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大学入試センター試験が近づくと思いだすのだが、国語に「鐔」が出題されたことがある。その設問の一つは「「私は鶴丸透の発生に立ち会う思いがした。」とあるが、それは何故か。その理由として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。」の五択問題であった。長文読解で一々内容を味わって心を躍らせていたならば、絶対に点数など取れませんと、以前、現代の受験生のお一人にきっぱりと断言されたことがあった。その年の受験生も年を経た何時の日か、かつての『鐔』を新たな感慨とともにまた読み返す日を迎えるのだろうか。
高校時代の『徒然草』を教材にした授業で、初めて小林秀雄の名前を知った。兼好法師を評して「評家は彼の尚古趣味を云々するが、彼には趣味という様なものは全くない。古い美しい形をしっかり見て、それを書いただけだ。「今やうは無下に卑しくこそなりゆくめれ」と言うが、無下に卑しくなる時勢とともに現れる様々な人間の興味ある真実な形を一つも見逃していやしない。」(「モオツァルト・無常という事」、p66)と書かれてあったが、その頃の私はその真意を果たしてどれ程理解出来ていたのか。
末尾の写真は『小林秀雄 美を求める心』のp180-181に掲載されている、今回の「鐔」の最終の一節と「舞鶴透鐔」(永青文庫所蔵)である。本書は2002~2003年に開催された生誕百年記念展「小林秀雄 美を求める心」(日本経済新聞社、新潮社)を記念して出版された。ここには小林秀雄の御眼にかなった絵画や骨董、作品百五十有余が、評論の一節とともに掲載されている。その冒頭の「美を求める心」(新編 日本少國民文庫 第九巻『美を求めて』、1957年収載)では、知識や学問が偏重される今日、部分や要素に分けてゆくことにより物の姿を壊してしまう危険性に言及して、そのもの全体を一目で感ずる能力を培うことの大切さについて、他の評論とは異なる平易な言葉を用いて書いておられる。このことは暗黙知と形式知を対比する観点に通じている。
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