陋巷にさまよう (野を拓く 第2部)

プアなわが道とこの世を嗤笑するブログ

お役人さまバンザイ(吸血鬼は永遠です)

2009-06-30 08:40:44 | Weblog
昨日の日経のコラム「春秋」に、次の記事があった(2009年6月29日朝刊)。

大手金融機関の企画担当者の話。
コスト削減の大号令が下り、ボーナスカットを我慢し、コピー1枚も倹約。
しかし、調査委託費や情報料などの名目で、官僚OBが営む「研究所」に年間数千万円のカネを支払っている。
それどころか、給与銀行持ちで研究員を派遣し、シンポジウムのたびに黒塗りの車を用意し、宴会の費用まで負担させられている。
見返りの情報は、政官界のうわさ話と大差ない内容。
カネを振込んでいる若手行員が、職場で怒りをぶちまけた。
なぜ、こんな法外な金額なのか、なぜ振込先は個人口座なのか、と。
上司は返答に窮したに違いない。

というのが記事のあらまし。
しかし、その上司は、何も答えに窮する必要はないんだよね。
冷静に、事実を、そのまま話せばよい。
例えば、

『オマエは、まだ日本の社会が判ってへんなあ。
日本は、ず~っと昔から、そして、今もって役人天国なんやで。
知らへんの?
役人は、現役時代は勿論、リタイヤ後の約束された役得だけを夢みて生きてんのや。
役人は、本質的にニギニギ名人。
本能的にその臭いが好きやし、臭いをかきわけて役人になる。
世の中の仕組みは、食物連鎖と同じく吸血連鎖。
上位の者が下位の者を食い物にする。
銀行は、上位に血を吸われるけど、同時にもっと下位のものからふんだくってる。
偉そうなことを言っても、銀行の本質はそうなんよ。
我々の職場も、給与も、その連鎖の中にある。
つまり、オマエが生活できるんも、その吸血の連鎖最上位の吸血鬼はんのおかげなんやで。

怒るオマエには選択肢が二ぁつある。
一つは、その連鎖を受入れ、自分も蚊さんレベルの吸血の存在になること、
二つは、最上位の吸血鬼をたたき殺し、血塗られた腐りきった輪をぶっ壊すこと、
どっちかや。
好きな方を選んだらええ。』

と、率直に話せばいいんじゃあないの?

あ、蛇足ながら、次も話しておく必要があるかも。
三つめの、「吸血鬼はんに血ぃを吸わん様にお頼みしよう」なんて、
太陽が西から登り、雨が地から降ってくる様なことは考えん方がええよ、と。
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派遣村が閉村

2009-06-29 08:42:02 | Weblog
派遣村実行委員会が6月28日に解散したという。
この委員会が何をしてきたのか、よく知らないが、
行政の形だけの社会施策を監視し、風穴をあける意味で、多様な活動形態は好ましいと思う。

ただ、なぜ今、解散するんだろう?
派遣切りに対し、緊急避難的な活動を行い、
行政の対応に問題提起をした点は評価されるだろうが、
これらの問題の本質に対してメスを入れるのはこれからではないかと思うけど。

活動に縁がない者が、口を出す筋合いではないんだけど、
腑に落ちないから一言書いた。
活動のステップアップのために、一度、区切りをつけるのであれば分かるが。。。

派遣村の援助を受けた人たちの就労は厳しいとのこと。
確かに容易ではないだろうが、若い人なら何とかなるだろうに、とも思う。
希望する職種や条件を満たそうとするならば、そりゃあ、ないだろうよ。
そんな仕事があるなら、ワタシだって応募したい。
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疲れますなぁ

2009-06-27 21:22:09 | Weblog
今週の後半は、何だか疲れましたなぁ。
ことさら何をした訳でもなく、出張に出ただけなんだけど。。。
出先では、何時間か話した後、「はぁ~」という感じ。
加えて、外へ出ている間は一つのことに集中すればよいが、
戻ってくると、不在時のツケが待っている。

どういう訳か、来月も、再来月も同パターンの案件が控えている。
講演行脚もいいかも、なんて思ったけど、とてもじゃあないが、身がもたぬ。

昔と違って、一晩寝たらOK、という類ではないんだよね。
何というか、オーバーな言い方をすると、命を削っている様な感じ。
トシだから仕方がない、といえばそれまでだけれど。。。

