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陋巷にさまよう (野を拓く 第2部)

プアなわが道とこの世を嗤笑するブログ

仕事納め

2008-12-31 20:37:29 | Weblog
今日は、ワタシの仕事納め。
このブログを書いて、アップしたら終わり。
あと何時間かで2008年が終わりだが、何とか今年も生きのびた。
今の日本で、一年を「生きのびた」と感じている人は、そう多くはないだろう。

NHKは、まだ紅白をやっているそうだけど、結構多くの人が見ているんでしょうなぁ。
ワタシはそんなもの見ないから知らないけど。(最後に見たのは中学生頃だったか?)
また、今年は北京かどこかでオリンピックがあったそうですなぁ。
これまた、そんなものは、テレビであれ、新聞であれ、関連するものは一切見ないから、あったらしい位しか知らない。
(注)北京だからという理由ではありません。ワタシが報道で関心をもって見たのは、東京オリンピックまで。

マ、紅白にせよ、オリンピックにせよ、それだけ平和&豊かなんでしょうなぁ。

一方、世の中、大変だ、大変だと騒いでいるけど、
例えば、昨年2兆円の連結利益を出したトヨタが、今年度は営業赤字といったって、蓄積があるんだから、
蓄積がない者から見れば「何を言ってるの?」という感じ。
企業努力もあるんだろうが、そもそも儲けすぎであって、それを基準にすべきでない。
昨日の報道でも、楽天がTBS株で評価損656億円を計上し赤字、とあったが、
そもそも、ITバブル時の上場あぶく銭で得た株式なんだから、評価が下がろうが、あぶくが消えるだけじゃあないか、と思う。
まして、TBS株そのものを失うわけじゃあないんだから。
バブルは、どこかではじけるのは当然で、騒ぐ方がおかしい。
はじけた状態が正常なんだから、金融バブルだろうが、消費バブルだろうが、はじけりゃあいいんだよ。
米英を中心とする詐術金融資本主義に踊ったヤカラを助けるのも間違っている。
みんな、今までの「錯覚」を前提に考えるから、おかしな発想になる。
廃墟の中からしか、新しい思想や枠組みは生まれない。
と、何の金融資産もなく、外からの助けなどありえない(助けも求めないけど)者は、勝手にほざく。

それはともかく、
いつも何らかの課題をかかえて年を越すが、この一年は(も?)ひどいものだった。
世の中の話ではなく、ワタシ自身の話し。
春頃までは何とか息をしていたが、年末の今ではアップアップの青息吐息。
受注予定が大きく狂ってしまった。
2008~2009年をステージを(いい方向へ)変える位置づけにしているだけに、大きなつまずき。
奈落ステージに変わってしまった。
今だけを考えると、事業を止めた方が良策なのだが、来年もう一度やる。
この判断が致命傷になるかもしれない。
そうなったら、なったときの話し。

また、個人的には体力の衰えが際立った。
今年は、ガクンと一段シフトダウンしたことを思いしらされた。
これも、だましだまし、付きあうしかないが、来年からは今までの様なわけにはいかないかもしれない。

ワタシの今年全体を俯瞰すると、ズルズルと七~八歩後退し、何とか徳俵に足が残った一年。
世の中は悲観論一色だが、世の中全体がそうである程、悲観するには及ばずとも思う。
知恵をしぼって、しぼりつくすと、何か出るかも。
後退も、七~八歩ではなく、百歩後退すると、人に見えない何かが見えてくるかもしれない。
厳しい中で厳しい生き方をするのが普通の人間。
プアだったらプアらしく、世の中を斜の10乗で見て、プアの100乗でとことん貧しく生きれば、世の真実が見えるだろう。

世の中の枠組みが崩れた今、プアは何もワタシ一人ではない。
来年は仲間がたくさん増えそう。
世界中がワタシの仲間になれば、遠慮もいらず、楽しいな。
なあんて、アホなことを考えながら窓の外を見る。

