天山をめぐる遺跡:古墳群
野洲市の「山部会」の皆様の里山登山に参加して
古墳? 方々にある、では天山の古墳群、どうして?
Kennyの滋賀から情報発信
(この日記の掲載期間:12月18日~12月24日)
集合場所の駐車場 後方は三上山 (滋賀県野洲市)
天山(あまのやま)の古墳群を訪ねる
私達の町には立派な前方後円墳や大きな円墳が幾つもあります。野洲
市は特に古墳が多いのかと思っていましたが、滋賀県、日本のいたる所
古墳、古墳群が散在しているのだそうです。その内の野洲市にある天山
の周辺にある古墳群を見てきました。
私の過去のブログ:野洲市内にある前方後円墳
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古墳群探索コース 今回歩いた尾根筋の白い線の部分に古墳の石室が幾つか
こんなところに! それは山の尾根筋
野洲市(正確には二市一町に跨る)の希望が丘文化公園の南側にある天山
(あまのやま)の尾根筋に、私のような素人にもしっかり古墳と分かるだけ
でも5基。この日のルートで9基だったか、あるそうです。
尾根筋を登っていくと大きな石の重なりが見えてきます
古墳、石室です 平たく加工した巨石 花崗岩だそうです
築いた時の盛り土は流されて石室が露出し、このようにして残って
います。
古墳探索のコース: 約4時間(上の写真地図をご覧ください)
駐車場を出発 ー> 不動堂・行者堂 ー> 尾根に入り(その間、幾つ
かの古墳を見て、解説を聞く) ー> 天山(展望を楽しむ)昼食 ->
下山の尾根で(更に古墳、解説をいただく)。 天山の麓から尾根伝
いに山をぐるりと回り、再び不動堂・行者堂に戻りー> びわ湖学園
ー> 出発点の駐車場に帰りました。
見晴らしのいい岩場で昼食です
では古墳探索に出発です
古墳群へは、天山への登山道から一旦離れます。そして行者堂や
不動堂のある谷に出ます。
古墳群への登山口は天山と同じです
歩き始めて100m位で右に 標識はありません
不動堂 行者堂
TOPの写真のような古墳が尾根筋に現れます
この天山には30基ほどの古墳があるそうです。6世紀から7世紀
にかけてのお墓です。その墓は全てが家族墳(家族の古墳)との
事です。つまり先祖代々とは言わないまでも2,3人はその墓に埋
葬されたそうです。
古墳(お墓)は誰の?: 権力者、有力者
家族の2,3人が続いてとは言っても時は古墳時代、もう既に権力者、
有力者が存在する時代です。平民ではなくてその地の有力者(官僚)
のお墓と考えられます。棺は木製です(石室の中には石棺はみ見当
たらないことからも)。
石棺の場合は古墳の規模も大きく相当上位の権力者です。 また古墳
の形は長方形が特徴で、渡来系(四角のドーム型)ではなく畿内系の
お墓だそうです。
野洲市の進藤研究員さんの説明に、石室の中をのぞき込む参加者
以下も古墳だと思います
顕著な古墳のところ、3箇所で丁寧な解説がありました。しかし道中
で、その一つひとつは説明員に確認はできません。そこで後日再度
歩いて見てきました。決めては平たい大きな石があること、との事で
したので。
天山の二つの尾根を経て古墳を見、不動堂・行者堂のある参道に帰ってきました
そうだったのか: あとがきに代えて
希望が丘文化公園の周辺の山々を歩いていると、この辺の地質でご
つごつをした岩場が沢山あります。しかし、それとは違い、どうも人的
に重ねた、また平たい巨石が乗っていたり、とかなり様子が異なる所
があります。やはりそれは古墳だったのですね。
例えば同公園のあ北尾根に古代峠がありますが、そこに古墳としか
思えないところがあります。郷土史を研究しておる方る方に聞きまし
たところ、断言は出来ないが(記録も見つかっていない)との事でした。
しかし今回の古墳群探索で一つの疑問が解けました。
山部会、関係者に感謝します。
****************
以下は、ご参考までに、そして私の備忘録として・・・
