遺跡発掘調査報告・現地見学に参加して(野洲市)
=古墳の傍に粘土採掘抗もありました=
日記そのー2
(この日記の掲載期間:3月9日ー3月15日)
先週の日記の続きです。
過日野洲市教育委員会文化財保護課主催による標題の会が二回に亘って
開催されました。
土器を作る粘土の採掘坑も出てきました
今回の野洲市の発掘調査では古墳や円筒埴輪、かめなどが出てきました。
そしてさらには古墳の傍から粘土の採掘抗が見つかりました。この地一帯
は広く花崗岩地質です。湖南アルプスなんかもそうですね。それが崩れて
流れたその花崗岩砂が堆積すると粘土になリ易いのだそうです。粘土採取
場があっても不思議ではないとのことです。
粘土採掘跡(上下の写真)
粘土を採掘後窪んだ穴
出土品です
出土したかめ
土器や埴輪の一部
埴 輪 (馬形、円筒埴輪の部分)
こんな時に発掘される場合が多い
大抵はその土地が造成される場合です。住宅団地、公共施設や工場など
の建設です。工事開始前に必ず調査します。趣旨は文化財保護でしょうね。
そして前述の都跡や歴史上貴重な史跡で手がかりのある内容物の出土が
期待されての発掘です。
今回古墳、粘土採掘跡が発掘された現場全景(野洲市)
素人でも簡単に見分けることが出来る場合も
土器や遊具、瓦などは見れば分かるでしょうが、あの穴や溝はどうして見
つけるの? を聞きましたが、それはその穴や溝の土の色が違うので素人
にも簡単にわかるのやそうです。でも熊手やヘラなどの道具でしゃがんで
の作業は腰や足が痛いことでしょうね。どん百姓出の私にはよくよくわかる
んです。
野洲市にだけ銅鐸が?
野洲市には古墳、銅鐸そしてこのような建物跡が多く発掘されているよう
に思えますが銅鐸以外は特別な事ではないそうです(前述)。質問をしまし
たら隣りの守山市も草津市も同じとの事でした。それは発掘の頻度、その
時の発掘の必要性の問題だそうですが、銅鐸がなぜ野洲にだけ出てきた
かはもう一つ分からないところがあるようです。ただ銅鐸は祭儀で使われる
という位置づけでポイ捨て(私が勝手に使った言葉)が出来ず周辺の集落からも
当の大岩山に埋めたのではないかとも考えられるようです。
出土品を囲んで解説を聞く
それぞれの分野で
城だ古墳だと聞きかじりの体験をさせて貰い、そうなんやーと、もう少し中に
入り込んでいる内に興味が湧いてくる、そんなもんなんだと実感しています。
それとそれぞれの分野で専門の先生方のお話を直に拝聴できることが
ありがたいです。一方、何年にも亘っての地味な研究活動で纏めた成果を
簡単に知識として会得させて頂くことに恐縮もしながらです。30数年穴掘り
をしていますが・・・、と研究員さんの言葉が今も残っています。
お断り:*このブログはKenny(野洲市在住)の私的な日記です。
*ここに記載の文言はお話下さったの先生方の内容を私の理解、
言葉で書き綴りました。聞き違いによる間違いなどもあると思い
ますが、素人の日記とご容赦ください。
*今回の調査報告、現地見学会では学術的に濃い内容のお話
でしたがここでは私の特に知りたい部分のみ記載しました。
*この日記(感想文)の掲載は主催者のご了解を頂いております。
今日もご覧くださいましてありがとうございました。
残ったところが写真のような形状になったということですか。
なかなか、おもしろいですねえ。
出土品の土器や埴輪の制作年代と、その粘土の採掘年代は同じなのでしょうか?
写真にある出土したかめは、
土師器の系統ですか? それとも、須恵器の系統?
興味深いです。
野洲駅のロータリーに、銅鐸がおいて有るのを先日見ましたが、ポイ捨て(これ、面白いです)出来ない銅鐸を山に埋めたというのも、何か昔の人の気持ちが判るように思います。色々歴史を辿れば見えてくるものがありますね。
粘土採掘跡の珍しい写真を拝見できたこと、良かったです。
弥生時代の末期には役目を終えた、しかし神聖な(だったんでしょうね)銅鐸は平地ではなくて一段高いところに埋納されてそれが近年になって偶然に、また新幹線の建設工事でたまたま発見された。今私たちは専門の研究者のみなさんのお蔭でご指摘の通りそのほか古墳だ住居跡だとそれぞれの時代の生活の営みに触れることが出来て本当に有難いです。
私なりにまた振り返って見ようと写真も必死に撮って記録に残しました。ポエムさん、コメントありがおうございます。Kenny