どのビルも階段の非常灯だけが光る。あ、日テレだけ窓に灯がついているか。
東京タワーが見える。しかし、うつろな姿。
会社は東京タワーに近いが、オフィスの窓は東京タワーの反対側。
夜、ガラス張りの昔の長銀のビル(今はどこのビル?)の窓にタワーのイルミネーションが映る。
逆さ富士の様な感じ(上下の逆さではないが)。
普段は、ビルの照明でまだら模様だが、休日はくっきりと映る。
東京タワーができて50年、企業の興亡をはじめ、世のうつろいを見てきたんだろうなあ、と思う。
ワタシも一匹の蟻ん子として見られているんでしょうなぁ。
しかし、蟻だって、その蟻にとっては己が全て。命をはって生きている。

来年も、せいぜい悪たれをつきながら、生きてやろうかい。
仕事始めは1月2日。
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プア2-(6) 士業者はプアである

2008-12-30 08:01:04 | Weblog
プア 第2章は、実は、この2-(6)を言いたくてここまで書いてきた。
士業を目指す人たちに年の瀬のメッセージを送る。

士業-弁護士、司法書士、行政書士、公認会計士、税理士、弁理士、社会保険労務士 など、
国家資格を得て、それぞれの業務に従事する「●●士」を士業という。
(本稿では、開業者を念頭において書く。)

弁護士や公認会計士が代表選手であるが、
一般的に、高度な専門知識・ノウハウを持ち、高収入を得ている人というイメージがある。
勿論、そういう人もいるが、そうでない人も多いという現実は、意外と知られていない。

どんな仕事であっても、プロとなるとその分野の高度な専門知識を身につけており、
「士業だから」と何か別世界かの様にみるのは間違っている。
また、高収入という面では、一部のサラリーマンが高収入であることをもって、
サラリーマン全員が高収入という訳ではない、というのと同じ。

つまり、特別な世界、特別な人種ではない、ということ。
大きい事務所や士業法人等に属している人はサラリーマンと似たようなものであり、
個人開業者は、何のバックボーンもない、零細個人事業主。
街の八百屋さん、魚屋さんと同じ。

特徴があるとすれば、個人や法人の権利義務や利益に直接関与する案件を扱う仕事であるため、
失敗や失態をしでかして「ごめんなさい」ではすまないという点。

一方、上のリスクを報酬に転化できている人がどれ程いるかとなると、
「どんなもんだろう?」と考えてしまうレベル。
一言でいうと『ワリの合わない職業』。

昔は、「三年我慢してやれば食える」といわれたが、
今では、五年やっても、十年やっても、食える人もいれば、食えない人もいるのが現実。
これからは、その差がもっと激しくなると、皆さん戦々恐々。
なんでこうなった? それを分析して考えてみると良い。

昔から「イソ弁」の言葉はあったが、最近は「ノキ弁」の言葉も生まれた。
【イソ弁】いそうろう弁護士の略。自身での開業までの間、他人の事務所でコキ使われる新人弁護士をいう
【ノキ弁】イソ弁にもなれず(ならず)、知り合い弁護士に頼み込んで、その軒を貸してもらう新人弁護士をいう

弁護士はまだ良い。
現在のところ、一応は、社会的認知が高いし、成功報酬型のため、運がよければ高額の報酬を得るチャンスはある。
つまり、ホームランで一発逆転があり得る。勿論、連続ホームランも、力と運があれば、満塁ホームランだってある。

他の資格は、それがない。ひらすら単打を繰り返すのみ。
資格によっては、単打どころか、バンドヒットのみを試みる日々。
しかし、単打やバンドだって、警戒されればなかなか成功しない様に、簡単に打てる訳じゃあない。
まして、コンスタントにとなると、至難のワザ。
勿論、そういうもんだと分っていれば、それはそれで良い。
しかし、過大な期待感をもって臨むと裏切られる。
過大な期待とは、「それを裏づける能力と幸運があれば」という前提を認識していない場合におこる。

本質的に、自身がリスクを負う職業ではない。
相談・依頼者に対し、その行く手を示し、背中を後押しし、またなり代わって手足を動かす訳だから、
自分がスターになることはない。
自分がスターだと勘違いしたときは、何か問題を起こしてしまう。

勘違い、誤認識、過大な期待を払拭し、
知識・ノウハウの習得・蓄積に努め、人や会社に奉仕する仕事であることを直視すれば、
プアから脱することができるかも知れない。

この職業は、人に奉仕する精神と経済的な自立(自律)の両立が課題。
偏ると、どこかで行き詰る。

資格の優劣はなく、ただ(世の中に対する)役割の差異がある。
と、書きたいところだが、実際には、世間の評価(信用)や経済的な面で大きな差がある。
やり方によってそれを克服しようとする(低評価)資格者もいるが、往々にして利潤追求に走ってしまう。
また、乏しい懐を何とかしようと、職業倫理を横へおく者がときおりいる。

