフレットから (部分概要)
ひめゆり学徒隊はこのように・・・
米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945年3月23日深夜、沖縄師範学校
女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒222人、教師18人は那覇市
の南東5キロにある南風原の沖縄陸軍病院に配属された。
米軍の3月26日の慶良間列島進攻、4月1日の沖縄本島中部西海岸上
陸、その後の南下に伴い当学徒隊は負傷兵の看護、他、死体埋葬までも
担い、仮眠を取る間もなくなっていきます。
5月下旬、米軍が迫る中、日本軍とともに学徒は陸軍病院を出て本島南
端部向かいます。
しかし激しい砲撃戦の中、6月18日、絶望の「解散命令」が下され戦場を
逃げ惑うことになります。砲弾、ガス弾で命を、また手榴弾で命をと・・・・、
ひめゆり学徒隊の教師・生徒240人の中、136人が。また在地部隊その
他で91人が亡くなりました。
当資料館を見学して
私がここに感想を書くことすら空しいのですが、戦争の悲惨さ、その歴史を
修整することは出来ない。だから二度と戦争をしないという誓いが今必要
なんだ、と資料館を見学し、そして新しく知ったことも含めて思いを新たに
した次第です。上述の「歴史を修整できない、戦争を二度としない・・」 の
言葉は、淡海の城友の会(滋賀県)の友人、Mさんが私のブログに下さった
コメントです。 非常に重い言葉で、全く同感、そう言うことなんだと、ここに
使わせて頂きました。
当資料館では米軍が記録した映像だそうですが、じっとは見ていられない
資料も置かれています。
ひめゆり平和祈念資料館の詳細は ここを
今日もご覧くださいましてありがとうございました
次週は「米軍嘉手納基地」の様子を掲載します。 ご訪問いただければ幸いです