知人から借りていた京極夏彦の本があり、借りてからずいぶんと手を出さずにいたんですが、映画化という話を聞いて「そういや、京極の分厚い本を一冊借りっ放しだったなぁ』と引っ張りだしたら、件の『姑獲鳥の夏』でした。
正直、分厚いのに抵抗があったんですが、読み始めるとすごく読みやすいもんで、びっくりしました。
でも、1/4読んでも事件現場にすら到達してない推理小説(あれ?推理小説ですよね、これ?)ってすごいっす。
しかも、そこに至るまでの京極堂と関口とのやり取りが無駄になってないのには、ほんと、恐れ入ります。
しかもラストシーンなんかは横溝シリーズにも通ずるような、王道的な終わり方にも関わらず、泣いちまったよ、オレ。
(おもわず、『寄生獣』のあのシーンを思い出したからかもしれません。)
わりと、小説を読む場合、いい作品ほど頭に入り込んで、その場の情景が見えてくるんですが、今回もずいぶんと見えましたので、自分の中では面白かったんだと思います。
京極夏彦自身が『爆笑問題のススメ』で”自分の本は通俗娯楽で、万人に受けなくてはならない”と云った事を仰ってましたが、いやぁ、面白かったっす、(本の厚さと、アナタの格好で)食わず嫌いしててすいませんでした。と、とりあえず西の空に向かって叫んでおきます。(京極夏彦はそっち方面だと思われる)
で、正直、映画を見るかどうか、と云われるとちょっと迷います。
よく使われる宣伝文句として『映像化不可能と云われた』とか、観た人の『やっぱり映像化不可能でした』的な言葉があるようですが、ワタシからするとどこが『映像化不可能』なのか、検討つきませんでした。たんに演出の仕方次第でこの作品の雰囲気ってのは十分表わせる、と思いますが、どうなんでしょう?
ある意味、小説を読んで頭の中にイメージが出来ちゃっているものですから、それを映画を見る事によって壊されるのはいやだな、と。
つーか、キャスティングがイメージと違いすぎているのも、、、京極=堤、関口=永瀬からして違うし、久遠寺涼子=原田知世、榎木津=阿部寛、果ては敦子=田中麗奈なんて、、、なんか全部ちがうんですよ、見事に!
オレ的には京極は無愛想かつ怪訝な顔つきのぺ・ヨンジュン(なんだろね、これ)風味なものなのです、頭ん中では。
あぁ、とりあえず、間違ってるよー、と北の空に叫んでおきます。(実相寺はどうもそっちにいそうなんで)
正直、分厚いのに抵抗があったんですが、読み始めるとすごく読みやすいもんで、びっくりしました。
でも、1/4読んでも事件現場にすら到達してない推理小説(あれ?推理小説ですよね、これ?)ってすごいっす。
しかも、そこに至るまでの京極堂と関口とのやり取りが無駄になってないのには、ほんと、恐れ入ります。
しかもラストシーンなんかは横溝シリーズにも通ずるような、王道的な終わり方にも関わらず、泣いちまったよ、オレ。
(おもわず、『寄生獣』のあのシーンを思い出したからかもしれません。)
わりと、小説を読む場合、いい作品ほど頭に入り込んで、その場の情景が見えてくるんですが、今回もずいぶんと見えましたので、自分の中では面白かったんだと思います。
京極夏彦自身が『爆笑問題のススメ』で”自分の本は通俗娯楽で、万人に受けなくてはならない”と云った事を仰ってましたが、いやぁ、面白かったっす、(本の厚さと、アナタの格好で)食わず嫌いしててすいませんでした。と、とりあえず西の空に向かって叫んでおきます。(京極夏彦はそっち方面だと思われる)
で、正直、映画を見るかどうか、と云われるとちょっと迷います。
よく使われる宣伝文句として『映像化不可能と云われた』とか、観た人の『やっぱり映像化不可能でした』的な言葉があるようですが、ワタシからするとどこが『映像化不可能』なのか、検討つきませんでした。たんに演出の仕方次第でこの作品の雰囲気ってのは十分表わせる、と思いますが、どうなんでしょう?
ある意味、小説を読んで頭の中にイメージが出来ちゃっているものですから、それを映画を見る事によって壊されるのはいやだな、と。
つーか、キャスティングがイメージと違いすぎているのも、、、京極=堤、関口=永瀬からして違うし、久遠寺涼子=原田知世、榎木津=阿部寛、果ては敦子=田中麗奈なんて、、、なんか全部ちがうんですよ、見事に!
オレ的には京極は無愛想かつ怪訝な顔つきのぺ・ヨンジュン(なんだろね、これ)風味なものなのです、頭ん中では。
あぁ、とりあえず、間違ってるよー、と北の空に叫んでおきます。(実相寺はどうもそっちにいそうなんで)