お互いを「先生」と呼び合う世界で、
互いのスネの傷を舐めあう感じがして、何だかいやらしい。
しかし、記名力が低下した者には便利なことば。

天職と考えて士業の世界に入った者を除き、殆どが元の世界の落後者。
もっとも、士業の世界の水が合う者は結果オーライ。

何かの拍子に注目をあび、どう勘違いしたのか、議員に立つ者がいる。
議員の世界が「緑の芝生」に見える。
それを待ち望む者もいる。長年やっていると、確かに、違う世界を待ち望みたくなる。

しょせんは手間賃仕事で、その連続はしんどい。
実力をつけても、依頼者には分らないから、新人の報酬と大差ない。

プライドはある。「国家試験」に合格したというプライドが(試験組でない者もいるけど)。
逆に、そのプライドだけという見方もできる。
そのプライドがないと、自分が何なのか分らなくなる。
しかし、他人からみると、そのプライドがこっけいに映る。
「国家」が認めたという「おすみつき」が唯一のささえ。
そんなものを支えにせざるを得ないココロの貧しさよ。

有資格者であることを夢みている間は良い。
それが実現して実際にその立場に身をおくと、とたんに世の寒風が身にしみる。
暫くの間は、寒風の中の暖に感動するときもある。
自分がどう生きているか、ひそかに充実感を感じるときもある。
世の中の何かをリードした気になるときもある。
少しばかり見栄もはりたくなる。
しかし、現実は貧しい(経済的に)。
我慢しながら十年、二十年やっていると、だんだん疲れてくる。
トシとともに、自分の限界を感じはじめる。
こんな生き方でよかったのかと。何か違ってしまったなあ。
そんなことは、人には言えない。
もんもんとする。
最初の志はどこへ行ったのか。

全く違うが、現象として、幕末の活動家(志士)と少しばかり似ている側面がある。
倒幕まではその意義と志操に身を挺するが、実現してみると、期待したものとは違う風景に気づく。
こんな筈じゃあなかった、どうしてこんなことになったのか、と。
仕方がないから、その風景の中で生きるが、すれ違い感覚は消えない。
一部には「違うぞ」と声を出す者もいるが、声は新しい風に吹き飛ばされる。
すれ違いを感じない者は、ただ鈍いだけ。
また、そういうことを考えない様にしている者もいる。考えても仕方がないから。
実際、考えない者や鈍い方が、生物としては適者かもしれない。
倒幕が実現する前に死んだ者は幸いだった。
鈍く生き、その生き恥をさらすよりは。
一流は倒れ、三流志士が生き残り、西南戦争後も生きたヤカラは四・五流ばかり。
もっとも、生きた彼らを三流以下というなら、今の日本は十流のオンパレード。
(十とは満つる意で、それ以上(以下)はない。)

思いつくままに好き勝手なことを書いたが、異論もあるだろう。
上とは全く違う、素晴しい士業者もいるだろう。
それはそれで良い。立派。
ただ、士業の世界を志すあなた、青い鳥症候群にだけはならない様にした方がいいよ。 
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プア2-(5) 役人は家産である

2008-12-29 08:28:23 | Weblog
前回の「プア2-(4)」(2008年12月23日)で、サラリーマンを「社畜」と呼んだ。
今回は、その連想。ただの文字遊び。
タイトルから何かを期待した人は「残念でした」。

会社に依存 → 社蓄 だから、
国家に依存するのは、国家畜 → 略して「家畜」。ただ、それだけの話し。
地方の役人なら、地方畜 → 方畜? → 放逐?