このところ、永田町あたりがザワザワしているけど、
アソウにせよ、誰にせよ、あやつらは元気だねえ。
ヒトをくって生きている、生命力旺盛な連中にはかないませんなあ。

資料を持って帰ることにして、今日はオシマイ。 
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プア6-(6) 貧窮問答歌

2009-06-26 08:50:16 | Weblog
トンボがえりで太宰府へ行った。
あまり時間がない中で、帰路に太宰府政庁跡にだけ立ち寄った。

昔の「遠の朝廷(とおのみかど)」の跡地。
広大な跡地の中央に石碑がたっていて、往時をしのばせる。
また、周辺の山並みの柔らかい線もよい。
雰囲気的には、藤原京に似ている。
政庁跡を眺め、大伴旅人や家持、そして山上憶良を連想した。

ワタシに近しいところでは、山上憶良に『貧窮問答歌』がありますなあ。
昔は、山上憶良には心情的な反感があったが、最近はそうでもなくなった。
何に対する反感か?
- 憶良は、社会的弱者を詠んだ歌が多く、一種の社会派歌人といわれるが、
所詮テメエは貴族じゃあないの。
「下層階級への温かいまなざし」なんていうけれど、
上からの目線で弱者を詠むとは、何ともイヤラシイヤツダというもの。
70数歳まで生きたそうだが、当時は、健康状態が余程良好でないとそのトシまで生きられない。
それだけでも、下層階級の者とは天地の差の生活を想像する。
というもの。

まあ、しかし、それは今の時代の感覚からそう思うのであって、
当時としては、貴族が民衆に眼を向けることはないから、上から目線とはいえ異色は異色。
今の価値観で見てはいけない。

今、山上憶良が生きているとすれば、プアなワタシや世をどう詠むだろう?
現代版の貧窮問答歌(答えの部分)。


天地(あめつち)は 広しといへど 吾が為は 狭(さ)くやなりぬる
日月(ひつき)は 明(あか)しといへど 吾が為は 照りや給はむ 人皆か
吾のみや然(しか)る わくらばに 人とはあるを 人並に吾も作るを
<ここからもじり>
クルマ無く 携帯も無く スイカ無く びっこを引きつつ とぼとぼ歩き
崩れつつあるボロ家の内で 何とか三度のメシを食いつつも ただそれだけの日々
世を見れば 総理が声は ころころ変わり 年寄りは明日の糧に心奪わる
若者は年金その他の国家詐欺に泣かされ 律令時代とさほど変わらず
<元に戻って>
かくばかり すべなきものか 世間(よのなか)の道

世間を憂しと恥(やさ)しと思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

山上プア男頓首謹みて上(たてまつ)る


糊口をしのぐだけの生活が続くと、
社会の本質は、憶良の時代と何も変わっていない様な気がする。
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プア6-(5) ワークシェアリング政策の実態

2009-06-23 08:51:44 | Weblog
昨日(2009年6月22日)の日経の記事を読んで笑ってしまった。
ワークシェアリングについての、上場企業に対するアンケート結果。

その話しの前に、
今年の3月に「政労使の合意で日本型ワークシェアリングを進める」という報道があった。

どうやって取り組むんだろう? と不思議に思い、3月21日のブログでそのことを書いた。
- お手本として、先ずは国や自治体がやったらどうか、というもの。
いろいろな方法論の案も書いた。

現実はどうか?
今回の報道によると、次のとおり。
(調査は、新日本監査法人とアイーンスト・アンド・ヤングによる)

●ワークシェアリングを導入済の上場会社は? - 5%
●時間外勤務の抑制は? - 行う 68%
●未導入会社で、今後導入する予定は? - 今後も導入しない 92%

笑っちゃうね。
要するに、賃金抑制で残業をさせないだけのハナシ。
「政労使でワークシェアリング合意」な~んて、ハナから形だけ。
世相を見て、こりゃマズイと思って、そのときだけ、やるソブリをした。

簡単にゆかないのは、誰がみたって最初から判っている。
理念や全体としては賛成しても、個別の話しとなり、自分の利害がからんでくると、誰も動かない。
勿論、人間社会、致し方ない面もある。
だったら、「政労使で合意」な~んて、大花火を打ちあげなければ良い。
或いは、ホントウにやるのなら、本腰を入れてやれば良い。
ところが、さも「やるぞ」的なポーズをとって、そぶりを見せる。

