陋巷にさまよう (野を拓く 第2部)

プアなわが道とこの世を嗤笑するブログ

プア5-(3) 「不運を嘆く」のは「覚悟ができていないから」

2009-04-23 08:41:00 | Weblog
4/18(日)の朝日新聞に、
「不運を嘆く」のは「覚悟ができていないから」の文章があった。
作家の車谷長吉氏の言。
「覚悟」とは「生きる覚悟」のこと。

氏曰く、
不運を嘆くのは、虫のいい考えで、考えが甘いのだ、覚悟がないのだ」と。
更に次の様におっしゃる。(以下、ポイントを記事から抜粋)
「世には運・不運があり、それは人間世界が始まった時からのこと」
「不運な人は、不運なりに生きていけばよい」
「この世の苦みを知ったところから真(まこと)の人生は始まる」
「真の人生を知らずに生を終えてしまう人は、醜い人」
「己れの不運を知った人だけが、美しく生きている」
「己れの不運を知ることは、ありがたいこと」

すごいことをおっしゃいますのう!
まことにごもっとも。
反論のしようがない。というか、反論する気が萎える。
あまりにもストレートすぎて。
覚悟ができていない者に、そうおっしゃられてもねぇ。

少し違うかもしれないが、
煙草を吸い、肺癌になってしまって嘆く者に対し、
「肺癌になったのは、煙草を吸ったからだ!」といわれても、
その辺りは本人が一番承知。
それを承知の上で嘆く。
マンガみたいだけれど、それが人間。
そういうのをプアというのよ。
ワタシの様に。

氏は毅然と生きておられ、自身の生き様が背景にあるから、
氏の言は言として通用する。
仮に、同じことをワタシが言ったら、嘲笑を浴びせられたあげくに無視されるだけ。
しかし、世の中、覚悟も何もなく、日々身もだえしながら生きている者も多い(と思う)。
ワタシの様に。

覚悟ができていないのは、人間に欲望があるから。
言うのは簡単だけど、欲望を滅することが如何に難しいか。
お釈迦さんが説かれたときから、解脱した人は何人いるんだろうね?

ワタシの場合は、不運を嘆いても仕方がないから、それはないが(いや、少ないが)、
ただただ、オノレの能力のナサを嘆くのみ。
もっとも、車谷氏なら(上にならうと)次の様におっしゃるかも。

「世には利口もアホもいて、それは人間世界が始まった時からのこと」
「アホな者は、アホなりに生きていけばよい」
「自身がアホであることを知ったところから真(まこと)の人生は始まる」
「真の人生を知らずに生を終えてしまう人は、醜い人」
「己れのアホを知った人だけが、美しく生きている」
「己れのアホを知ることは、ありがたいこと」

そうか、ワタシは美しく生きているのか!
しかし、美しく生きるのは結構であるが、
ワタシにとっては、今日を、そして明日をどうやって食うかが先決なんだけど。。。
そして、雀の涙、蚊のナミダほどの夢と希望を何とかしたいんだけど。。。
なんて書くと、「まだ自身のアホさ加減が判っていない!」と、氏に大喝をくらいそう。 
「一からやり直せ」と。
ワタシも、できるものなら、そうしたいんだけどね。
一からではなくゼロから。

【注 そして 後記】
本文は、車谷氏の茶化しではなく、オマージュです。
ワタシは、氏の背筋がピシと張った生き様を尊敬すると同時に、
とても自分にはできないなあ、という思いを呼びおこされる。
下に記した氏のアウトラインを見ただけでも、ハンパではないことが判る。
何ごとも、中途ハンパはあかんのです。ワタシの様に。
これを読んだ、あなた。
あんさんは生きる覚悟ができてはる? 口先だけじゃあダメでっせ。

【参考】(Wikipedia より)
車谷長吉(くるまたに・ちょうきつ)氏
1945年生、「反時代的毒虫」としての「私小説家」を標榜する異色の作家。
夫人は詩人の高橋順子氏。
播州地方の方言を使った民衆言語で書く下層庶民的な生活実感は、近代と自己に疑問を投げかけている。
『赤目四十八瀧心中未遂』で第119回(1998年上半期)直木賞を受賞。
伊藤整が嫌いという理由で、同作による1998年の伊藤整文学賞の小説部門の受賞を拒否。
コメント
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