プア2-(4)で書いた辞書での「家畜」の定義(「人間が生活に役立てるために飼育する動物」)と同じ。

飼い主に役にたつ家畜はいいけども、
貢献しない、あるいは害があるものは家畜ではない。
ムダメシを食わせる必要はない。世のため、すべきでしょうな。

実行したら、役人が誰もいなくなったりして。。。。
もっとも、その方がスッキリする。

以上、今回は実りのない駄洒落でした。
実らせる努力や時間がもったいないし、ムダ。 あっち向いてホイ 
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シモネッタの肖像

2008-12-28 10:23:27 | Weblog
昨日(2008年12月27日、土曜日)、「美しきシモネッタの肖像」(サンドロ・ボッティチェリ)を見に行った。
丸紅創業150周年記念の「丸紅コレクション展」。
於:損保ジャパン東郷青児美術館(新宿)
主催:丸紅、東郷青児美術館、毎日新聞社
-- プアのワタシにはもったいない作品なのだが、これも仕事の一環。

想像以上に混んでいた。会場フロアに行くためのエレベータも並んで待たないと入れない。
会期の終了(28日まで)直前だから、そのせいかもしれない。

この作品のモデルであるシモネッタ・ヴェスプッチ(15世紀の人)は、絶世の美女とされ、
同じくボッティチェリの「春」や「ヴィーナスの誕生」も、モデルは彼女とされている。
⇒ 絵画は、こちらの丸紅コレクションを参照されたし。

「シモネッタ」の他に、ゴッホ、ゴーギャン、モネがあった。
これは丸紅コレクションではなく、東郷青児美術館の常設作品。
ゴッホの「ひまわり」は、ゴッホの狂気の発露でギラギラしたものをイメージしていたのだが、くすんでいる様に見えた。
経年変化もあるだろうし、それは仕方がないか。

丸紅コレクションでは、西洋絵画の他、日本画、丸紅「あかね会」の衣裳図案や、江戸期の着物(復元を含む)が展示されていた。
江戸期の衣裳は、想像以上に立派。
現代の風景や街にマッチするかどうかは別として、なかなかももの。

美術館でもない丸紅が、これだけのコレクション(勿論、展示物が全てではない)を所蔵しているとは驚き。
丸紅あかね会の衣裳図案に、竹内栖鳳、堂本印象、菊池契月、伊東深水のそうそうたる画家を集結させるなど、
創業者の伊藤忠兵衛のスケールや恐るべし。
(注)丸紅と伊藤忠は同根で、戦後の財閥解体で分割

あまり寒くなく、幸いでした。 
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年の瀬から正月へ - 天下泰平ですなあ

2008-12-27 10:46:46 | Weblog
毎年のことだが、12月の夜の駅周辺は人で混雑している。
言うまでもなく、忘年会。
ワタシが帰宅する22時以降の新橋駅周辺は、人、人、人。
23時を過ぎると、時として歩けない。正に「ひとごみ」。
新橋を象徴するおっさんサラリーマンだけではない。若い女の子でも、酒に酔って奇声をあげている者がいたりする。
みっともない。
こういう時を含め、非日常的な時に、その人間の本性が出る様に感じる。

しかし、まあ、ホントに日本は平和だね。平和ボケ社会。
金融危機がどうの、減産がどうの、雇用がどうのなんて、関係ない顔をしている。
まあ、忘年会だから、いろいろあった一年を忘れようと思うのも分るが、
一時的に逃避しても、問題がなくなる訳じゃあないだろうに、とも思う。

新橋だからどうせ安酒だろうが、それでもその金を出し、
クリスマスにはケーキを買い、
正月にはおせち料理を作るか、買うかをし、
年賀状を書き、
紅白を見、
初詣にでかけ、
といったおなじみのパターンは、みなそれなりの金や時間が必要になる(除くTV)。
節約している家庭も多いだろうが、それでもそれなりの支出になる。

その余裕、まさしく天下泰平だね。そういうことができるんだから。
ワタシなんぞ、上の様なことは一切ナシ。
そんな時間も金も、何もない。
上の様なことは、そもそもプアには無縁。そんな調子だから、更なるプアに拍車がかかる。

これからの年末から正月にかけて、西新橋や虎ノ門、霞ヶ関は、人がいなくなる。
特に三が日が顕著。
人がいるのは、箱根駅伝が通過するときの日比谷通りくらいか。
カラスが鳴くのが妙に目だつ。
いっときの過疎地。