政労使といったって、役所が敷いた道を歩いているだけ。
役所は、世間の機運が消える、又は薄くなれば知らんぷり。
目の前の煙を消す格好をして、幸い消えればシメタもの。
それは自分達の成果。
消えなければ、消えないので、次のポーズを見せれば良い、というもの。
それが日本の行政。
伝統ある行政ビジネスモデル。
不滅の原理。
⇒ ベンチャービジネスを目指す者は、こういう不滅のモデルを構築しないといけない。

今となれば、年金の100年安心だって、その場しのぎのキャッチフレーズだったことは子供の目にも明らか。
政権が変わっても、この役人天国、役所追従の世にメスを入れないと同じこと。

ワタシは、アタマもココロもプアだが、
上の確信犯的、悪意が潜んだ「大プア」の行政・政治・労組・経営には、とてもかなわない。
参りました、と降参でござんす。
世の中のプア - 上には上がいるものでございますなぁ。

いや、違う。
ワタシの様なシモジモの者は、超有能なお役人様のなすことには、敬意を表さなければならない。
お奉行所のいうことに、たてつくなんてとんでもないこと。
葵の御紋には、はは~~ッ、とジベタにひれ伏さねばならない。

そのときは、お役人様もやろうと思ったんだよね。
しかし、難しいと気づいた。
こりゃあマズイ。
じゃあ、知らなかった、言わなかった、なかったことにしよう。
で、シャン、シャン、シャン。
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「二十歳の原点」から40年

2009-06-20 18:08:49 | Weblog
昨日の朝日新聞夕刊(2009年6月19日)、
ふと見ると、一面に懐かしい写真があった。

記事は、 反逆の時を生きて [1] - わが娘の「二十歳の原点」。
写真は、「二十歳の原点」の高野悦子さん。
彼女は、今も二十歳。
チャーミングな面立ちは、変わらない。
かたや、あの頃二十歳だった者は還暦を迎えつつある。
あれから40年か、という思い。

懐かしい写真といっても、ワタシは彼女に会ったことはない。
ひょっとすると、どこかですれ違ったことがあったかも知れないけど、
ワタシが知るのは、死後、日記が「二十歳の原点」として出版されてから。
そして、本を手にすることはないが、数年に一度、ふと高野さんのことを考える。

記事の中に、関川夏央のコメントがあった。
ここではその内容を書かないけど、少し違う様な気がする。
彼女は葛藤した。それでいいように思う。
くだらない世を、くだらなく生きるよりは。
関川夏央は、のちに評論「1969年に二十歳であること-『二十歳の原点』の疼痛」を書いたという。
ワタシは読んでいない。
読もうとは思わない。
人には、それぞれの1969年がある。
しかし、時代の悪意は、表れ方は違えども、いつも同じ。
(こういう感じ方が、小説家なり評論家と、普通の人間との違いなんでしょうな。)

高野さんのお母さんは、ひな人形を飾っているという。
「おひな様をいつまでも出しておくと、お嫁にいけないといわれますが、もうお嫁に出すこともないので...」
とのこと。
いつまでも飾るとよい。
お嫁にゆくことはないが、悦子さんを忘れない者はいますから。


【蛇足】
「二十歳の原点」は、今春、カイゼンという出版社から新装版が出たという。
若い読者向けに註釈もつけたとのこと。例えば、フランスデモ など。
確かに、そうかもしれない。
ワタシの周囲でも、若い人は、例えば シュプレヒコール を知らない。
時代なんでしょうな。

記事によると、若い企画者(36歳)は、「あの頃の熱気、なぜか、僕にはよくわかりません」
とのこと。
別に、わからなくてもいいけど、
この人には、明治維新や、民権運動や、大正デモクラシーなどなど、
わからないんだろうな、と思う。
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プア6-(4) 子供の名前(重湯箱桶読み)

2009-06-18 08:46:45 | Weblog
「六四 天安門事件」(6/13)の蛇足として、重箱読み、湯桶(ゆとう)読みに触れた。
最近の社会的な現象としての子供の名前を連想したので、それを書く。

その前に、少し整理すると、
 重箱読み=「音・訓」読み ⇒ 重箱(ジュウばこ)
 湯桶読み=「訓・音」読み ⇒ 湯桶(ゆトウ)

