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名優、藤山寛美と酒井光子が四つに組んだ松竹新喜劇「銀のかんざし」(館直志作)を、この正月に改めてDVDでみなおした。この芝居を初めて知ったのは小学生の時のテレビ放映である。毒を含んだ大人の男女の世界の芝居にもかかわらず、その頃の私は面白おかしいやり取りを観て、ただげらげらと笑っていた。毒性のある生薬も修治とさじ加減で毒にも薬にもなることを知ったのは、遥か後になってからである。
芝居の筋書はこうである。大正時代の京都、酒井光子演じる女髪結いの年増のおかつは、若い亭主の清之助と暮らしている。おかつは片時も清之助をそばから離さず、多くの顧客が付いている仕事も片手間になっている。若いながら腕は良い大工である清之助の行く末を心配した周囲は、二人がしばし別居して各々の生活を立て直すことを提案する。嫌々ながら因果を含められ、再び暮らす日を指折り数えていたおかつであったが、ひょんなことから別居が二人を別れさせる算段であったと知る。おかつは一人酒をあおり、剃刀を胸に倒けつ転びつ家を後に、ひたすら清之助がいる棟梁の家をめざすのである。
一升瓶の酒をどんぶりに注ぎ、目を据え出来上がってゆくくだりは、酒井光子の独壇場であった。清之助がもう戻ってこないという絶望、自分を騙した者達への怒り、飲み干すにさらに思いが高まりゆく姿は、ひたすら哀切で凄愴である。結局、殴り込みをかけたおかつは皆にかつがれ家に押し戻される。ひとの顰蹙など知るものかと酔いつぶれたおかつに向かい、俺だ、おかつ起きろ、しっかりせえと、帰ってきた清之助が一つの決心を胸に呼びかける。その姿を認めた時、ふたたび逢えたという万感の思いとともに、おかつは胸元を掻き寄せ乱れた鬢の毛をかきあげる。誰の眼も気になどするかという女が、唯一その男の前でみせるしぐさがひとしお憐れに映る。俺は決めた、おまえのもとに居るという言葉に泣き続けるおかつを抱き寄せ、清之助はもはや何も言えず立ち尽くしているだけの周囲の人間を振り返る。そして、おかつが秘かにこしらえていた銀のかんざしで足止めした藁人形を示しながら言う、ここまで女(おなご)に惚れられたことがありますかと。
おかつも清之助も、年は違えども人情も義理もなおざりにしない時代に生まれ育った。元来二人共に、腕が立つまでその技を磨いてきた職業人であるという設定に、どのような展開を踏ませても決して汚れた男と女には落とさないという作者の意思を感じる。清之助を見ると、女にぶら下がって得をするという打算も、ぶら下がりと見られる自分を恥じる卑屈さとも無縁の男である。ピュアで可愛げがあり、しかも気の優しさ故の押しの弱さは、おかつに惚れられ、そしておかつに魅入られる所以である。天才役者、藤山寛美は期待にたがわぬ貫録で、他の演目と異なる準主役の抑えた演技でありながら、このいまだふらふらと足場が固まらぬ、しかし花と艶がある若い男の姿を余情豊かに演じている。
国も時代も離れているが、映画「ローマの休日」で、オードリヘップバーンの王女は愛した新聞記者に別れを告げ、二度と戻ることのない市井の生活を後にして、彼女が属すべき世界に帰って行った。それは元々彼女がいた世界に違いないが、再び其処に立つことを自らの意思で選んだのである。銀のかんざしの結末は、世間から見れば、また元の鞘に納まったにすぎない。しかしおかつのもとに居てやると決心した時、清之助もまた何かを捨てて新たに何かを選び取ったのだ。文字通り髪結いの亭主と女髪結いであった、清之助とおかつの立場はここに逆転する。清之助はおとなの男になり、真におかつの亭主に成ったのである。さぞかしこのたびの事で風評はたったに違いない。狭い業界において、これからまだまだキャリアを積まねばならない清之助は確実にハンディを負っただろう。それでも捨てる神あれば拾う神ありなのだ。このふたりなら乗り越え活路を開いてゆくだろうと思わせてくれるエンディングであった。