イヤハヤ、天下泰平ですなあ。
100年に一度の危機なんて言いながら、年末年始は働かないんだから。
働かないで、危機だ、危機だ なんて、アタマが狂っている。
食料がないのに、マスゲームや軍事パレードの練習を一年の半分しているどこかの国みたい。
勿論、ときに休むのも大いに結構。
ただ、コタツに入ってミカンを食べながら、「大変だ」、「大変だ」なんて他人事の様に言いなさんな! と思う。
当人はそんなつもりではないだろうが、
プアマンから見ると、「パンがなければお菓子を食べれば?」と言ったというマリー・アントワネットと同類に見える。
贅沢ボケした社会。
こんな調子じゃあ、本物の危機になっても当然ですな。 
まさに来年はそうなるわけだけど。
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世情

2008-12-26 08:29:02 | Weblog
過日の(世でいう)休日に、youtube でBGMとして音楽を聞きながら、単純業務をしていた。
順繰りに適当な音楽を流していたら、あれ?という曲にぶつかった。
中島みゆきの「世情」。

初めて聞いたが、なかなかいい曲。
歌詞が面白い。ただ、言わんとする意味が今一分らず、仕事をさておき、歌詞を検索した。
それを読んでも、やはりよく分らない。
分ろうとするのを止めた。
闘うべき相手は、先ずはオノレじゃあないの?
戦いをいどむという、そのゴウマンなオノレを先ず標的とし、総括すべき。
世にいどむのは、その後だ。

この歌をカラオケで歌おうとした場合、ワタシには難しい。ワタシは音痴だから。
しかし、中島みゆきの歌は肩に力が入っている感じで、もう少し力を抜けばいいのにと思う。
人によっては、その力むのが彼女の良さと言うかも知れない。
動画の中で一番いいのが「幕末の志士達(世情)」。
youtube で、上のタイトルで検索してみてください。

それら「世情」の動画の中に、これは何? というのがあった。
⇒「外山恒一氏の政見放送(BGM:中島みゆき「世情」)」

思わず噴き出した。
久しぶりに笑うことで涙が出そうになった。
外山恒一という人を知らなかったけど、都知事選に出た際の政見放送とのこと。
都民なら知っているかも(ワタシは殆どの時間を都内で過ごしているけど都民ではない)。

いまどきの世に、こういうアホがいるとは。
このブログを読んだ方は、一度覗いてみてください。一服の気分転換で。

それはともかく、ワタシが想像したのは、このブログを読む人が感じる印象は、
ひょっとすると、ワタシが上の政見放送を見て笑ったのと同じ類いではないかということ。
つまり、アホなブログと、笑われているかも。  
個人的には笑われてもかまわないけど、仕事への影響がありやなしや?
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家族ごっこ

2008-12-25 08:40:51 | Weblog
クリスマスは家族ごっこの日。
子供にとっては、ケーキを食べ、何かもらえる日。

ず~っと、基督教徒が僅かである日本で、マスコミを筆頭に何でクリスマスで騒ぐのか不思議でならなかった。
(ビジネスで、米国を中心としたクリスマス商戦が大事なのは分る。)

最近、やっと分った。気づくのが随分と遅いんだけど。
それは「家族ごっこ」なんだと。
誰が先導したのか知らないけど、知恵者がいたもんだ。菓子業界の誰かだろうか?
逆に言うと、そうした「擬似家族ごっこ」がはやる、社会的な、病理学上の問題が潜んでいる様に思える。
まあ、ワタシにとってはどうでもいいことだけど。

イエス・キリストの誕生日とされる日と、各民族の風習が混じりあってクリスマスになった様だが、
キリストの誕生日は知っていても、お釈迦さんの誕生日を知らない若い人が多い今の日本社会は、
どうも社会としておかしいと感じるのはワタシだけ?

基督教徒が多い国の人に言ってやれば面白いかも。
日本のクリスマスは、そういう茶化した日だよと。

ワタシのクリスマス?
そんなものワタシには関係ありません。関心もありません。普段と何も変わりなし。  
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プア2-(4) サラリーマンは社畜である

2008-12-23 17:29:27 | Weblog
家畜-辞書でひくと、「人間が生活に役立てるために飼育する動物」とある。
野生動物でないため、飼いならされると自身で餌を確保することができなくなり、人間に依存してしまう。