●重箱読みの例
  台所(ダイどころ)、本屋(ホンや)、番組(バンぐみ)、新橋(シンばし) など

●湯桶読みの例
  朝晩(あさバン)、豚肉(ぶたニク)、見本(みホン)、手帳(てチョウ) など

当て字から来ているものが多いと思うが、
人間の氏名でも、重箱読み、湯桶読みがある。
「氏」が訓+「名」が音 は全然おかしくないが、
氏や、名自体が重箱読み、湯桶読みになっている場合がある。

政治家でいえば、「久間(キュウま)」は重箱読み、
「武部(たけベ)」、「石破(いしバ)」は湯桶読み。
柳沢伯夫は「ハクお」で、重箱読み。

氏の場合はアテ字から慣用の範疇に入っていると思うが、
最近の子供の名前となると、??? が増えている。
近年、仕事の中でそれを感じる。
漢字だけでは読み方が分からない。

個性的な名前にしたいだの、字に法的規制があるからだの、いろいろな理由が考えられるが、
要するに、音の響き中心にアテ字をしたり、格好いいと思える字を並べ、好き勝手な読み方をする。
好き勝手な読み方とは、音・訓ゴチャマゼに読むということ。
重箱読み、湯桶読みどころか、重湯箱桶(ジュウゆはこトウ)読み。←造語デス
もう、メチャクチャ。

名づけた親は、格好いいと思っているのかもしれないけど、
他人からみると「珍名」だったり、
名づけた時点ではそれらしく響いても、年月がたつと違ってくる可能性もあるだろう。
とりわけ、誰も意図した様に読んでくれないなど、
親が期待するほどの効果はない様に思う。
それどころか、そうした命名で、親のアタマの水準や性格の一端が分かってしまう。

漢字の人名や地名の読み方には、法的な制約がある訳ではないから、
「犬」を「ねこ」と読んでも、
「一郎」を「さぶろう」と読んでも、ダメというわけではない。
ただ、誰もその様には読まない。
それを承知しているのか、そうでないのか知らないが、アテ字の音・訓ゴチャゴチャだと、
名づけ親は(+子供本人も)、
  ①言葉のルールを知らないのか
  ②ルール無視の性格か
  ③アタマの中がゴチャゴチャなのか
など、いずれにせよ「プアなアタマ」と思われるだけ。

  この名前は何と読むんですか?
  ●●●●です。
  へえ、格好いい名づけをしましたね。

な~んてことを意図しているとすれば、
その名前にもよるが、内心ではバカにされている可能性があるんですよ。
ただ、面と向かって、そうは言わないだけの話し。

しかし、そうした親が増えているというのは、
日本人のアタマの水準が「プア」になってきているんだろうか。

(注)帰化人で、元の名前を漢字に置き換える場合など、理由がある場合は除きます。
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市町村の減少→抜本策

2009-06-17 08:59:06 | Weblog
政府主導の市町村の合併で、自治体の数が随分減った。
よくわからない名前の市が増えた。

1999年時点で 3,229の市町村が、今では 1,776だという。
これで、ますます過疎化が進むだろう。
過疎化が問題といいながら、結局はそれを加速させている。

財政難などの背景があるのだろうが、
理念や必然性のない、国主導の無理やり合併は、将来に禍根を残すだろう。
それほど合併を進めたいなら、あるいは合併で問題が解決するなら、
全国を「日本市」一つにしてしまえばよい。
道州制なぞはない。
あるのは、日本市の中で、今の県は「町」に、市は「大字」に、町は「小字」に。
すなわち、大字小字制。

あるいは、上の案を少し改良し、次はどうか?
①全国の全ての市町村が大同団結し、合併する。
  ⇒ 賛同しない市町村は除く。多分、現在の政令指定都市は賛同しないだろう
②結果、殆ど全国をカバーする一つの市となる
③その市が、権限の拡大を要求し、自治をどんどん進める
  ⇒ 国が首をタテに振ろうが、振るまいが、勝手に進める
④折をみて日本国からの独立を宣言し、ニュー日本国を創る
  ⇒ 旧(原)日本国が認めようが、認めまいが、圧倒的多数であれば問題ナシ
  ⇒ 地方には、水と食料(一次産業)があるんだから、それを武器にする
⑤結果として、(原)日本に二つの政府ができ、我々はいずれかを選択できる

どんなもんでっしゃろ?