お断り: 今回の探索での進藤研究員さんのお話と頂いた資料、そして今まで
に受講した幾つかの講座、資料を参考にちょっと記録してみました。
なにせど素人の知識です。聞き違い、勘違いの間違いだらけかもし
れませんが、素人の日記と お許しを・・・。 また、下記古墳の変遷に
付いて、かなり端折って記載してあります。
古墳(群)ってなぜあるの? 日本のどこにでもあるんですね
古墳:権力者、有力者のお墓です
それは弥生時代後半に入り、権力者、有力者が生まれてきたこと
です。弥生時代に入りお米、米作が始まりました。 食が安定する
と民は定住することになります。
お米、これはの日本の各時代の権力の基盤でした。弥生時代に入
り、土地、支配地に関わる争いが始まります。そうなると権力者、
有力者が現れます。つまり静かなムラからクニが生まれます。それ
が弥生時代後期なんです。また銅・鉄が入り鉄製武器も出現します。
余談ながら、環濠集落(*)と言って、自分の国を外敵の侵入から
守るために周囲に壕・掘りを設けたのもこの頃です。
(*)守山市にある下之郷遺跡が有名です。HPはここを
縄文時代からそれまでは狩猟が生活の基盤、みんな仲良くでした。
獲物も分け合っていたんでしょうね。
古墳時代
さて、時代は弥生時代から古墳時代に入ります。つまりクニ(国)
には権力者、有力者が現れてその権威を古墳で誇示する、それが
古墳時代なんです。
では、天山周辺には古墳を築く有力者の集落があったの?
集落の跡、古文書、古跡図にその手がかりがあります。
天山の麓には大山川を境に現在、南桜、北桜という集落があります。
そこには昭和57、61・62年の発掘調査で遺跡が発見されました。
12世紀を中心とした中世集落の遺跡の更に下層から古墳とみられ
る周溝や7世紀代の集落、弥生土器が発見されています。これらの
中世集落は村(天山等)の前身と考えられるのではと。
また、地元に残る古文書(例えば御上神社文書)に素焼きを生産する
職業集団、蓬莱衆が居住。天山村の住人が徐々に当地に移住し蓬莱
村を形成とあります。
更に、三上山古跡図(御上神社蔵)には天山山麓に観音が、その下に
天山、天山村が描かれています。
三上古跡図 御上神社蔵
「御上神社の歴史と美術」銅鐸博物館 野洲市歴史民俗資料館 編集発行より拝借
白い文字は私、Kennyの追記です
今回 探索の古墳群はこの集落の有力者のお墓に結びつくのではない
でしょうか。
まだまだ資料には情報がありますが、スペースの関係で記載が出来
ません。
当日頂いた資料、「天山をめぐる歴史」 に詳細があります。
古墳の衰退
弥生時代、それまでは銅鐸が権威の象徴です。 後期になると、国の
権力者は更に勢力をつけて、その権力の象徴が鏡・古墳となり古墳
の時代に入りますが、大和朝廷の古墳禁止令(薄葬令)が出ること
により古墳は廃れて行きます。そして火葬になっていきます。
古墳という埋葬施設は
6世紀の初め九州から近畿に入ってきます。早い所では権力者に
よって例えば現在の野洲市にある丸山古墳、甲山古墳などが築
かれます、それから数10年遅れて6世紀中頃に、それぞれ地方
の有力者(官僚クラス)の家族墳(家族の墓)として生まれてきます。
家族の何人かが続いて埋葬されました。
それにしてもあの巨岩をどうやって尾根筋の高い所に運びこんだ
のでしょうね。古墳に限らず、近世のお城でもそうですが、別の興
味を覚えます。
私の過去のブログ:雪野山古墳
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参考資料
(主として) 天山をめぐる歴史 野洲市 文化財保護課 進藤研究員
よみがえる弥生のムラ 安土城考古博物館
弥生時代のムラ 講座のレジュメ: 国立博物館 松本 武彦氏
縄文の「食」 講座のレジュメ: 滋賀県文化財保護課:
鈴木 康二氏
御上神社の歴史と美術 銅鐸博物館 野洲市歴史民俗資料館
今日もご覧くださいましてありがとうございました