同じ様に、会社に依存して生きる人間は「社畜」と呼ばれる。
勿論、同じサラリーマンでも会社に依存せず、毅然と自律して生きる人もいる。

イメージとしては、全体を100として、
(自律 20) --- (自律と社畜の中間 60) --- (社畜 20) だろうか。

次期米国大統領のオバマ、一滴でも黒人の血が混じっていれば黒人といわれる例にならえば、
少しでも社畜の匂いがすれば社畜 → 80%が社畜となる。

生産手段を持たないサラリーマンが、その生産手段を会社に依存するのは当然のこと。
そういう意味の依存ではなく、
「知恵+労働力」の研鑚を重ね、それを価値あるものとして会社内で顕在化できているかどうか、
または、そうすべく努力しているかどうかが問われる。つまりは、働く姿勢の問題。
それが出来ていれば「自律グループ」、そうでなければ「社畜」。

「自律」は、会社がどう転んでもそれなりに生きてゆけるだろうし → 自立、
「社畜」は、会社から見放されると生きてゆけなくなる。

勿論、殆どのサラリーマンは、上に書いた様なことなど先刻承知。
このままではイカンという問題意識もある(ない者もいるが..)。
けれど、いつの間にか、社畜になってしまう。

オレは違うゾ。会社なんぞ、利用すればいいんだよ。
自分中心にやれば良い。他人や会社のことなんぞ、知るもんか。
日系企業でもそうだが、より外資に多いね。この手の者が。
ああ、何という傲慢さ。ああ、何というプアな思考。不毛の砂漠を連想させるアタマ。
世の中が自分中心に回っていると錯覚している。というより、何も分かっていない。
めくらが蛇におじないのと同じで、余りにも知らなさすぎる。自分自身も、世の中のことも。
それこそが社畜なんだよ。
まあ。そんなヤカラは手をかける必要はない。放っておけば良い。

同様に、日系企業の中高年も同じ。
年功序列など、とっくの昔の話しなのに、その幻想・残像がアタマに残っている。
今の処遇を当たり前と思っている。
アタマを冷やして、今の働き(会社に対する貢献)と処遇を比べてみるが良い。
自分の能力と貢献が、組織に寄与しているかどうか。

勿論、数字だけでは計れないが、単純計算でおおよその見当がつく。
自分が、月次給与の3~5倍、或いはそれ以上の利益貢献をしているかかどうか。
利益を計数化しにくい業務もあるだろうが、その場合は、外注や派遣社員に切り換えた場合の費用を充てて代替する。
3~5倍を上回っていれば良い。そうでないならば、真剣に考えた方が良い。
何を? - 決まっているでしょう。アンタは社畜なんだから、社畜の運命を。

中高年の場合、別の角度でいうと、自分が他の者をはるかに凌駕している何らかの領域を持っているかどうかも重要。
つまりは、プロサラリーマンとして世の中を渡るに足る何かを持っているか否か。
タマにはいいけども、新橋辺りで酒を飲み、街頭インタビューでアホな答えをしているんじゃあ、あかんのですよ。
視聴者は、ごきげんのダメサラリーマンの一言、という目で見ているんだから。

若い女性だって同じ。
(日曜日の)「噂の東京マガジン」に出て、アホねえちゃんと笑われているんじゃあ、どうしようもない。
結婚をした後、子育てがしっかりできる基礎訓練を会社・社会でしておかないと、後悔するゾ。
チャラチャラ生きているだけじゃあ、どうしようもない。
ただ単に言われたことだけをやっているんじゃあ、上のアホねえちゃんと同じ。

少し横道にそれたが、どうして社畜になってしまうのか?
やっぱり、人間の弱さというか、流れてしまうから。
自分で必死になって餌を確保しないと飢える野生動物と、餌を与えられる家畜とでは、自ずから生き様も、鍛えられ方も違うということ。
多い少ないは別として、毎月給与という餌が手に入る訳だから、どうしても安住してしまう。危機感が薄い。
人間、窮地に追い込まれないと本気にならないが、窮地を脱する知恵と馬力がないと、いくら本気になっても同じこと。

「武士道」-いろいろな言い方があるが、
我欲の塊である「私」を捨て、「私なき奉公」(注)を生き方の中心におく、その精神、とも言うことができる。
  (注)磯田道史氏(茨城大学准教授)の表現
勿論、全ての武士がそうであった訳ではない。
我欲そのものの武士もいただろうし、中途半端な者も多かっただろう。
しかし、それを追求した少数者もいたから、求めるべき道、精神として残った。
彼らは、世の中の変遷に右往左往せず、彼らなりの生き方を貫いたに違いない。
毅然と生きることを欲し、何かにすがったり、依存する人生を廃除する。
つまり、プアとは対極の生き方。