これを読む人は、アホなことを書いていると思うでしょうなあ。
そうではなく、要するに、問題は合併する、しないということではない、ということ。
合併して問題が解決するなら、全部合併すればいいのよ。
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政府に尋問の筋之あり

2009-06-15 08:57:19 | Weblog
先週末、総務大臣を辞任した際の鳩山邦夫発言
-「政府に尋問の筋之あり」 が、鳩山発言の真意はともかく、政府に反旗を翻す意味にとられている。

少々、違和感がある。
西郷の心境としては、自身が正当であり、文字通り、尋問または問罪のために上京するというもので、
反旗というより、むしろ君側の奸を除く意識が強かったのではないか。
理想とはほど遠い状態になってしまったとはいえ、自分が中心になって作った政府なのだから。
また、それを裏づけるのは、自分はまだ陸軍大将であるとの意識であったと思う。

西郷の周辺の思惑も、様々なものがあったであろうし、
結果として、西南戦争となり、勝者の側の歴史から、反旗を翻す言葉の様になった訳だが。。。

いずれにせよ、鳩山が大西郷を気取るのは、
人物もさることながら、国全体への影響力も全く違うのだから、
意気込みはともかく、あまり感心しない。
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六四、天安門事件

2009-06-13 17:00:53 | Weblog
天安門事件20周年ということで、先週から論評がさかん。
早いもので、もう20年になる。
年月のうつろいを痛感させられる。

現代中国の本質があぶり出された事件。
その後の経済成長で、問題の焦点がぼけてきている部分と、更に問題が深化している面があるが、
人民解放軍が人民に銃口を向けたこと、それが全てを物語っている。
一党独裁もさることながら、「権力」というものはすべからくそうだということが。

最近思うのは、中国人にとっては、一党独裁が向いているのではないか、という点。
「民主化」は耳に心地よいが、どうも中国にとって、あるいはこれからの世界にとって、
ホントウに目指すべき目標なのかどうか。
そんな20世紀の遺物の様なものを追うのではなく、
新しい価値観、新しい仕組みを追求すべきなんだろうけどね。

役人の腐敗がひどい?
しかし、それは中国では 4000年前から同じこと。
政権が変わっても、利権とたかりの構図は何も変わらない。
そして、権力は必ず腐敗する。
その帰着点(の一つ)が、天安門事件。
外から見ると、その腐敗は中国人民そのものに見える。
程度の差はあれ、日本も同じこと。
アジア全体が同じ社会構造。
一見、少しマシの様に見える国や社会は、その手口が巧妙になっているだけ。
今、問題になっているイギリスの政治家の利権構造だって、本質は同じ。
人間、いつになっても変わらない。
中国で「民主化」が実現されたとしても、本質は何も変わらない様に思える。
では、今のままでいいのか?
いいワケがない。

何だか、どうどうめぐりですのう。
何も分かっていないくせに、分かった様なことを言うなと叱られそう。


【蛇足】-よく分からないこと
今は、いや以前からなんだろうけど、天安門事件を六四とも表現する。
中国での表現を、日本でも用いる様になったのだと思う。
その日本語の読み方で、
上の場合の「六四」は、一般的に「ロクよん」と読むらしいけど、
五四運動の「五四」は、「ゴシ」と読む。
何故に「四」の読みが違うんだろうねぇ?
互いに関係がない分野であればともかく、上の六四と五四は、社会的な事件として対の様なもの。
読み方など、慣用・慣習だといえばそうなんだけど、
なんでだろう? ご存知の方がいたら教えて欲しい。

五四 → ゴシ=「音・音」読みで違和感なし
六四 → ロクシ=「音・音」でOK
六四 → ロクよん=「音・訓」となり、ん?
ロクが2文字だから、語調なり字数のバランス重視で、言い(読み)出しっぺが「よん」と読んだのか?
その日本人は、自分の読みを復唱してみなかったんだろうか?
あるいは、その後に使っている(発音している)者は、不自然さを感じないのだろうか?

読み方は、慣れてしまえば、そういうものだとなってしまうものだが、
慣用にまでいっていない場合は、重箱読みも、湯桶(ゆとう)読みも、やはりおかしい。
(この重箱読み等で、最近感じていることを後日に書く。)
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