今の日本で「私を捨てる」といっても通用せず、そんなことを言う必要もない。
しかし、金や名誉などではない、人生のブレない軸を持つ、或いはそれを追求する重要性は、今も昔も同じ。
その軸の有無が、社畜であるか否かを分ける。

ワタシ?
う~ん #$%&  答えるに窮するが(←いい格好をしたいのだが、できないため)、 
背筋をピシと張った生き方をしたいと願いつつ、いつも猫背になっているから、
上の基準では、ワタシも社畜か。
プアであるのもうなずける。
困ったもんです。
「人の振り見て我が振り直せ」 - ワタシの今日の教訓。

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プア2-(3) 部課長は女工である

2008-12-20 15:42:44 | Weblog
ここでいう女工は『女工哀史』の「女工」を指す。
今年は、『蟹工船』(小林多喜二)がブームらしい。
蟹工船で、安い賃金で酷使される出稼ぎ労働者の姿が、現代の非正規雇用者群と重なる面があるという。
現代のワーキングプアは、「蟹工船」の様に闘争に立ち上がるのか、またそのパワーを有しているのか。

一方、『女工哀史』は、同時期(1925年、大正14年)のルポルタージュ(細井和喜蔵、ほそい・わきぞう)。
紡績工場で働く女性労働者(女工)たちの過酷な生活が描かれている。

『あゝ野麦峠』も同じ(山本茂実、1968年)。
しかし、当時の農家の実情も悲惨なもので、女工になった方がマシであった事実もあるという。

念のため確認してみると、、
当時の紡績業や製糸工場の労働時間は、紡績業で昼夜交代の12時間制、製糸業では15~18時間。
たこ部屋のような寄宿舎で、食事は貧しい賄い付き、 とのこと。
上の作品は女工に焦点をあてているが、男の職工も同じ境遇。
厳しいのは男も女も同じで、女だけが収奪された訳ではない。

では、現代の日本では社会情勢や労働環境が良くなっているのか?
「名ばかり管理職」ではないが、1日12時間以上働くサラリーマン、管理職なんて、今の日本にザラにいる。
そうしないと会社は負け組みに入り、自分も振り落とされてしまう。
考える暇もなく、とにかく自転車をこぎつづけないと倒れてしまう。
会社での責任、家族への責任がのしかかる。
管理職としての社内外の付きあいも殆どは仕事だから、それを加算すると女工どころではない。
女工時代は、職場と寄宿舎は隣接しているから、通勤時間が片道1~2時間なんてムダもない。

単に労働時間を過ごせばよい訳では勿論ない。見える「成果」を出さねばならない。
アホな上と、あかんたれの下に挟まれて、しんどい思いをしている人も多い。
内心、フト「女工哀史の時代はよかった」と思う管理職もいるだろう。
口に出さないだけ。口にするのは弱音であり、管理職不適格とみなされる。
思わず書いたけど、この勝ち組、負け組も変な言葉だね。奇形児的な価値観がその背後にある。
まあ、何もかも狂ってしまった世の中だから、へんてこな価値観が蔓延するのは当然かも知れない。

しかし、今の中高年世代は、2000年前後にいい経験をした。
女工哀史を上回る頑張りでふんばっても、結局リストラという名の首切りで、梯子を外された。
結局、結核などの病気にかかった女工と同じ。何も変わっていない。
「リストラ」は、本来は事業の再構築を指すが、あっという間に「首キリ」の意になった。
人間は、本質を見抜く名人だね。

今、世の中は、かっての2000年前後の事態を上回る雇用情勢に近づきつつある。
来年(2009年)は悪夢の再来になるだろう。
組合は、「ベア復活」なんて時代錯誤のアホなことを言っている。
それらの皺寄せは、全部管理職の雇用にくるんだぞ。

そうだ! いっそ、思い切って、会社&仕事&生活の価値観をガラリと変えてみようか。
鉄道のポイント切り換えの様に、本当の自分らしい路線へ。
車窓も一変し、新しい空気を吸うと、自分を取り戻せるかもしれない。
しかし、ポイントを切り換えそこねると、奈落行きになる。
ワタシの場合は、ワーキングプア行きとなり、脱出方法がパラレルワールドへのワープしかない様になってしまった。
  (注)参照 → プアについて(3)2008年11月23日、同(4)2008年11月30日
ワタシの様に、本当の自分を目指す筈が「ワーキングプアへの道」の可能性大。
本当の自分とはワーキングプアだったのか?
ワーキングプアは、何も人のことではないんだと気づかされる。
  (注)参照 → プア2-(1)ぼくちゃんの人生 2008年12月10日
一つ歯車が狂ったら、みんなそうなる。誰も助けてくれない。
心して臨まなければならない。

ここまでの努力の結果をみすみす捨てるのも忍びがたい。
家族に何て話そうか。当然に問われる。「家のローンや子供の教育費はどうするの?」
う~ん、方向転換も容易ではない。今の道を進むしかないのか。
仕事の合間にそんなことを考える日々。
同僚の方向転換を、羨ましく思うと同時に、バカだねとも思う。
それが管理職の現実。「オレは違うぞ」という方はご同慶の至り。
いずれの方も、汗と涙がムダにならない職業人生をおくりたいものですな。ご同輩。   
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理解できないこと-例えば「環境」で

2008-12-18 08:50:31 | Weblog
世の中には、ワタシのプアなアタマでは、どうにも理解できない人たち、会社等がある。
いっぱいあるけど、例えば、人類全体が関係する環境問題に関していうと、

●「資源を大切に」と言いながら、自社が関係するマラソン大会で(紙の)旗を配り、沿道の人にふらせる新聞社
●環境問題を正論で評した後に、スポーツコーナーでゴルフを話題にするニュースキャスター
●環境を論じながら、深夜放送をするテレビ局
●原発反対といいながら電気を使う人(最低限のものは仕方がないが)
●環境が大事といいながら、「遊びで」クルマを乗り回す人(遊び以外は別)
●エコなガソリンですとPRしながら、ガソリンを売る石油会社      などなど

本当に環境問題を考えるなら、最低限度の社会を維持するものは別として、昔に戻せばいいだけの話し。
すぐに「それは無理」とか何とか言うけど、そういうのがダメなんだよね。
やれば出来るのに、何のかんのと言い訳をして、やらないのが人間。
ワタシなぞ、その典型だから、よくわかる。

報道では、1970年頃のCO2排出量水準に落とすことが課題らしい。
では、そうすれば良い。何故しないの?
とどのつまり、個人も社会もその気がないんだよね。
ワタシは、1970年頃の生活にすることなど、別に苦でもない。若い頃の生活に戻すだけの話し。
同世代では、そういう人も多いと思う。
例えば、
・家庭では、原則として冷房ナシにする
・業務用は除き、家庭での自動車もナシにする
こんなこと、昔は当たり前。昔といっても、ついこの間の話。

勿論、打撃を被る産業もあるだろうが、人類そのものの生存を考えると致し方ない。
誇るわけでも何でもなく、例示としてワタシ自身の話しをすると
自分の部屋は2年前まで冷暖房ナシだった。
過去形なのは、2年前に息子が家を出たので、その部屋に移った。
息子の部屋はエアコンがあるので、夏は寝るときに時々使う。使わないなら、使わなくても良い。
ちなみに、自宅にエアコンを入れたのは32歳頃で、子供も小学校にあがるまではエアコンはナシ。
クルマの保有歴ナシ。
通勤で最寄駅まではバイク。昔は自転車だった。自転車に戻しても構わない。

まあ、これは単純にワタシが貧しかった(今も)からそうなっただけの話しで、
別に意識してそうした訳ではないのだが、昔に戻る、戻すことは簡単なこと、と言いたいだけ。
要は、その気があるか、ないかの違いだけ。

●代議士や識者が、冷暖房がきいた部屋で環境問題を論ずる、このアホらしさ
→ 環境省や、そのお役人様の自宅は、当然にエアコンはないんだろうね? 扇風機だろうね?
ある? マサカ!

論ずることで、問題解決に近づき、社会に貢献しているかの様に錯覚する。
「会議は踊る」は何も昔だけのことではない。
ハダカの王様も、子供向けのおはなしではない。
何やかやと言いながら問題先送り。それが今の現実。
要するに、社会全体が プア なのよ。  
ワタシだけじゃあなく、あなたも同じ。
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